九月一日の殺意8

「――振り出しが甘かったかな?」

 コータは一段短くなった警棒を怪訝そうに見つめ、首を傾げた。フリクションロック式は摩擦力で固定するとはいえ、警棒は打突を想定している。突いても縮まないはずだが。

 鼻で息をつき、警棒を振り出す。あれだけ打ち合ったのに傷も曲がりもない。妙だ。

「コータさん! なんで受け取らなかったんですか!」

 ユカポンの非難がましい声が聞こえて、コータは思わず怒鳴り返した。

「受け取れるわけないでしょうが! むしろよく躱せたもんですよ!」足元を見回し、転がっていた銀色の警棒を拾う。「えと……」

 顔をあげたコータは生徒たちの顔をずらっと眺めた。倒れた男たちとコータたちと、どちらに怯えていいのか分からないといった様子だ。

 元より期待していなかったが、やはりハナビの姿はない。もしここにいたなら、到着したとき、すでに男たちは倒れていただろう。そうでなくても、コータを見たら出てきたはずだ。

「クソがッッ!」

 コータは苛立ちを音にして吐き捨てた。生徒たちが小さくどよめき、壁際まで退いた。

 気を回したのか、ユカポンが代わりに訊ねる。

「ハナビちゃん……えと、西条ハナビさん、誰か知ってる?」

 問われた女生徒は首をふるふると左右に振った。その隣も、隣の隣も。

 ……西条ハナビという少女は、誰の気にも留められていないのか。

 コータは舌打ちして、ユカポンの言葉を継いだ。

「ハナビちゃんを助けに来たんだ。誰でもいい。なんでもいい。誰か、何か、知らない?」

 それは懇願だった。

 十人ちょっとの『儀式』を終えたメンバーから三人も割いて出入り口を封鎖したのだ。まだ見つかっていないか、教師や他の生徒が目的だったのか……。

 ――どうだっていい。

 コータが願うは、ハナビの無事だけだった。

「あ、あの……」女生徒のひとりが小さく手を挙げ前に出た。「お、オトリになるって……」

「囮!? ハナビちゃんが!?」

「は、はい……私のこと助けてくれて、それで……」

「どこ!? どこに行ったかは分かる!?」

 コータは女生徒の両肩を掴んで揺さぶる。制服の胸ポケットに入れた生徒手帳に『高宮』という名札をつけていた。ハナビから聞いたことがある名前だ。

「あの、ハナビのやつ、屋上に行くって言って、出てって……私――」

 言って高宮は自分のせいだとばかりに目に涙を滲ませた。

「分かった。ありがとう! すぐに助けに行くから、安心して!」

 言い聞かせるように言い、コータは蹲ったままのユカポンに呼びかけた。

「行けますか!?」

 ユカポンは顔をしかめて首を横に振った。

「ごめんなさい。足やっちゃったっぽいです。私の警棒使っていいですから、早く屋上に行ってあげてください。私は生徒のみなさんと、こいつらをなんとかします」

「――分かりました。借りてきます」

 駆けだすコータの背中に、ユカポンが慌てて言葉を投げる。

「ちゃんと返してくださいよ!?」

 コータは返事代わりに借りた警棒を掲げた。だが、その胸の内で、

 縁起でもねぇ。死亡フラグってやつじゃねぇか。

 そんなことを考えている自分が可笑しくなって、コータは口角をあげた。ハナビのこととなると危機感を抱くのに、相変わらず自分の生き死にには興味が湧かない。

 いまだって、せめてハナビを助けるまでは生きていないと、と思うに過ぎない。

 三階まで登ると、トイレのすぐ外に男が倒れていた。タンクトップから伸びる肩、片方には錦の鯉、もう片方にはトライバル。見間違えようがない。

「テツさん!?」

 コータが呼び慣れたあだ名を叫ぶと、テツは呻きながら顔を上げた。こめかみから夥しい血が流れていた。

 一瞬、安心したような顔を見せたテツは、上り階段を指さし、がくんと床に伏せた。

「わかった! 後は俺がやるから!」

 そう答えたとき、コータは妙な感情を覚えていた。名前だけは知っていて、いままでの人生では、はっきりと意識したことのなかった感情。

 安堵だ。

 テツの様子から察するに、彼も洗脳されていたのだろう。だが、生来の弱気もあって直前でグループを裏切り、守る側に回った。たしかに守りきれなかったかもしれないが、

 ハナビは、ひとつめの危機を脱したのだ。

 一瞬、足を止めて息を吐き出すと、普段と違い一発で息が戻った。胸の奥で燻る焦燥感が消えたわけではないが、疲労が残る躰に力が戻ってくるような気さえした。

「よっしゃ、もう一息だ」

 呟き、両手の警棒を握り直す。目指すは上、上の上。屋上を目指して疾駆する。

