第3話


 二人は関所を抜けるために領境の山の、けもの道を進んでいた。マルムは、息切れしている彼女を引っ張るようにしながら、道なき道を進んでいた。今まで通ってきた街でマルムが王家からのお達しでお尋ね者になっていたことと、マルムが「仕事」をしていた際に、ルーメン教の紋章を付けていた兵士が主要な施設を警備していた。なので関所を通らずに領境を越えることにしたのは、なるべく目立たないようにしようとマルムが考えた結果だ。


 自分の生い立ちを珍しく熱くなって喋りすぎてしまってから、巫女はずっと考え事をしているようだった。その証拠に、巫女の身長ぐらいある目の前の大きな岩にも、こちらが引っ張って誘導しなければぶつかってしまいそうになる有様だ。

 上の空と言ったその様子と、こちらに追いつこうと肩で息をしているのを見て、彼女の体力が近いだろう、と感じていた。そんなときにちょうど、休憩をとるのにちょうどよさそうな空洞を見つけた。


 空洞の中に薄布を敷き、巫女を座らせる。自分は入り口で外に気を配りながら、腰を下ろした。先はまだ長いから、無理をすれば自分だって危ない。

 巫女に水筒を渡し、自分は周囲に気を配らせていると、彼女が息を吐いた後、こんな言葉を投げかけた。


「マルムさん、この空の上には神様がいるんです」

またルーメンの話か、と受け流していると、


「ですから、空にある太陽や月、数多の星々は、神々が私たちを見守ってくださっている証なんです。まあ、ルーメン教の教典に書いてあった話なんですけどね」

「見守っている証、か……」


 マルムはそう呟くと、彼女を横目で見ながら、

「じゃあ、おれが人のもん盗ってることも、ルーメンの巫女をさらったことも、全部筒抜けってわけか。そりゃあ、『加護』とやらにも無縁なわけだ」

自嘲するマルムに、彼女は落ち着いた口調で、しかし確かな意思を持ってこう言った。


「そうですね、マルムさんのおっしゃる通りです。しかし、マルムさんが生みの親から捨てられた、という苦しみも神々は見ています。空の上から神々は、この世のすべてを見ています。ですから、マルムさんが親に捨てられて生きる術が無くなっても、助けてくれる人が現れたのは、きっと神様がマルムさんのことを見てくださっていて、親分さんをマルムさんの元に導いてくれたのでしょう」


 自分が命の恩人と出会ったのは、神の導きだった……マルムは、そんな風に考えたことすらなかった。そもそも、「偽善」まみれの「ルーメン教の教え」の中にそんなことが書いてあることすら、知らなかった。


 ルーメン教の人間は皆『偽善者』……そう思って生きてきたが、この女は違うのかもしれない。「巫女」の秘密を、ある事情で知っていた彼は、「巫女」ではない彼女のことを知りたくなった。


 洞穴を後にし、彼女の手を引っ張りながら、マルムはあくまで進行方向を向きながら、歩みを少し緩めて問いを発した。


「お前、神殿でどんな暮らししてたんだよ」


「そうですね、朝は日の出と共に起きて、身支度をしたら王宮の方へ礼拝して、昼は神々や王族の方々に祈りを捧げたり、ルーメン教の教典を書庫で読んだりしていました。そうして、夕日がウィクトルの街を照らす頃に夕食を食べてから、王宮に向かって礼拝、沐浴を済ませた後礼拝をして、床に就いていましたね」


「そんな生活毎日していて、飽きなかったのか?」


「物心ついた時からこういう暮らしをしていたので、習慣になっていたんでしょうね。それに教典は、王宮の第一図書館の次に大きな規模を誇る書庫に、収まり切らないほどの冊数があるんです。ですから、教典を読むことで毎回違う発見がありました」


「じゃあ、さっきの話は、その時読んだ教典の話なのか?」


「ええ。『ウィンクルム創世記』という題名の、初代国王がウィンクルム王国を作った時の、いわば『昔話』みたいなものでしょうか」


 ふーん、と話を聞くマルムの顔が、いつも見るそれよりも、柔らかなものになっていた。


 山道が下り坂になり、出口が見えた頃、彼女は前々から気になっていたことを聞いた。


「私の事、なんて呼べばいいのかわからないのではないですか? 人前では『巫女』だなんて言えないでしょうし、あなたから『お前』と『巫女』以外の言い方で、私を呼んでくれたことはありません」


マルムは、ため息を吐きながらこう言った。


「……そのとおりだけどよ。だってお前、名乗らなかったじゃないか。名前も知らない相手なんて『お前』って言うしか、方法が無いだろ?」


すると彼女は、困った顔をしながら、申し訳なさそうにこう言った。


「名前、わからないんです。神殿でも『巫女様』って呼ぶ人しかいませんし、それ以外の名で呼ばれることもなかったのです」


 思わず歩みを止めて、彼女を見る。まっすぐマルムを見た彼女は、はっきりとした口調で、こう言った。


「私の呼び名を、つけてもらえませんか?」


 マルムは黙って下を向いている。


「駄目……ですか?」


彼女は、瞳の奥の熱を抑えるのに必死だ。そして、マルムが

「……ステルラ」

と唇を動かしたのを見た。マルムはさらに続ける。


「俺は夜に『仕事』をする。そんなとき俺の周りを照らしてくれるのは、月明かりとステルラ……つまり、星の明かりってわけだ。かつてお前は民衆にとって、星そのものだったんだろうしな。そういうことで『ステルラ』……不満か?」


 彼女、否「ステルラ」から溢れる涙は、止まることを知らなかった。

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