十月一日の生存本能
一カ月前、駅前に店を構えるカフェ『ル・コルビジェ』の名は、突如として広まった。
九月一日――夏の終わりに、平凡な街の学校で起きた惨劇の発端となった店として。
地元の客はすっかり遠のき、代わりに毛色の変わった客が増えた。事件マニアの類だ。
彼らは店に訪れると、まず店内最奥に向かう。
目当ては、斧の傷跡も生々しい、壊れたテーブルだ。
最初の犠牲者でありながら、中学校に襲った暴漢たちを独力で制圧したとも噂されている、高柳公太が座っていたテーブルである。
マニアの客たちは来店した証拠として写真をSNSにあげると、『ル・コルビジェ』の提供する妙に角ばった、しかしなぜか収まりの良さを感じさせるケーキに舌鼓を打つ。
……傍に、高柳公太がいるとは知らずに。
窓際の席だ。三人がけの丸テーブルに寂しげに座っている。しっかりと書き込まれた履歴書をテーブルに投げ出し、コータはテーブルメニューを眺めていた。
せっかく精神統一までして履歴書を書き上げたのだが、つい十分ほど前にまさかの採用通知があり、用なしになってしまった。
コータはため息混じりにスマホを眺めた。四時十二分。待ち人来ず。カップは空。
「……もう一杯、頼むか……」
カウンターで注文すると、店員は呆れたような顔をして言った。
「学校を救ったヒーローなのに、意外とバレないもんなんですね」
何度目かの嫌味である。店員の女はオーナー兼店長と違って、事件のせいで店が有名になったのが気に食わないらしい。また、何食わぬ顔で来店するコータのことも。
「いやほんと、こっちは意外と楽なもんですよ」
自然、返答にも棘が立つ。甘未を好まない彼が『ル・コルビジェ』に足を運ぶようになってから二週間、顔を合わせる度に冷戦を繰り広げていた。
店員はひとしきりジト目を送り、舌打ちを残して背を向けた。
待ってましたとばかりにコータもカウンターに躰を預ける。
あの日以来、出入り口を警戒する癖がついていた。洗脳された誰かが襲ってくるのではないかと疑念に駆られるのだ。これも、コータにもたらされた変化だった。
外を歩く人々の多くは九月一日の惨劇を忘れている。
憶えているのは、一部の好事家と、当事者だけだ。
コータの意識は自然と事件直後に戻っていった。
――事件直後、なだれ込んできた警察に確保されたコータは、傷が浅かったのもあって病院で治療を受けてから、あらためて留置所に移された。
すぐに始まった取り調べは、古い刑事ドラマのような恫喝こそなかったものの、長時間に及んだ。何度も実態とは異なる話を聞かされ同意を求められる。毎度のように細かく訂正していくのだが、昨日の今日でロクに事情を知らないはずの向こうから「違うでしょう」と、想像力逞しいストーリーを聞かされた。
彼らの中では、コータは自殺志願者グループの一員であり、内部分裂を引き起こした張本人ということになっていたのだ。
事件発生から二日。否定に疲れて、面倒だから認めようかと思い始めたころだった。
取調室の扉が叩かれ、刑事とは気配の違う黒スーツの男が鞄を片手に入ってきた。
男は二言、三言、刑事たちと話し、出ていく彼らに代わりコータの前に座った。
「いやぁ……この度は災難でしたねぇ、高柳さん」
言って男は名刺を出した。緑色の、ニューヨークサイズの名刺だ。懐かしさに口元を綻ばせたコータは、名刺を一目して固まった。
『
それ以外、何も書かれていなかった。肩書はおろか、所属も、電話番号も、およそ名刺に必要だと思われる情報のほとんど全てが、欠落していた。
「えっと……?」
「はじめまして。幸田さんの元・同僚ですよ」
