第19話
病院の全職員が達也を見た。
実は何も知らない達也は、白衣のポケットに手を突っ込み、入院患者の往診を終えて、診療室に戻るために、ロビーを横切っていたのだ。
「へっ?」
いきなり自分の名を呼ばれた達也は、驚いて声の主を見た。
「ここよー」
「へっ?…トリニティ?」
実は翔子はすでに達也の姿を見つけ出していて、このグッドタイミングに現れた彼を利用して叔母ちゃん相手に一か八かの勝負に出たのだった。
一方、事態が飲み込めない達也は、首を傾げながらも翔子の手招きに応じて叔母の前に出た。女性に冷たいはずの達也先生が、見知らぬ若い女性に名前で呼びとめられるという異常事態に、病院の全女性職員が息を潜めてことの成り行きに注目している。
「叔母ちゃん、紹介するわ。私の彼氏の上田達也さん」
翔子が言った彼氏という言葉が、病院に翔子の予想以上の波紋を引き起こした。
全職員のどよめきが、遠くへ伝わるに従い、さざ波から津波へと成長して病院内に広がると、若いナースなど涙ぐむものさえ現れた。
腕を取られて紹介された達也は、驚いてその腕を引き抜こうとする。しかし、翔子がそうはさせじと抑え込む。
『愛犬のお礼に何でもするって言ったでしょ…』
『だからっていったいこれは…』
『いいから、すぐ終わるから』
突然彼氏を紹介された叔母は、驚きのあまり、ふたりの囁きあいなど耳に入らない。
「上田さんって?この病院のご次男の?」
「ええ、まあ…」
そう返事をした達也は、翔子と叔母を交互に見ながら、話しの筋を探ろうとする。しかし、一向に何が起きているのか理解できない。
「翔子ちゃんたら、いつの間に…。しかも、上田総合病院の御子息だなんて…」
ああ、トリニティの名は、翔子っていうのか…。とりあえず、達也は彼女の名前だけは知ることができた。
「ね、叔母ちゃん。あたしだって、やる時はやるでしょ」
「やるって…何を?」
達也の声が不安で震え始めた。
「上田さん、翔子の兄の法事にはぜひ来てくださいね。美味しいお稲荷さん作りますから」
よっぽど嬉しかったのだろう、そう言って達也の手を握る叔母の目は潤んでいた。
「法事?」
「さぁ、叔母ちゃん。達也さんもお仕事で忙しいでしょうから、お話はまた法事の時にでもね」
「だから、法事って何?」
「そうね。翔子ちゃんの言う通りだわ。お仕事中すみませんでした」
「それじゃ達也さん。あとで、電話するから」
「電話って…どのでんわ?」
「え、また携帯を新しく変えたの?どんな携帯?見せて!」
意味もわからず達也が白衣のポケットから自分の携帯を出した。
「まあ、素敵!」
翔子は達也の携帯を奪い取ると、すばやく自分に電話をかけワン切りする。
「ほら、携帯返すわ…それじゃ、お仕事頑張りましょうね」
投げ返された携帯を、慌てて両手で受け取る達也。
彼は翔子に背中を押し出されて、結局話しの筋が1ミリもわからないまま、診療室へ戻ることとなった。途中廊下でふりかえると、翔子と叔母が笑顔で自分に手を振ってくれている。
達也は小さくお辞儀をすると、首を傾げながら診察室へ向かった。
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