第 3話 異なる世界
ロプトの目の前でお座りをしている巨大な狼は鋭い目で見下ろしている。
しかしその凶悪な顔とは裏腹に、大きな尻尾は右へ左へとせわしなく動いていた。
狛犬のようにお座りした状態でも、その頭の位置はロプトの身長よりはるか上にあり、その巨大な口は頭を丸齧り出来そうだ。
逞しい足には、蔦が絡まったような紋様の枷がついていて、そこからはロプトの腕ほどの太さの鎖が、何の支えもないのに直立し、鎌首をもたげた大蛇のようにゆらゆらと揺れている。
その見た目は、先ほどロプトが作っていたプラモデルの姿と寸分違わぬもので、全身が異様なほどに灰褐色一色なのも塗装をしなかったからだ、と考えると得心はいく。
「スゲェ! カッコイイ!」
そうであるならば、ロプトの作ったプラモデルが実体化した、ということになる。
その考えにロプトのテンションは一気にあがった。
作ったプラモデルが動き出すことを夢見ない人間がいるだろうか。
小さい頃に作ったプラモデルを手に持って、空想の世界で自由自在に動かしていた。
自分の過去は思い出せないのに、そうした想い出だけは蘇ってくる。
「よし、ナルヴィ! お手っ!」
狼が大人しいのをいいことに、調子に乗ったロプトは命令をしてみた。
名前を呼ばれた狼は嬉しそうに、わふ、と吠えるとその大きな手を勢いよくロプトの右手に乗せた。
「ぶべっ!」
その結果、当たり前のようにロプトは身体ごと床に押し付けられた。
冷静に考えれば、人間の胴体ほどもある太い足で『お手』をさせたらどうなるかなど、火を見るよりもあきらかだった。
ロプトはナルヴィの肉球と床に挟まれながら、自分の迂闊さを呪った。
調子に乗った結果がこれである。
ナルヴィは自分の足がロプトを押しつぶしたのに気づいたのか、慌てて足をどけると心配そうに床に顎をつけて伏せの姿勢でロプトの様子を伺っている。
ロプトが恥ずかしそうに立ち上がると、そのまま鼻面をぐりぐりとロプトの身体に押し付けてきた。
甘えているつもりなのだろうが、あまりの巨体にロプトは再び地面に倒されてしまう。
すると、おずおずと押す勢いが緩められて、思わずロプトは笑ってしまった。
男親がはじめての赤ん坊をおっかなびっくりあやしているような微笑ましさがある。
「よしよし、お前は優しい奴だな」
ロプトはちょっと困ったような顔をしているナルヴィの顔をわしわしと撫でる。
ナルヴィは目を細めて大人しく撫でられるままにしているが、尻尾は大きく振れていた。その様子が可愛くて、思いっきり撫で回してしまう。
毛皮の手触りが良くて撫でる手が止まらない。
「ナルヴィはどこか人のいる場所を知ってるか?」
返事を期待したわけではなく、独り言のつもりだった。
しかし、ナルヴィは返事をするように、わふ、と吠えた。
そして顔をロプトの股下にもぐりこませてそのまま、ぐいん、と持ち上げる。
「わわっ、なんだ! どうした!?」
ロプトは転がるようにナルヴィの背中に乗った。
急に視界が高くなってびっくりしてしまう。
さっきまで立っていた石畳が結構下に見える。飛び降りたら足を怪我するかどうか、ギリギリ迷うぐらいの高さだ。
ロプトは思わずナルヴィの首筋にしがみついた。
このぐらいの中途半端な高さが一番怖い。
必死にしがみつくロプトに、ナルヴィの後ろ足の足枷についていた鎖がゆっくりと近づいてきて、しゅるり、と胴体に巻きついて身体を固定した。そして前足側の鎖の先端が、掴んでください、と言わんばかりロプトの前に差し出される。
おずおずとロプトが鎖を握ると、ぐん、と身体が後ろに引っ張られる。
ナルヴィが急に走り出したのだ。
大広間を飛び出して、複雑に入り組んだ迷宮のような建物を疾走する。
速度をまったく落とさずにジグザグに進んでいく。
「うひょおおぉぉぉっ!」
ロプトの口から変な絶叫がとび出る。
ナルヴィはすいすいと淀みなく走り抜けているのだが、ロプトの目には石壁が次から次へと、ジェットコースターも真っ青なスピードで迫ってくるように見える。
口からは絶叫しか出てこない。
永遠にも思えるような時間、叫び声をあげているといつの間にか建物から外に出ていた。
ようやく一息つける、と安堵していたら、今度は大小様々な樹の幹が迫ってきた。
「ぐぎぎぎっ!」
ぶつかる、と思って歯を食いしばるせいで、変な唸り声が出てしまう。
先ほどの建物内も恐ろしかったが、木々の間を疾走するのもそうとう怖い。
建物の中とは違って、ロプトの顔の横をビュンビュンと小枝がかすめていく。
ナルヴィの背中にへばりついているような姿勢なので、ナルヴィが木に激突しない限りはロプトだけが落ちる、ということはない。
それでも顔のすぐ横を太い枝が通り抜けていくのは恐ろしい。
いっそのこと、目を瞑ってしまえ、と瞑ってみたのだが、それはそれで真っ暗な視界の中で、ナニカが通り過ぎる音だけ聞こえる、というより怖い状況になったので、すぐに目を開けるハメになった。
ロプトが叫びすぎて、声も出なくなった頃、ようやく森を抜けた。
視界が明るくなり、眼下には地平線が見える。
「って、崖ぇ!? ストップ! ストーップ!」
どうやら森は山裾に広がっていたらしく、視界が開けた先は崖だった。
山の斜面に突き出たような形の崖に向かってナルヴィは速度を落とさずに突っ込んでいく。ロプトは思わず声をあげて鎖を引っ張った。
鎖は不思議な力でロプトを固定しているだけで、繋がっている枷まではかなり遊びがあるのでちょっと引っ張ったくらいでは足を止めることは出来ない。
ただその動きを感じたのかナルヴィは、急ブレーキをかけて崖で止まった。
ロプトを背中に乗せたまま、顔だけ向けて、どうしたの、とばかりに見つめてくる。
大きさは規格外だが、犬のように素直で可愛い。
苦笑して眉間の辺りを撫でながら、視線を前に向ける。
「――おおっ、絶景、だなぁ」
ロプトの眼下に広がるのは夕日にきらめく広大な世界だった。
崖下には大きな湖があって、その湖面は夕日に赤く染まっていた。
湖の近くにはちょっと大きめの村のようなものも見える。
遠くなのでよく見えないが、レンガ製の壁と藁葺きの屋根を持った建物がたくさん並んでいる。所々から煙りが上がっているのは煮炊きの煙だろうか。
そこまでは美しい田舎の風景といった感じだった。
しかしそんな牧歌的な麓の風景の向こう側、遙か遠くには天に向かって伸びる巨大な一本の塔のようなものが見える。
いや、それは良く見ると一本の巨大な樹だった。
その高さは山を超え、雲を超えて空の彼方まで伸びている。
途中で伸びた枝葉に、雲がかかっているのは冗談のような光景だ。
ロプトは大きくため息をついた。
こんな景色を見た覚えはない、残念ながら記憶にない場所だ。
いやむしろ、あり得ない場所だ、と感じた。
見たことがない場所なのに、あんな樹はあり得ない、と思う。
まるで、ここは――
「俺はなんで、異世界のようだ、って思うんだろうなぁ」
ロプトの力ない呟きを、ナルヴィだけが不思議そうに聞いていた。
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