九月一日の殺意5(ハナビ)

 高宮と取り巻きに連れ込まれた三階女子トイレの最奥で、ハナビは壁を背にしていた。

「こんなとこでのんびりしてていいの? もう始業式終わったんでしょ?」

 女子トイレの外から生徒が暢気にはしゃぐ声が聞こえる。彼ら彼女らはハナビと高宮たちがいないとは気づいていない。教室に戻る生徒の流れに紛れていたため、高宮に追い立てられる間、誰とも目を合わせられなかった。

 たったひとりだけ、はるか遠く廊下の先で、教室に戻る担任の大塚が、こちらを見た気もするが――彼は眉を潜めただけで、他の女生徒に押されて教室に消えた。

 ハナビは胸中でコータに愚痴った。

 残念ながら、ウチの担任は服装を咎める手間も面倒らしいよ。

 ついでに、教えてもらった言い訳も同級生相手には通用しないだろう。

「で? 私に何する気なの?」

「見りゃ分かるでしょ? 私がバカなあんたに服装規定を教えてやろうかな、って」

 そう言う高宮はどこから持ってきたのか、細いカッターを手にしていた。

 お前だって制服を着崩しているじゃないか。スカートだって折るんじゃなしに切ってるくせに。夏前にはブレザーにも手を入れていたくせに。

 とはいえ、夏を越えてハナビは変わった。腰に巻いたコータのカーディガンの下には、大事な警棒がある。それさえ握れば、素人の中学生など相手にならない。

「ほんと、なんなの? その恰好。大塚先生に構ってもらおうとしてるでしょ」

 言いつつ高宮がカッターの刃を伸ばす。チキチキと鳴る音に他の子なら怯えるのだろう。

 しかし、警棒を隠し持つハナビは脅せない。

「あんなバカ教師どうでもいいよ。――急に人に会わなきゃいけなかっただけ」

「はぁ? 人に会ったぁ? 何それ。誰に会ってたって?」

 嘲笑しようとする高宮の後ろで、取り巻き二人がダルそうな顔をしていた。哀れだ。きっとリーダー気取りでいるだけで、実際にはそれほど好かれていないのだろう。

「カレシ」と、ハナビはからかうつもりで答えた。

 間髪入れずに高宮が「はぁ!?」と頓狂な声を上げ、後ろ二人も目を丸くした。片方はちらちらと高宮の後頭部に視線を送り、もう片方は話を聞きたそうにしていた。

「テキトーなこと言ってんなよ!」

 怒号とともにカッターの刃先が閃く。反射的にハナビは身を退いた。銀光は空を切り、躱したハナビの後ろ頭が、ゴン、と壁にぶつかる。痛みはなかった。

「ちょっ!?」取り巻きが驚いたような声をあげた。

「……危ないじゃん。顔に当たったりしてたら私、高宮のこと殺してたよ?」

 ハナビは薄く笑って挑発した。高宮の手の振りはコータの半分ほどの速さもなかった。躱しそこねていたとしても、左手首の傷よりは痛くなかっただろう。

 積み重ねてきた鍛錬がハナビの背中を後押しする。

「だいたい顔なんか切ったって死なないよ? エグる勇気もないのに刃物だしちゃダメだよ」

「――ハナビのくせにイキってんじゃねぇよ!」

 高宮の顔が一気に紅潮した。カッターが振り上げられ、取り巻き二人が怯えたように顔を見合わせる。ハナビが腰の後ろに手を伸ばした――そのとき、

「何してるんだ! もうホームルーム始まってるんだぞ!」

 大塚の声に全員が動きを止めた。女子トイレに入っていくのは見ていて、あまりに遅いから様子を見に来たのだろう。……女子トイレなのに。

 警棒を抜く、絶好のチャンスだったのに。

 ハナビは前髪を留める鯨の形のヘアクリップを撫でた。

「先生、ここ、女子トイレですよ? なんで入ってきてるんですか?」

 イラついていた。仇敵と言うと大げさかもしれないが、生き死にを考えずに刃物を振り回すようなバカに、自分が何をしているのか教えてやりたかった。

「ホームルーム始まってるなら、こんなところに来てる場合じゃないじゃないですか」

「ハナビ。お前はどうしてそうなんだ。それに高宮、手に持ってるのはなんだ?」

 二学期の始まりの日、大塚は珍しく強気だった。自分のクラスの規律を回復しようという使命感も見え隠れしている。その取ってつけたような決意が、ハナビを余計に苛立たせる。

 高宮が素早くカッターを後ろ手に隠して甘ったるい声で言った。

「先生、西条さんの服、見てくださいよ。私服で学校に来るとか、おかしくないですか?」

「俺は何を持っているのかって聞いたんだ。後ろに隠した物を見せろ」

「でも――」高宮は肩越しにハナビを一瞥する。「西条さん、男と会ってきたって」

「なんだって?」急に大塚は真顔になった。「ハナビ、高宮の話は本当か?」

 やってくれたなとハナビが睨むと、高宮は澄ました顔をつくってそっぽを向いた。

 きっと、調子に乗った罰だ。最悪コータに迷惑をかけてしまうかもしれない。

 そう思うと、少しだけ胸が痛んだ。

「ただの冗談です。急に――」

 人に会わなきゃいけなくなった言ったら、話が堂々巡りになるだけだ。

 急にお腹が痛くなって病院に行った? 制服でいいじゃないか。じゃあ、急に学校に行きたくなった? 私服で? いや、これなら格好はどうでもいいか。

 ハナビはコータがしてくれたタイの結び目に触れた。心臓が痛いほど早く打っていた。

「実は――」やっとの思いで口を開く。高宮が片笑みを浮かべ、取り巻き二人が面倒くさそうな顔をした。そして安っぽい威厳たっぷりに大塚が――、

 急に首を後ろに振った。

 幽かに、悲鳴が聞こえたのだ。続いて大人の男の声も聞こえた。

「……なんだ?」と、大塚。

「……ビ! …………ビ! どこだ!」

 段々と近づいてくる男の呼び声に、ハナビは聞き覚えがあった。

「テツ?」

 両肩にチグハグな入れ墨を彫り入れた、繊細なチンピラの声だった。すぐに教室の扉が乱暴に開かれる音がし、雪崩れるような足音が響く。

「逃げるな!」

 と、別の男の声がし、打音と鋭い悲鳴が廊下を抜けた。何かが女子トイレの外で起こっている。ハナビも、高宮と取り巻きも、一言も言葉を発せずにいた。

「お、落ち着け、お前ら、せ、先生がいるからな……」

 大塚が自分に言い聞かせるように言った。高宮と取り巻きは廊下側を見つめたまま、じりじりと後退る。すでに壁を背にしていたハナビはそれ以上、逃げようがなかった。

 ガンッと女子トイレの扉が蹴り開けられた。

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