十月一日の生存本能3

 『ル・コルビジェ』のカウベルが軽やかに新たな客の来店を告げる。その澄んだ音色がコータを今この瞬間に連れ戻す。見れば、学校を救った英雄のひとりだった。

「いらっしゃいませー」店員は客の顔を見るなり、露骨に眉を歪めた。

 約束の時間から三十分遅れてきた待ち人――ユカポンは苦笑いを浮かべる。

「えっと……コータさんの席は……?」

 コータは無言のまま窓際の席を指差す。ユカポンは店員に小さく会釈して、何も頼まずに席に歩き出した。一連の行動は店員をさらに苛立たせ、しわ寄せはコータに向かう。

 店員は湯気の立つコーヒーを荒々しくカウンターに突きだした。運良くこぼれてシャツを汚してくればいいのにと、言わんばかりである。

「火傷したら無料券もらえたりします?」

 ニマリと笑顔をつくり、コータはカップを受け取る。背中で店員のわざとらしい舌打ちを聞きながら悠々と席に戻る。嫌味も聞き慣れれば余興に等しい。

「それで? そっちは何か分かりました?」

「え? いきなり本題ですか? 警察から開放されてからどうでした? とかもなく?」

 不満げにそう言いながら、ユカポンが鞄からICレコーダーを出した。当然とばかりに自然な動きでスイッチを入れようとするので、コータは冷めた目でその手を掴む。

「だから、俺はユカポンさんの研究に付き合う気はないって言いましたよね?」

「…………ダメ?」

 ユカポンはまるでお菓子をねだる子どものような目をして小首を傾げた。あざとい。年齢のサバ読みと研究者であることを明かしてから彼女は遠慮は遠慮がなくなった。

 半年近く嘘を吐いていた人間を信用できるわけもなく、コータはインタビューを拒否しつづけている。水面下で線を引いた二人が顔を合わせているのは、ハナビが間にいるからだ。

 とはいえ、黙って待つのも気まずく、コータは世間話代わりに事件の話を尋ねた。

 テツは治療を受けた後、警察に拘留され、裁判を待つ身となった。二人も名前を知っているイサミン、サッキー、タケッチは病院に入り、未だに支離滅裂な話をしているらしい。

「おかしいんですよ」とユカポンはノートを見ながら言った。「断眠の研究だと、ぐっすり眠れば正気に戻るって書いてあるんです。でも、まだ皆、声が聞こえるって……」

「へぇ」

 コータは気のない相槌を打った。当たり前だ。

 彼らは幽霊に誘導されて……そんな話、誰も信じやしない。

 あのあと、一度、斉藤に会った。イサミン――幸田勲は、辞める直前まで『声が聞こえる』と言っていたという。その時点で監視をつけるべきだったと斉藤は笑っていた。

 もし人以外の何かに魅入られていたのだとしても、悪魔の証明はできない。

「それで……今日は何でまた」

「もちろん、ハナビちゃんに会いに……と思ったんですけど、難しそうですね」

 ユカポンは苦笑しながら腕時計に目を落とす。

「ま、仕方ないかな。コータさんにも渡すものがあったし、そっちが本命ってことで」

「俺にですか? 何を……って、ナニコレ?」

 お化けサイズのダブルクリップで綴じられた紙束だ。大きなフォントで書かれた表題は、

『自殺予備軍に対する拡大・間接自殺教唆によるテロリズムへの変容について:参与観察調査に基づく時系列変化』

「今回の、論文にまとめたんです。もうこれだけで博士論文も書けちゃいそうですよ」ユカポンは満足げに胸を張った。「コータさんも当事者ですから、参考に、と」

「そいつはどうも……欲しかないけど、もらっときます」

「論文について何かご質問は? よければお答えしますよ」

 別に聞きたいことなどなかった。むしろ受け取った傍から突き返してやりたかった。しかしコータは、突っぱねずに受け入れてやるのが攻撃になると知っている。だから、

「拡大自殺とか、間接自殺ってのは、なんです?」

「質問ですね? お答えしましょう」

 ユカポンは頬を緩め、指揮棒のように人差し指を振った。

「たとえば、心中だったり、大量殺人の後に自殺したり、皆で一緒に死のうとしたり。そういうのが拡大自殺です。間接自殺っていうのは、死刑を利用した自殺ですね。自分で自分を殺すのは怖いから、大量殺人や連続殺人をして、死刑になろうとするんです」

