九月一日の殺意4
同じころ、カフェ『ル・コルビジェ』。仏頂面のコータの対面に、ユカポンが座っていた。
数分前、メールの返信をしたあと、すぐにユカポンから電話がかかってきた。さっきの今で出ないわけにもいかず、出たら出たで『ル・コルビジェ』で待てと言われたのである。
気分を変えようと頼んだ紅茶が出くるか否かというとき、その人は到着した。
コータが不機嫌になったのは、それからだ。
待たされたのは我慢できた。よほど急いでいたのかユカポンはスッピンかつ安っぽいジャージだったが、それにも文句はない。隙だらけの格好は人によっては有難みを覚えるというくらいだし、コータのほうもTシャツにランニングデニムという出で立ちだ。
だがしかし、ヨタ話を聞くために待たされていたとなれば、我慢ならない。
「だから! ちゃんと聞いてください! 命を狙われてるんですよ!?」
そう言われても、なぁ。
何を、どう聞けと。半泣きで訴えられても困る。昨晩から災難続きで、ようやく問題のひとつを片付けたばかりだってのに、次は命を狙われていると言われても。しかも、
「イサミンさんが計画した洗脳グループって……正気ですか?」
「じゃ、じゃあ! この写真は!? それに、ほらコレ!」
ユカポンはスマホを出して薄気味の悪い写真とメールをこちらに見せた。
「この住所! これコータさんの家の住所じゃないですか!?」
「まぁ……たしかにそうみたいですけど……」
そっちが尾行てきた可能性もあるではないか。もしそうなら、ストーカーも同然である。
仮に話が本当だとして、なぜ俺には『儀式』とやらの連絡がない。
荒唐無稽な話とはいえ強く否定もできず、コータはしかたなしに言った。
「……それじゃあ、とりあえずハナビちゃんのご両親に電話してみましょうか。それで学校の名前を教えてもらって、中学校のほうで対処してもらえばいい」
これ以上はないという正論――のはずだったのだが。
「大丈夫です! 私、来るまでにハナビちゃんの学校調べて電話してみたんです!」
興奮気味に話したユカポンは、しかし唇を噛んで俯いた。
「――でも、私の話を信じてくれなくて。代わりにハナビちゃんを呼んでもらおうとしたんですけど、まだ学校に来ていないって言うし……」
学校は学校で対応がおざなり過ぎる。いくら始業式の準備で忙しいのだとしても、生徒の命に係わる話なら少しくらいは対応するべきだろうに。
放っておけば際限なく下がりそうな口の端を隠そうと、コータは冷えきった紅茶を飲んだ。
「~~~~~~っ!」
しびれを切らしたのか、ユカポンがテーブルを叩いた。
「もういいです! コータさんには頼みません! 私ひとりで行きますよ!」
言ってユカポンが席を立ち。コータは慌ててその腕を掴んだ。行かせてはマズい。興奮しきった女が侵入したとなれば、それこそ学校はパニックである。
「離して! 離して下さい! ほんとに時間がないんです!」
ユカポンのあまりの剣幕に、他の客も、店員も、二人の様子を注視していた。
コータは頭を抱えて深く息をついた。視界の端でスマホが震えていた。
「――ユカポンさん。落ち着いて下さいよ。俺の話も聞いてもらえませんか?」
「離してください! もういいですってば!」
ユカポンは手を振り払おうとした。刹那、コータは右足の踵をユカポンの膝裏に引っかけ肩を押し込み、すとん、と椅子に座らせた。メメント・モリで教わってきたエスクリマ、その体術の応用だ。DVDで見たのを真似ただけで実践は初めてだった。
「とりあえず、ちょっとだけでいいんで、待ってください。この電話に出たら、次はユカポンさんに付き合うんで。いいですね?」
思いのほか技が綺麗に決まったことに驚きつつ、コータはテーブルからスマホを取った。なんだってんだと、呟きながら着信を確認する。自宅アパートの管理人からだった。
まさか、ハナビを連れ込んだのを見られてて、事案?
コータは営業時代の話し方を思い出しながら電話を取った。
「はいぃ、高柳の携帯ですぅ。ご無沙汰しておりますぅ。何かございましたかぁ?」
「――ああ良かった! ご無事だったんですね!?」
管理人が放った甲高い声に、コータは顔をしかめる。
ご無事? 何が? まさか?
