第18話

 玄関先に置かれている黒のステーションワゴンのせいなのだろうか、小奇麗ではあるものの、枯れた静かさの中にたたずむ一軒家は、なぜかどす黒い空気に包まれているように見えた。

 その家は借家なのだが、生あるものが暮らす気配をまったく感じさせない。その家の大家ですら、開錠することを躊躇しそうな門を、あえてくぐって中に入ってみると、その室内もまた漆黒の空気が充満していた。

 薄暗い室内に局所的にスポットが当てられている。この家の借主は、まるで光を嫌っているようだ。壁に貼り付けたメッシュのボードにかかる多種多様な工具。透明ビニールで密封された台所の中央には、頑丈な実験台がある。そして、その上に整然と置かれた様々な形のフラスコや試験管。

 視点をリビングに移して見ると、リビングの机の上に香水を入れるようなガラス瓶がふたつ置かれている。それぞれの瓶には、頑丈に閉じられた栓の中に透明な液体が入っていた。

 突然男が口元に笑みを浮かべながら、影の中から姿を現わす。

 そして、机の上の瓶の片方を手に取った。彼はついソマンの成分の分離に成功したのだ。地域暴力団への試みは成功したものの、ソマンをより効果的に使用するためには分離化が不可欠な要素だった。

 暗闇に向って男は乾いた声で笑いだした。これで二成分式化学兵器(binary chemical weapon)が、間もなく完成する。その見通しが出来たことが、愉快でたまらないのだ。


「いよいよだ」


 男は瓶を慎重に机の上に戻した。


「世の中には駆除されなければならないゴミが多いからな」




 翔子は叔母と共に、診察の順番がくるのを、病院の外来ロビーのベンチで待っていた。

 叔母に付き添ってきたのだが、やってきたこの病院が、偶然にも坊ちゃん先生にナンパされた病院であったことに、翔子は少なからず驚きを覚えた。

 ロビーで叔母と話しながらも、なぜか目は坊ちゃん先生の姿を探していた。


「ねぇ、翔子ちゃん、聞いているの?」

「えっ、聞いてますよ…。それで?」

「それでじゃないわよ、お見合いよ、お見合。練習のつもりで一回してみたらどう?」

「えっ、またその話し…。でも、お見合いに練習も本番もないでしょう」

「とにかく一度バイクから降りて、男の人とお茶でもしなさい」

「世話になった叔母ちゃんの命令なら何でも聞くけど、こればっかりは…」

「なによ、こればっかりは、こればっかりはって…」

「だって…」

「何なの?付き合ってる人でもいるの」

「うう…」

「無理ね」

「何が…」

「お兄ちゃんの墓前で彼氏を紹介するなんて一生無理だわ」

「そんなことないわよ」

「あら言ったわね。なら、いつ?」

「その気になれば、次の法事にだって…」

「ホーホホホ。笑かしてくれるわね」

「いくら叔母ちゃんでも、言いすぎじゃない?」

「翔子ちゃんが、見え透いた嘘つくからよ」

「嘘じゃないもん」

「それじゃ私の、この目の前に連れてきてよ。そうしたら痛い膝ついて土下座して謝ってあげるから」

「そんなこと言って、いいの?」

「いいわよ。喜んで土下座するわ」

「ほんとーに、いいの、叔母ちゃん」

「無理しちゃって…。土下座で足りなかったら、今度の法事にあなたの好きないなり寿司作ってあげるわよ。しかも五目飯でね」

「言ったな、忘れるなよ。いいか、知らないぞ…」

「どうした、弾丸翔子。顔が蒼いわよ」


 翔子は目をつぶると、意を決したようにロビー中に響く声で叫んだ。


「たつやーっ!」

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