 走り抜けながら昏倒している人々を一瞥する。血で汚れた階段の踊り場に、多くの生徒が転がる廊下に、すでに四人の学校関係者とは思えない男女の姿があった。

 四階まであがったところで階段が途切れた。屋上へ続く階段は反対側らしい。

 人気の無い廊下に、またひとり、男が倒れていた。鼻と口から濁った血を垂らしていた。額の辺りに、警棒にしては太すぎる丸い窪みがあった。

 どうやらハナビは屋上まで逃げつつ、追いついてきた順に叩き伏せたらしい。スイッチが入るまでに時間がかかるが、入ればまるで歯が立たない。まったく大した子だと思う。

 コータは倒れた男の脇を抜けた。どういうわけか、胸の奥がザワついていた。勝利の跡を見たばかりなのに落ち着かない。端的に言って不安だ。

 彼女の躰が万全でないと知っているからかもしれない。

 睡眠不足に疲労、それに空白期間ブランクもある。

 コータは見つけた階段を前に強く息を吐き出し、不安とやらを振り払おうとした。

 くだらない。洗脳されている連中も儀式をこなしてきたはずだ。

 ユカポンの推測が正しければ、彼らとハナビで条件は同じ。むしろ途中から儀式を放棄しているハナビのほうが体調的には有利だろう。

 だが――と、頭が勝手に悲観する。

 洗脳されてしまった連中は刃物を持っている。それに数では向こうが有利だ。

 見てきただけでも、ハナビは七、八人は相手にしている。

 ユカポンはなんて言っていた? 十数人いるとしか言っていなかったはずだ。それにしては多すぎないか? 本当に推測はアテになるのか?

 それに、まだイサミン自身を見ていない。洗脳の首謀者だとすれば、ここにいるのだろうか。

 だとしたら、彼に勝てるのか?

 皆、イサミンから戦い方を学んできた。彼はメンバー内でもコータとハナビは有望だと評していたが、ただのリップサービスかもしれない。実際、二人とも彼には負けっぱなしだ。

 ハナビ独りで挑んで、死なずにすむのか。

 自分でも止められない悲観的思考にコータの顔が歪む。初めての体験だった。制御できない危機感とやらに押しつぶされそうだった。

 幸いにも、というべきか、思考を中断する外力はすぐに見つかった。

 こじ開けられた屋上への扉だ。すぐ脇の割れ窓の下に、ガラス片に混じりロダンの『考える人』ストラップが落ちていた。警棒を進呈したとき、冗談のつもりで柄尻につけた品だ。どういうわけか気に入ってくれたらしく、内心、得意になってもいた。

 コータは息を潜め、そろりそろりと扉に近づく。

 ハナビを追っていた連中は窓を通れなかったのか、薄く開いた扉の前に、掛け金を切られた南京錠が落ちていた。切断面は鋭く、乱れがない。よほど切れる刃物のようだ。

 コータは窓を覗きこみ、舌打ちする。

 四つん這いになったハナビを囲むようにして、三人の男が立っていた。

 左の男は側頭部から血を流している。凹んだ金属バットを握る右の男は、引きずる右足のせいか鬼のような形相だった。どちらの傷もハナビがつけたに違いない。

 残る中央の男は背を向けている――が、分かる。

 背は低く、幾分か痩せてはいるが、がっしりとした体格。左耳に肌色の補聴器。そして、

「おいおいおい……日本ポン刀かよ……」

 イサミンは、柄にサラシ布を巻いた白鞘の日本刀を持っていた。反りが非常に浅く、やや長い刀身は二尺三寸五分――約九十センチだ。鞘は捨てたのか見当たらない。

 イサミンは『儀式』の傷を手当てしておらず、刀を握る手から血が滴り落ちていた。出血点は前腕、上腕、そして他のメンバーと異なり両肩にまで傷が及んでいる。

「あんたリーダーだろ? なんであんたまで儀式やってんだよ……意味分かんねぇ」

 何か喋っていないと落ち着かない。肉厚の日本刀を携える元・本職に、警棒を持った素人が相手になるのだろうか。いくら鋼や合金といっても、所詮はパイプ状の棒でしかない。刃筋がかける圧力には耐えられないだろう。何か対策を考えないと――。

 ふいに、イサミンが刀を両手に持ち替え、上段に構えた。

 首を落とす気だ。

 荒い息を吐きながらハナビが顔を上げた。唇の片端に血が滲み、左目の周りに青痣ができていた。酷くつまらなそうな、冷めた目をしている。何事か呟き顔を伏す――、

 間際、コータとハナビの視線が交錯する。

 僅かに見開かれたハナビの瞳が、安心したかのように微笑んだ。

「ハナビ!」

 その瞬間、コータは我を忘れて飛び出していた。

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