九月一日の殺意2(ユカポン)
遡ること数時間前――正確には、九月一日、午前四時ごろ。
新たな指示を受け取ったユカポンは、事態の深刻さに我が目を疑っていた。
『反逆者の魂を倶利井戸様に捧げよ』
その文言と一緒に、住所と、コータの写真があった。
「倶利井戸様って……どこかで……っていうか、魂を捧げる? ……まさか殺せって?」
参加者たちは写真のアップロードを利用し、達成までにかかった時間を競っている。きっと我先にと動きだすだろう。
背筋に悪寒が走った。
ユカポンはバックアップを参照し、コータに警告するべくメールを打った。
時間も時間だからか返信がない。もちろん安心できるはずもなく、電話もかけた。
何度かけても留守電にすら繋がらない。以前もらった名刺も見たが、自宅住所や電話番号は書かれていなかった。すでに退職しているから、会社のメールアドレスも意味は――
いや、会社に連絡して教えてもらう方法もあるか。
名刺の電話番号を打ち込み始めたユカポンは、しかし顔を歪めて番号を消した。
まだ始業前。かけるだけ無駄だ。メールで尋ねるべきか。それでは遅すぎる。やはり優奈の言っていたように、通報するべきなのか。
でも、私の判断ミスだったら?
イサミンがメメント・モリというグループを作ったのは三カ月以上も前だ。
つまり、彼が計画を立てたのはさらに昔ということになる。いち研究者として、費やした時間を無駄にはさせられない。もし、自分が計画者なら、参加者の横槍で中止なんて最悪だ。
それに、こんな手のかかっている実験、イサミンひとりではできない。万が一、ユカポンの判断ミスで実験が失敗したとしたら、関係者の時間を無駄にした責任は誰がとるのだ。
自身も研究者の端くれであるだけに、他人事ではなかった。
せめて決定的な証拠があればと、悶々としながら薄気味悪い写真を眺める。
「…………写真……そうか」
アップロードされた写真の中に、撮影者や場所を特定できる情報があるかもしれない。
ユカポンは記録しておいた写真を見直し始めた。
まずは一枚一枚
次に写り込んでいる個人情報を探す。場所や人、どんな情報でもよかった。
と、初期に上げられたものの中に、ハナビが撮影したと思しき写真があった。写真の隅っこに『考える人』のストラップが写り込んでいたのだ。同じように、他のメンバーが撮影したらしい写真も見つかった。やはり、メメント・モリの全員が実験に参加しているようだ。
何枚も確認するうちに、メンバーだけでは写真が多すぎることに気づいた。イサミンはメメント・モリのようなグループを複数つくっていたのかもしれない。
ユカポンは個人の興味を優先した自分を悔やんだ。
ほとんど唯一といってもいい救いは、ハナビが途中で離脱してくれたらしいこと。もし彼女まで腕を切り刻んでいたとしたら。もし、彼女がコータを殺したとしたら。
悔やんでも悔やみきれない。いや、悔やむ権利すらない。
危険性には気付いていたのに観察者であろうとした。それはもはや、加害者に等しい。
全ての写真とメールを隅々まで確認し、ユカポンは固く瞑目した。
決定的な証拠はなかった。もう他にできることはない。手詰まりだ。振動。スマホが震えていた。新たな指示だ。催促するかのように、短いスパンで何度も送られてきた。
ユカポンは後悔の念に苛まれながら躰を揺する――と、弾かれたように顔を上げた。
「まだ……まだ間に合うかも」
催促される。言い換えれば、イサミンはまだユカポンたちのフェイクに気付いていない。
参加者のフリを続ければ、コータを助けられるかもしれない。
「コータさん……! 早く、早く気づいて……!」
ユカポンは必死になってメールを送り、電話をかけ続けた。時間ばかりが過ぎる。そうこうしているうちに、新たな儀式のアドレスが送られてきた。
何度も繰り返してきた動作だからか、指先が勝手にリンクを辿る。
『裏切り者の魂を倶利井戸様に捧げよ』
奇妙な文字列と一緒にユカポンの写真と自宅住所が載せられていた。
死は、知らぬ間に背後まで忍び寄ってきていた。
「嘘……冗談でしょ? 優奈! 起きて! 起きてってば!」
必死になって優奈の躰を揺さぶる。ひとりでは恐怖に耐えられそうになかった。なかなか起きようとしない優奈に苛立ち、叩き起こそうかと手をあげる。そのとき、
ガラスの割れるような大きな音がした。
音は、マンションの外、エントランスからだ。
「んんぅ……なにぃ? 今の音ぉ」優奈が呻きながら躰を起こした。
「――ちょっと、起きて、待っててくれる?」
ユカポンはスマホを覗いた。午前七時。いつの間にか催促のメールは止んでいた。
――ピンポォン
呼び鈴が無機質に鳴った。喉を駆け上がってきた悲鳴を口の中に留め、インターフォンのディスプレイを覗く。廊下には誰もいない。子どもの悪戯と思いたいが、絶対に違う。
ユカポンは連日の儀式で雑然とした部屋を引っ掻きまわし、特殊警棒を探しだした。
「何? どうしたの? そんなもん何に使うの? てか、誰が来て――」