コータはぐっと口を結んでユカポンを覗き見る。右手指を握り、険しい顔をしていた。
「えっとぉ、どのようなご用件でぇ――」
「それがもう大変だったんですよ! 近所の人から連絡がありましてね!? なんでも学生服を着た……多分、高校生だと思うんですけど、高柳さんの部屋に押し入ったって!」
「はぁ? ……押し入った? ……押し入った!? ウチにですか!? 高校生が!?」
コータは椅子を蹴倒す勢いで立った。ユカポンに目を向けると小さく頷き返された。
「あの……おっしゃられている話の意味が、よく分からないんですけど……」
「だから押し入ったんですよぉ! 学生服の子が! 斧でドアを壊して――」
「斧ぉ!? はぁ!? 高校生が斧でドアを壊した!? ウチのドア!?」
「だからそう言ってるじゃないですか! だからもう心配で心配で! 警察には――」
「あの! またすぐかけなおします!」
「えっ!? ちょ、高柳さ――」
コータは会話を強制的に終わらせ、呆然と床を見つめる。先ほど聞いたヨタ話のように、管理人の話もまた理解の範疇を超えていた。
ふらつく躰を椅子に下ろしてティーカップを口に運ぶも、すでに空になっていた。
「――分かって、いただけましたか?」
ユカポンの真剣な眼差しを向けられ、コータは顔を覆った。
「……えと、俺、本当に狙われてるんですか? 誰に? イサミンに?」
「おそらくは。まだ実験がどういう風に組まれているかは分からないんですけど、多分コータさんと同じように、ハナビちゃんも――」
「……だよねぇ……ちょっと、もうちょっとだけ待って。頭を整理するから」
「でも!」ユカポンは非難するように言った。「でも、時間がな――い……」
声が途切れた。どうしたのかと顔を上げると、ユカポンは口を半開きにして、コータの背後――店の入り口を見つめていた。
「お、お客様!?」
背中のほうから狼狽する店員の声がした。鋭い悲鳴。
大きく見開かれたユカポンの瞳が、何かを追っている。
ひたり、ひたり、と後ろから圧迫感が近づいてくる。本能が、コータに逃げろと告げた。
「コータさん!」
悲鳴が耳に届く寸前、コータは椅子からずり落ちた。瞬く間もなく、鈍い破砕音が店中に響いた。テーブルの下に滑り込んだコータは肩越しに、天板の縁を引き裂いた金属塊を見る。
黒いプラスチックグリップから伸びる銀色。家庭防災用の片手斧だった。
――マジか。
俄には理解しがたい状況だが、コータは自分でも驚くほど冷静だった。素早くテーブルの足を掴んで斧の持ち主に向けて押し込む。衝撃。構わず腰をあげ、力任せに押し離す。振り払われたテーブルが床を滑り、不快な擦過音を立てた。
その隙にコータは腰のホルダーから警棒を引き抜き、振り出した。
「……お久しぶりです。この二週間、どう、なさってました?」
どいうわけか、口から出てきたのは緊張感に欠ける営業口調だった。
およそ二メートルの空白を挟んで、斧持ちの学生服――タケッチと対峙する。
「なんで? なんでですか? どうして躱したりしたんですか?」
右手に小さな片手斧、左手に特殊警棒を握ったタケッチは、微かに首を傾げた。
「……僕らを騙していたんですか? 生き死にはどうでもいいんじゃなかったんですか?」
「…………はぁ? なんの話ですか?」
皆目、見当のつかない話だ。コータは背中越しにユカポンを見やる。ふるふると首を左右に振っていた。どうやら儀式の当事者にも意味の分からない話らしい。
タケッチが踏み込み音が聞こえた。瞬間、コータは前に飛び込んだ。頭上を斧が掠める。床を転がり振り向きながら躰を起こした。そこを狙い、タケッチの警棒が走る。
激しい打音が店内の悲鳴をかき消した。
警棒で受けるや否や、コータは半歩、飛び退いた。数瞬前まで頭があった空間を銀光が切り裂いていった。無理振りの代償としてタケッチの躰が僅かに傾ぐ。防災用とはいえ斧は斧、重たいヘッド部分に重心が偏り、警棒に比べれば振り回すのは難しい。
当然、振り戻しにも時間がかかる。もたつく隙を逃さずコータは前蹴りを打った。正確な蹴りがタケッチの右わき腹に刺さった。
しかし、タケッチは弾かれながらも斧を振り出す。鋭い刃がランニングシューズの靴底を舐めて過ぎる。と、倒れたテーブルに足を取られてタケッチがすっ転んだ。
コータは無意識の内に警棒を構え直す。その裏で、胸の内に何かが湧いた。
……やべぇ。ハナビを助けにいかないと!