「しょうもねぇっスね」

「……それ、コータさんがいいます? まぁいいけど。私の研究は、そういうのとテロがくっついたら怖いなぁって話です。ちょっと面白そうでしょう?」

「ですか。俺にはちょっと分からないですね」

 あんたの価値観が。

 コータは斉藤から聞いた話を思い出す。

 幽霊と呼ばれる連中がいて、痕跡も残さずに人を利用するという。

 また、それとは別に……。

「せっかくだから、俺が調べた話、教えておきましょうか」

「コータさんが調べた話? なんですか? ちょっと興味あります」

 誓約書を書かされたのは取調室の中での話だ。そのあと斉藤から聞いた話は、誰に話しても問題にすらしてもらえない。

「実は、あの後、合宿に行った場所のこと、ちょっと調べたんですよ」

 ユカポンがわずかに目を見開いた。

 コータは記憶を辿りながら、訥々と話し始めた。

「あの公衆電話があった先、廃寺があるって言ってたでしょ? なんか、焼身自殺した奴がいたとかなんとか」

「……えぇ。ありましたね。すっかり忘れてましたけど……でも、そんなオカル」

「あれ本当でした」

 語尾を食い取り、話を続ける。

 もう何年も昔のこと。社会の変動期にあった日本では、今と違ってオカルトが実しやかに話されていたという。そんな時代に、奇妙な思想集団が生まれた。

 彼らの基本思想は仏教を表層的になぞったもので、欲が社会を破壊すると主張していた。元が宗教がらみだったこともあり、集団の思想と行動は少しずつ変質していく。

 折しも時代はテロが現実味を帯び始めてきたころ。集団は国内で起きていた活動からみれば傍流も傍流で、思想的には何の価値もない。だからこそ、彼らは行動に出た。

 半ばカルトの教祖と化していた代表は、ある行動を信者たちに求めた。

 焼身自殺による思想分子の拡散、というものだ。

 強い憂いの念をもって穢れた身を焼き捨てる。すると、その煙に思想が混じり、風に乗って思想が拡散するのだという。まったくバカげた話だ。

 けれど、そんな話を信じる人間が何十、何百といたのは事実だ。

「ただ、人間、他人を殺すことはできても、自分を殺すとなると途端に怖気づくものみたいですね。実際に行動したのは、その教祖さまだけだったそうですよ」

 コータは斉藤から得た情報を自分で調べた話として喋り、コーヒーをすすった。

「で、その教祖さまとやらが焼身自殺したのが九月一日、あの場所だそうです。どうも警察が調べた限りでは自殺じゃなく他殺だったみたいですけど……報道はされなかったとか」

「……教祖様が死んだら、そこが聖地になるから、とかですか?」

 ユカポンは茶化すような口調で言って、肩を揺らした。

「全部聞いておいて、こういうのもアレですけど、ちょっと笑っちゃうような話ですね。教祖が死んだらそこが聖地に……なんて、そういう警戒の仕方は最近のものですし、焼身自殺したときの煙に思想が乗って? そんなこと調べてたんですか?」

 暇だったんですか? そう言わんばかりの口調だった。

 オカルトめいた話を調べていたと聞けば、普通はユカポンと同じ反応をするのだろう。

 だが、これなら?

「その集団の名前は、グリード。強欲って意味だそうです。聞き覚えありますよね?」

 ユカポンの顔色がサッと変わった。構わず、コータは話を続ける。

「今回の事件と似たような話、海外にありました。日本でもちらほらあったみたいで。なんていうか……精神的にちょっと弱った人たちにSNSで声かけて、自殺へ誘導するっていう」

「……ありますね。でも、実際に死ぬ人なんて」

「そうなんですよね。参加者は何十人もいるのに、実際に自殺した人数は多くなかった。さっきの話じゃないですけど、自分を殺すってのは、やっぱり勇気がいるみたいですね」

「……コータさん。何が言いたんですか?」

 もう分かってるだろ?

 そう尋ねるような目をして、コータは凝り固まった背筋をぐっと伸ばした。

「形はどうあれ、普通なら何十人にも声をかけて数人しか動かない。でも、今回はどうだったのかなって。警察はその辺の話まったくしませんでしたよね。それにイサミンは……」

「――止めてください」

 ユカポンは迷惑そうに眉間に深い皺を寄せて目を逸らし、コップの水を口に運んだ。瞳が忙しく動き回り、ちらちらと店内の様子を窺っていた。

 聞き耳を立てられているような気がするんだろ? 分かるよ。

 口の中で呟き、コータも店内を眺める。座っている客たちは皆それぞれ会話とケーキを楽しんでいる。けれど、声はどこか遠く、たまにこちらに向く視線には奇異な印象を受ける。

 もちろん、全ての嫌な印象は緊張感が作りだした幻にすぎない。

 しかし、それではなぜ、緊張を覚えてしまうのか。

 ふぅぅぅぅぅぅ。

 と、ユカポンは細く、長く、ため息に似た息を吐いた。

「面白い話、ありがとうございました。私、もう行かないと」ユカポンはテーブルに一万円札を置いて席を立った。「これは謝礼だと思ってください。まぁ、別にインタビューとかしたわけじゃないので、領収書はつくりませんけど。それに、大奮発ですけど」

「……いらねぇですけどね」

「じゃあハナビちゃんに。私の奢りだって――」

「んじゃ、俺がもらっといて、俺が奢っておきますね」

「……それでもいいけど、分かってますよね?」

 そう尋ねてくるユカポンの目が、すっと鋭くなった。黙ってろ、ということか。

「ハナビちゃんには、ユカポンが会いたがってたって伝えておきます」

「はい。よろしくお願いしますね? それと、また落ち着いたら、三人で会いましょう」

「……ええ。また」

 遠ざかるユカポンの背中を見ながらコータは、落ち着きたくねぇなと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る