第6話
「…結果、判決では病院側に責任が無いことが認められ、今回の医療事故については全面勝訴となりました」
早朝の連絡会議。大会議室では、達也を含む眠そうな15人のドクター達相手に、事務長が必死に議事を進行している。上座には達也の父である病院長。そしてその横に兄の副院長。
病院長は、だるそうに議事を聞くドクター達に多少いらついているようだ。特に達也。頬杖をついて今にも閉じそうなまぶたで議事を聞いている彼の姿を見ると、身内だけにそのいらいらも一層つのる。
「次に、先日起きた毒ガス事件ですが、使用されたのは神経ガスの『ソマン』であると警察から発表がありました。その件につきまして、副院長よりご説明があります。副院長どうそ」
達也の兄が席を立ち、パワーポイントを使って説明し始めた。
「神経ガスは有機リンの一種で、神経伝達を阻害する作用を持つ化合物の総称です。そのひとつである『ソマン』は無色無臭の液体で、気化させるとあのサリンを上回る極めて強い毒性を示します。化学式はC7H16FO2P」
副院長はスライドで化学合成式を示した。
「機序としては、神経伝達物質であるアセチルコリンを分解する酵素アセチルコリンエステラーゼの働きを阻害します。つまり、筋肉を収縮する神経伝達物質の伝達を阻害し、筋肉の活動を停止させてしまう作用があるわけです。ですから、慣習的に『神経剤』と呼ばれていますが、脳内の中枢神経や感覚神経に対する作用はいたって弱く、実質的には筋肉の正常な動きをできなくするコリンエステラーゼ阻害剤として分類されます」
副院長が、会議出席者を見渡した。会議室の澱んだ空気を読みとったようだ。
「ソマンの致死量は、1立方メートルあたり 70ミリグラム。つまり、ヤクルトの容器にソマンを5分の1ほど入れてこの机に置き、気化させると…」
副院長が机を手のひらで、ダンと叩いた。その音でドクター達の目が覚めたようだ。そんなパフォーマンスを、院長は嬉しそうに眺めていた。
「この会議室にいる半数が死に、残りはなんとか命を取りとめたとしても、生涯後遺症に苦しむことになるわけです」
院長が達也に目を向けると、兄の大仰なパフォーマンスには慣れているのか、彼の眠そうな目に変化はない。院長は怒鳴りつけたくなる衝動に襲われたが、副院長のプレゼンテーションの邪魔は出来ないと、なんとか自分を抑えた。
「体内への主要な侵入経路は吸器系ですが、皮膚からも吸収されるため、安全に取り扱うには防毒マスクを含む全身防護服が必要となります」
副院長がパワポのスライドを変えた。そこには、神経ガスの犠牲となった人々の写真が生々しく映し出される。
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