焦燥感。身を焼くような熱が、向けられた殺意を遠くする。
タケッチがのろのろと立ち上がる。斧を振りかぶり、警棒を小太刀のようにかざした。
「避けるなよジジィ! ムカつくんだよ! 死ぬのが怖くないんだろ!?」
うるせぇ、オッサンだよ。まだ。
心中で毒づき、コータは警棒を握り直した。とにかく早くこの場を収めて、ハナビを助けに行きたかった。
「――苦情は後で聞きますんで、一旦、いいですか?」
しかも、この期に及んでコータの口から出るのは営業時代の言葉だった。
「さっさと死ねよ! 殺されてくれよ!」タケッチが斧を前に突き出す。
「僕は、いつもいつもいつもいつもいつも! いっつも! 誰かの尻拭いだ! どいつもこいつも好き勝手にやりやがって! 頭に来るんだよ! それも全部、お前のせいだ!」
「……いやそれ……俺のせいじゃなくないですか?」
まるで時が凍ったかのようだった。
つい先ほどまで怯えていた客も、店員も、一瞬とはいえ真顔になった。コータは誠実に対応したつもりだったのだが、その場にいた誰の目にも煽っているようにしか見えなかった。
現に、タケッチの顔は怒りで醜く歪んでいた。
「――だから、お前のことが、大っっっ嫌いなんだよクソジジィ! もういい! この裏切り者のクソジジィ! お前を倶利井戸様に捧げて僕は自由になるんだ!」
ユカポンの話は本当だったらしい。洗脳とやらで狂気に沈んでいるのだろう。だが、コータには割とどうでもよかった。それよりハナビの安否が気になる。
「まぁ、どう思われようと別にいいんですけど……タケッチさんがやる気なら、やりますよ? いいんですか? 俺、殺す気でいきますよ?」
だから、コータは遠慮なく言った。タケッチが怒ろうが悲しもうが、どうでもいい。
そんなことで人は死なない。
心折れて引いてくれれば、それでいい。
しかし、タケッチは折れるどころかむしろ、激高した。
「――ッッざけんなぁぁぁぁぁ! そういう! スカしたとこが! ムカツクんだよ!」
吼えると同時にタケッチが前に出る。コータは足捌きを見極めながら待ち受けた。
おそらく、振りかぶった左の警棒はフェイク。右の斧が本命だろう。たとえ扱い慣れた武器を握っていたとしても、より大きな武器を持てばそれを使おうとしてしまうのが人間だ。
コータはタケッチの誘いに応じるかのように前へ――出ると同時に、鋭く叫んだ。
「ユカポンさん!」
聞いたタケッチはすんでで踏みとどまると、首を後ろに振った。
名前を呼ばれたユカポンは訳が分からないといった様子で左右を見渡し、私? とばかりに自分を指さす。
嘘。ブラフ。ハッタリ。それはコータの陽動だった。
気付いたタケッチがこちらに振り向く――狙いはそこだ。
ぐじゃり、と警棒が肉にめり込んだ。
「……マジかよ」
鼻頭を狙った警棒は、首にめり込んでいた。焦ってはいたが、このタイミングで外すとは。
興奮していたのか、それとも、まさか躊躇ってしまったか。
躰を支配する焦燥感が、尋常ならざる可笑しさに塗り潰されていく。
コータは倒れてゆくタケッチの頭を引っ掴んだ。ダラリと舌を垂らしたタケッチの顔。無性に可笑しい。右膝を鼻に打ち込んだ。髪の毛が千切れて指間に残った。笑える。
斧を持った高校生は、白目を剥いて昏倒した。
コータは床で弾んだ頭を蹴った。どうにもこうにも可笑しい。笑わずにはいられない。気付く。組手のときから何も変わっていない。躊躇っていては、いつか死ぬ。
「クリームシチューにカツもあり、か」
踏み込むのはできる。あとは、殺意を止めてはいけない。殺すと決めたら、殺せ。
「――それじゃ、ハナビちゃんのとこ行きましょう、ユカポンさん」
「え、えと……はい……」
ユカポンは完全に委縮していた。彼女だけではない。店員も、他の客も、やりとりを見ていた誰もが、凶暴に笑むコータを鬼か何かを見るような目で見ていた。
コータは頓着せず、ふぅ、と息を吐きだし、首の骨を鳴らした。
「あ、警察、呼んでおいてください。気絶してるから、大丈夫ですんで」
店員にそう伝え、タケッチを見下ろすユカポンの手を取った。「待って」だの「おかしい」だのの発言はとりあえず無視して、店を出る。
距離からして、駅の反対側に出たら、そこからタクシーだろうか。
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