「シッ――静かに。こっちきて」
ユカポンは優奈を連れてインターフォンの前に立つ。誰も映っていない。息を潜めて見つめていると、画面の下方から、ぬぅ、と銀色の刃が顔を出した。ハンティングナイフだ。
再び、呼鈴が鳴った。
「ひっ――」
横隔膜を引き攣らせる優奈。その口をユカポンが手で塞ぐ。
「静かにしてて。私が玄関に行くから、次に鳴らされたら、インターフォンに出て」
優奈は両手で口を覆って、首を縦に振った。
ユカポンは赤いボタンを指さし、声を低めた。
「少しの間あいつと話して、それから警報。分かった?」
「わ、分かったけど、どうする気? そんなのでどうにかなんの?」
警棒を見つめる優奈の目は恐怖で潤んでいた。
「大丈夫。こういうのは一発目を先に決めたほうが勝つから。そっち、しっかりやってよ?」
言いつつユカポンは警棒の柄を握りなおし、忍び足で玄関に向かった。
妙な気分だった。
散々メメント・モリで殴り合ってきたからか、エナジードリンクを飲みすぎておかしくなっているのか、緊張してはいても恐れはない。むしろ、
やっと本気で人を殴れる。
浮上してきた思考に、ユカポンは顔をしかめた。やはり狂い始めているのだろうか。
呼び鈴が鳴り、リビングから優奈のビブラートがかかった声が聞こえた。
「……どちら様ですか?」
返事はない。けれど、玄関扉の向こうに人の気配があった。
「あの? 聞いてますか? というか、カメラの前に出てもらえます?」
頑張って、優奈。
口の中で呟き、ユカポンは玄関のたたきに降りた。冷えたタイルが裸足に心地いい。左腕を伸ばし、指先で鍵をつまむ。
さっきの映像――見えた刃の向きからして、男は右手にナイフを持ったままインターフォンを鳴らしたに違いない。その場にしゃがんで腕を伸ばしたとは考えにくい。なら、扉の前に立っていると考えるのが自然だ。
理性と狂気の狭間で、そのときを待つ。
けたたましくサイレンが鳴った。ユカポンは鍵を開けつつドアノブを押し下げ、扉に体当たりした。たしかな衝撃。打音とともに聞こえる悲鳴。廊下の落下防止柵に、黒いウィンドブレイカーを着込んだ青年が寄り掛かっていた。
ユカポンは素早く踏み出し、ナイフを握る男の右手首めがけて警棒を振った。鈍く重い、骨の折れる感触があった。取り落としたナイフが廊下で弾み、中庭に落ちていった。
男は左手を引きつつ外套の裾をまくる。腰に警棒のホルダーをつけていた。抜く気だ。
「――シッ!」
鋭く息を吐いたユカポンは男の左鎖骨を警棒で打った。湿った音が鳴り、男の左腕がだらりと垂れた。稽古と違い、暴漢相手なら遠慮しなくていいのだ。
ユカポンの警棒が男の右内膝に走る。体勢を崩された男は右手を床に伸ばした。瞬間、肘と手首の間で男の腕がひしゃげた。
耳を劈く絶叫。
殴ってもいい頭が、殴るには絶好の位置にあった。
刹那、ユカポンは唇の両端を吊り上げ、警棒を振りかぶる。脳内麻薬が溢れ出ていた。深く息を吸い込み、握りを僅かに緩める。手の内はインパクトの瞬間に利かせれば――。
「由香里! 大丈夫!?」
悲鳴にも似た優奈の声。我に返ったユカポンは咄嗟に警棒を止め、前蹴りを放った。足裏が男の鼻頭を押し潰す。折れた上顎の歯がぼろぼろと零れた。男の躰が傾ぎ、やがて倒れた。
サイレンの音が耳に戻る。見れば、騒ぎを聞きつけて野次馬が廊下に出てきていた。奇異の視線が背中に刺さる。足裏が生暖かい。粘つく液体。男の口から溢れた、血だ。
「――ひぁっ」
ユカポンは思わず悲鳴を漏らし、警棒を取り落とした。全身から滝のように汗が噴き出していて、寒さで凍えそうだった。今日から、九月だというのに。
優奈が呆とするユカポンの肩に手をかけ、呻く男から遠ざけた。
「大丈夫!? ケガ無い!?」首を振って廊下に叫ぶ「誰か警察呼んでください!」
応じて、ひとりがスマホを耳に当てる。別の誰かがカメラのフラッシュを焚いた。昼にはニュースで映像が流れるかも――そうだ。
「流れてからじゃ遅い……っ!」優奈に尋ねる。「コータさんから連絡あった!?」
「はぁ!? 知らないって! 何言ってんの!? 今、警察を――」
「私、行かないと! コータさんとハナビちゃんが危ない! あと頼んだ!」
言ってユカポンは部屋に駆け込んだ。スマホと財布。酷い顔だろうが化粧の暇はない。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 頼んだって言われても、こいつ――」
「両腕使えないから大丈夫!」
優奈を押しのけるようにして外に出たユカポンは、廊下に転がる警棒を逆手で掴み、
「ぐげぇっ!」
男の背中に叩きつけて縮めた。
スマホが喧しく震えていた。コータだ。時刻はすでに八時。ユカポンの代わりにコータを襲う奴がいるはず。そして、途中で抜けたハナビを狙う奴も出てくるだろう。
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