言って斉藤を名乗る男は唇の端をひきつるようにして笑った。コータは訝しげに眉を寄せ、名刺と斉藤のあいだで視線を往復させる。ふたたびの既視感。体格こそ細身だが、イサミンと気配がよく似ていた。
口元に浮かべた柔和な笑み、対照的にまるで温度を感じられない爬虫類のような目。前にユカポンから幸田の所属していたという警備会社は存在しないと聞いたが、事実と違うのだろうか。
斉藤は悠々と背もたれに躰を預けて、名刺を指さした。
「それ、特別に作ってきたんです。そのほうが話が早いかと思って。でしょ?」
「特別にって……」
「日本人の特徴ですよねぇ。名刺を出されると、つい信用しちゃう。ほとんどの人は、その切れっ端みたいな紙切れに書いてある文字を、身分証か何かと勘違いしてしまう」
そう言って、斉藤は柔和な笑みを浮かべた。頷けるところがないでもない。コータ自身、名刺を配り歩いてきたが、営業先はともかく仕事の外では話が早く進んだ。
が、それもマトモな名刺ならでの話だ。
「……ええと、あの、あなたは?」
「高柳さん。ぜひ、ひとつ、お聞きしたいんですが」
斉藤は質問には答えず、マジックミラーに向けて手の平で首を切るような仕草をした。ほどなく、部屋の隅にあったこれ見よがしな監視カメラが、赤いランプを消した。
「幽霊によるテロリズムって聞いて、どう思われます?」
「は?」
コータは口をぱかんと開いた。何を言っているんだろうか。幽霊によるテロとは、そんな。
「……それ、何かの冗談ですか?」
そう問い返してみるものの、斉藤の気配は冗談をいうそれではなかった。
「そうですよねぇ……まぁ普通はそう思いますよ。僕らだってそう思いたいんだから」
「あの、話が見えないんですが」
「いやねぇ? 見えなくしてくれてるのは、高柳さんなんだよね」
苦笑混じりに言って、斉藤は鞄から茶色いファイルを出し、コータの前に置いた。見てくれということかと手を伸ばすと、ぬっと伸びてきた斉藤の手がそれを阻んだ。
「僕らもそう思ってるから言うけど、バカバカしい話なんだよね。腹立つくらいにさ」
そう前置きして斉藤は静かに話し始めた。
テロリズムとは、政治的目標を達成せんと行われる暴力や脅迫をいう。幽霊だけでもバカバカしいのに、政治とくっつくなど冗談にもならない。
だが、それは現代だからこそだと斉藤は言った。
「宗教によるテロなんてのはぁ、昔っからたくさんありましてね? やれ国家転覆だー、やれ社会崩壊だー、傍からするとバカげた話ですが、連中にとっては大マジメなんです。幽霊なんてのもそんなのとオンナジでして。えぇ、まぁ、バカげた話なんですけどね」
たとえば、幽霊の恨み辛み。自分を殺した奴やら、その場所やら、個人を相手にしているうちはまだいいが、対象が社会や世界になれば、テロだという。
「ああ。幽霊ってあだ名で呼ばれてる、幽霊じゃない奴も別にいるんですよ? 世界中で活動してて、何の痕跡も残さずに消えるようなね。厄介な連中ですが実体がある分まだマシで。今回みたいな案件はとにかく困るんですよ。まぁ本物の幽霊が、なんて言いませんよ? 言えば狂ってると思われるでしょうし、本当に幽霊だったら警察じゃどうにもできませんからねぇ」
ハッハッハ、とどこかで聞いたような笑い声を出しながら斉藤は続けた。
「ほら。警察さんだって幽霊に輪っぱはかけられないし、検察だって誰を起訴すりゃいいのかわからないでしょう? ウチだって困ります。張り付く相手が見えないんだから」
そう言って、斉藤は苦笑しながら困った風に頭を掻いた。
警察や検察と分けて『ウチ』と呼んだということは、同系列の別組織ということだろうか。
もちろん、斉藤という男がマトモならの話だが。
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