第7話

「神経ガスに曝露した時の初期症状としては、鼻水が出て、呼吸が苦しくなり、瞳孔が収縮するといったものがあります。症状が重くなると呼吸困難となり、吐き気、唾液過多。さらに重くなると体全体が麻痺し、嘔吐や失禁などの全身症状が現れます。これらの症状は筋肉の収縮と痙攣が原因となっており、最終的には昏睡状態となり痙攣を起こして窒息死に至ります。また、死を免れた場合でも、一旦現れた障害は長期に渡って残存することでも知られています」


 副院長は、会議室のドクター達に向き直った。


「皆さんもご存じの通り、戦時中にドイツで開発されたこれらの神経ガスは、化学兵器としても認知されており、国際連合から大量破壊兵器としての指定も受け、化学兵器禁止条約により、多くの国で製造と保有が禁止されています。しかしながら化合物ですので、高度な知識と設備があれば、どこででも作ることが可能であることは言うまでもありません」


 スクリーンに周辺地図が映し出される。


「事件が起きた地点はここです。警察は現在、犯人逮捕に全力を傾注しておりますが、もし再度毒ガスが播かれた場合に備え、政府は事件が起きた基点から50キロ以内のすべての病院施設に、治療薬として有効な有機リン剤中毒解毒剤であるPAM(プラリドキシムヨウ化メチル)を緊急配備するよう通達を出しました」


 続いてPAMの写真とデータ資料が映し出された


「当病院も一両日中にPAMが増量配置されるでしょう。ただし『ソマン』の場合、他の神経ガスと比べて、結びついたアセチルコリンエステラーゼを不可逆状態にエイジング(老化)してしまう時間が短いので、数分以内に投与しなければ効果がありません。各ドクターは万が一の事態に備えて、手元にお配りした資料と対応マニュアルを熟読いただけますようお願いいたします」


 副院長の説明が終わった。長男の説明に満足した院長は、次男の達也に目を向ける。しかし彼の寝ぼけマナコは一向に変わっていない。院長は膝の上で拳を固く握って怒鳴り出す自分を必死にこらえた。

 しかし達也にしてみれば、ことの重大さを理解していて、事件が起きたその日に、兄が説明したことなどとっくに勉強済みなのだ。兄の努力と成果は父親が見えるところでおこなわれる。しかし達也は父が見ているところではしなかった。

 父親に対する反抗ではない。ただ自分がしていることを父親が気に入るかどうかわからないから見せられないのだ。自分が何をしたいのか、何をしているのかも言うことができないのは、彼が父親を恐れるが故であった。当然目に見え、耳に聞こえるものしか信じない父親は、達也の努力と成果に気付かないまま今日に至っている。


 最後に、院長の締めの言葉があり、会議は終了した。それぞれの診療室に向うドクター達。病院長が達也に声をかけた。


「達也、ちょっと来い」


 達也は小さくため息をつくと、観念したように病院長の前に進んだ。


「先日の休日当直を替わってもらったそうだな。何処へ行ったんだ?」

「えっ、ああ…」


 その日は大型自動2輪の実技検定だった。普通2輪の倍の苦労をして、やっと大型の免許検定も合格するができた。もちろんそんなことは父親には言えない。


「友達の家族の法事で…」

「それに、母さんから聞いたが、この前ふくらはぎに、火傷して帰って来たそうだな」


 軽い火傷だったが、達也が誤ってマフラーに足を付けてしまってできたものだ。これにはなかなか言い訳が思いつかず、返事のしようが無い。


「一体お前は何をやっているんだ?」


 相変わらず答えを言いよどむ達也に、父親がついにキレた。


「自分の好き勝手ばかりしていないで、少しは兄を見習って、地域医療に貢献できるよう努力したらどうだ」


 院長はそう言って席を蹴って会議室から出ていってしまった。反論もせず、言い訳もせず、達也は黙って父親の言葉を受入れていた。

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