第17話

「この方を上田総合病院へ搬入してください。今、急患の受入体制を指示しましたから…」


 聞いたことのある病院名に、翔子が改めて医師の顔を見た。

 驚いたことにその医師は、自分をナンパしようとした金持ちのモテモテ坊ちゃんだったのだ。


 救急車を見送ると、達也は道路で何かを探し始めた。どうやら救命に急ぐあまり、自分のヘルメットを投げ出した場所を忘れてしまったようだ。ようやく野次馬も去っていった路側帯の縁石の間から、自分のヘルメットを見つけ出すと、埃を払って小脇にかかえる。真新しいシルバーのヘルメットが日差しに反射して輝いていた。


『そう言えば、あの坊ちゃんはバイク教わりたいって言っていたわね…』


 翔子は、興味を持ってトボトボと自分のバイクに戻る達也を見守った。

 見ると、達也のバイクは堂々と路面に横たわっている。達也は何度か起こそうと試みたが、バイクはその身を起こしてくれない。やがて力も使い果たすと、その傍らに立って、どうしたものかと途方に暮れていた。

 以前ナンパしようとした女だと悟られたくなかった翔子は、ヘルメットのまま達也の傍に近寄ると、彼の肩に手をかけた。


『任せてもらえますか』


 言葉は発しなくとも、その意味が伝わったようだ。相手が女性だと気付かない達也は、こんな華奢な人がこんな重いバイクを立てることが出来るのかと訝しく思ったが、とにかく自分の位置を譲った。

 翔子は、かるくハンドルとフレームに手を添えると、ハンドルを少し起こし接地する前輪のタイヤをロックする。そして半円を描くように身体を動かすと、彼女の体重に誘われてわずかにバイクが動いた。

 作りあげたその小さな動きを逃さずに、ロックされたタイヤをコテの支点にして、見事バイクを立ちあげたのだ。達也は、まるで神の奇跡を見たかのように手を合わせて立ちすくんでいる。


「ありがとうございます」


 翔子はあらためて達也のバイクを見た。事故を起こしたライダーに意地悪されたバイクは、達也だったのだ。

 達也は、メットを付けるとバイクにまたがり、セルボタンを押す。エンジンはうんともすんとも言わない。慌てて何度もボタンを押す。セルが動く気配がまったく無かった。


「ええっ、どうやって帰ったらいいんだ…」


 頭を抱える達也に、翔子は近づくと、右のグリップにあるキルスイッチをONにした。そして、セルボタンを押してやると、今度はセルも回って見事にエンジンが掛った。


「ああ、知らない間にキルスイッチがOFFになっていたんですね…。バイクのビギナーだってバレバレですね、へへへ…」


 それがたとえ自分に意地悪をしたライダーであろうと、人命がかかれば自分のバイクが傷つくことも厭わず、駆けつけてきた坊ちゃん先生。

 そして冷静な判断のもとに、救命のための迅速な処置をおこなう。その時の彼は、坊ちゃんとは言ってはいけない、何か別な存在であるかのように感じた。ヨロヨロしながらも走りだした達也の後ろ姿を、今度は翔子がいつまでも見送っていた。

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