九月一日の殺意9
蹴りあけた扉が壁を打ち、派手に鳴った。男たちとイサミンが振り向く。
「邪魔をするなぁ!」
そう叫び、イサミンが切っ先をこちらに向けた。その隙をつき、ハナビがふくらはぎに噛みついた。獣のような咆哮が大気を揺らす。
激高したイサミンがハナビの腹を蹴った。頭を両手でかばい亀のように背中を丸めるハナビを蹴りつけ、蹴りつけ、蹴りつけ、頭を、守る腕ごと踏みつけた。
その間にも、こめかみから血を流す男が、コータに襲いかかっていた。遅れて金属バットの男が足を引きずっていく。けれど、
危機感に追い立てられるコータの敵ではなかった。
コータは右の警棒で相手の武器を払い、そのまま手首を返して男の首を打った。振り上げていた左の警棒で鎖骨を砕き、突き、深く踏み込んで両膝を打ち据える。男は、成すすべもなく膝をついた。
両手を肩にかつぐように構えてコータが旋回。そして、
躊躇なく暴力を振るった。
ガラン、と乾いた音を立てて金属バットが転がった。見れば、足の負傷で出遅れた男が、尻もちをついていた。眉を歪め、ガチガチと歯を鳴らしている。
男は、慄いていた。
凶暴に笑む、コータに。
自身、なぜ笑っているのか分からなかった。ただひたすらに、可笑しくて可笑しくて、笑わずにはいられなかった。
全身の肌を粟立てさせるような、その感情が、怒りと恐怖がグチャグチャに混ざりあったものだと気付いたのは、投げ出された男の足首を踏み折ったあとだった。
「……久しぶりですね、イサミンさん」
まさか、まだ自分の口から丁寧語が出てくるとは思わず、それも可笑しさに変わる。
振り向いたイサミンは、散々ハナビを蹴りつけたからか、肩で息をしていた。
「声が……声が聞こえない。聞こえなくなった。倶利井戸様の声が……」
言いつつ血振りでもするかのように刀を払った。僅かに錆びの浮いた刀身が、終わり始めた夏の日差しを受けて煌めいた。
コータは、ただハナビの様子だけが気になっていた。
「ハナビちゃん。大丈夫?」
躰を傾け、イサミンの躰越しに問いかける。ハナビは丸くなったまま動かない。
「死人だ。死人がいます。倶利井戸様。御声を……御声を聞かせてください……御声を!」
イサミンはまるで意味のわからないことを言い続けていた。
うるせぇよ。
そう口の中で呟き、コータはハナビに――結果としてイサミンに近づく。
無造作に圧すコータに対し、イサミンは刀を正眼に構えた。ベッタリと踵をつけた歩法は剣道のそれとはまるで異なる。全身から、朧気に殺意が漂っていた。
しかしコータは、殺意の塊を無視して、ハナビに声をかけた。
無事かどうかばかりが気になる。昨晩せっかく自殺を止めたらしいのに、こんなことで死なれたら元も子もない。
「遅くなってごめんな、ハナビちゃん。でも、ちゃんと助けに来たから、ケーキで勘弁な」
「お前の……お前のせいで声が聞こえなくなったぞ!」
イサミンが爆発的速度で踏み込んだ。縦一文字に銀光が閃く。それで終わり――、
のはずだった。
その瞬間、コータは僅かに下がり、ユカポンから借りた警棒で切っ先を払っていた。つい先ほどまで感情まかせに動いていた躰は、今、完全に制御下にある。
コータは、イサミンが打ち込んでくる寸前、ハナビの無事を認めていたのだ。彼女は呼びかけに対して、頭を守る腕の先で親指を一本、立てていた。
ただそれだけのことで胸裡にまた別の感情が湧いた。安堵と、新たな恐怖だ。
ふたつの感情が、コータに、冷静に動けと要求したのである。
死ねない。殺されるのもまぁいいかなどとは、絶対に言えない。
だから、コータは一歩踏み込んだ瞬間、殺気を感じて慌てて退いた。先ほどまで躰があった空間を、イサミンの刃が駆け抜けていった。
「……イサミンさん。もうやめませんか? じゃないと俺も殺す気でいかないといけない」
「せっかく聞こえていたのに。お前のせいだ。死人め。お前のせいで、声が聞こえない!」
「……何言ってンのか、全然、分からねぇんですけど……?」
「倶利井戸様! 死人の首をあなたに捧げます! どうか私に音を返してください!」
虚空に向かって叫ぶや否や、イサミンは撃ち放たれた弾丸の如く飛び込んだ。宙を分かつ剣閃は目で追うのすら難しい。受け方も分からず、コータは間合いを取るしかなかった。
他方、イサミンは一切の容赦なく追いすがり、横薙ぎに刀を払った。
――避けきれない!
ユカポンの警棒が真中から斬り飛ばされ、コータは胸に熱を感じた。
「痛ッッてぇなクソジジィ!」
思わず罵りながら刀の描いた軌道と逆方向に回り込む。間断なく刃が降ってきた。警棒で受けるのは不可能。左右、どちらかに躱すしかない。
コータはイサミンの右足が前に出ているのに気づき、左に躰を投げ出した。背後で唸る風切り音。受け身代わりに前に転がり、床を叩いて立ちあがる。
「――クソッ!」
苛立ちを音にして吐き捨てると、すぐさまコータは警棒を構え直した。胸に開いた傷が、まるで焼鏝を押し付けられているかのように傷んだ。流れる血は熱く、肌にまとわりつくシャツが腹立たしくてたまらない。
イサミンが、荒くなった息を整えながら、誘うように剣先を揺らしていた。
「ああ、声が……逃げるな。ダメだ。逃げるな死人め。その首、さっさと俺に寄越せぇ!」
相変わらず意味の取れない怒声を聞き流し、コータは刀の間合いを計り直す。
メメント・モリの活動の足しにと読んでいた武道の入門書にあった。物打ち――刀の最も切れ味が鋭い部分は、切っ先三寸という。すなわち、刃の先から約十センチだ。
コータは警棒を握る自身の右手首を一瞥した。幅五センチあるかないか。
十分に加速した斬撃を受ければ、手首から先がすっ飛ぶ。十センチどころか三センチも肌に食い込めば、動脈に達する。止血できなければ、ただそれだけで、死ぬ。
躰が急に重くなった。
死への恐怖と危機感が、重い足枷に変わっていく。ただ自分が死ぬだけなら別にそれでも構わない。しかし、今コータが死ねば、ハナビも殺されるのだ。
刀と警棒では長さが三十センチ違う。
間合いに直せば一歩。双方の体格差を勘案すれば、半歩の差である。
けれど、コータには、その半歩が絶望的な距離だった。
突きつけられた切っ先を境に大気が揺らいでいる。まるで見えない壁でもあるかのようだ。
その壁を踏み越え一歩、さらに半歩を踏み込まなければ、コータの打突は届かない。
「……クリームシチューにカツもあり、だっけか」
「……しちゅぅ?」
イサミンの眉が怪訝そうに寄った。その背後で、ハナビがピクリと動いた。
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