九月一日の殺意1

 コータは夢を見ていた。

 青白い朝日に照らされる部屋。固すぎるベッドのスプリング。まるで澄んだ湖の底に沈んでしまったかのような息苦しさ。いつも通りの、何度も、何度も見る夢――。

 ――違う。

 いつもなら、すでに中学生の頃のコータが首をくくっているはずなのに、いま視界に入っているのは、天井からぶら下がる電灯だけである。

 ふいにコータは夢の中の自分が何かを手にしているのに気付いた。

  ――下だ。下を向け。俺は何をもってるんだ?

 だが、視界は変わらない。夢の中の動作は制御できない。代わりとばかりに指先が妙にザラつく何かを撫でた。毛羽立ち、撫で続ければ肌が裂けてしまいそうなほど硬い何か。

 縄だ。まだ若いコータの手は細い荒縄を握っている。気づいた途端、中学生の公太は慣れた手付きで電灯のコードに縄を結び始めた。

 ――やめろ。何やってる? 展開が違うだろ?

 手を止めたくても止められない。生々しい感触だけはそのままに結び目が形作られる。

 首を吊るすためにつくられた結び目ハングマンズ・ノット

 まるで白熱球のような形の輪に首を入れる。コータの意思を無視し、無感情に、中学生の公太が首をくくろうとしている。

 遊びの少ない縄が首に食い込む。火傷を思わせる痛み。ベッドの縁に立っていた足が、一歩、何もない空間に踏みだす。意識だけは、反射的に首にかかる縄を握ろうする。

 だが、躰は動かない。

「――ぐぁぼぁっ」

 声にもならない音が喉から絞り出された。痛みも、苦しみも、耐えられないほどではない。

 ほんの少し躰を振れば、踵がベッドの端に届くはず。

 そう思った途端、中学生のコータも躰を振ろうとした。

 しかし、すでに宙に浮いている足はバタバタと虚しく宙を掻くだけだった。

 青白い世界が明滅する。視界の端に闇が滲み、積乱雲のように膨らんでいく。

 と、突然、中学生の公太は激しく床に打ち付けられた。電灯のコードが切れたのだ。

 足音が近づいてくる。部屋の扉が開いた。父親だろうか。

 混濁した意識がみせる世界は曖昧で、誰が入ってきたのか分からない。

「ハナビ!」

 ――なんだって?


 コータは飛び起きた。夢と同じく部屋はまだ薄暗い。鼻の奥で血溜まりの臭いがする。背中が鈍く痛む。昨晩は暑かったのか、シャツが寝汗でへばりついていた。

「……ハナビて」

 恐る恐る首を振ると、ローテーブルを挟んだ向こう側、黒いマットレスの上に、もこりと膨らんだ布団の塊があった。もぞもぞと蠢き、ぴょこんと首が出てきた。まるで亀だ。

「……なにぃ?」亀の如きハナビが眠そうに目を瞬いた。「よんだぁ……?」

 昨晩十一時には寝落ちたはずなのに、まだまだ寝足りなそうだ。

 コータはガシガシと頭を掻いてスマホを取った。むぃーむ、と震えている。何か、やたらとメールがきている。おそらく並木だ。そんなことより、別の表示が気になった。

 九月一日、〇七時四十九分、木曜日。

「……?」

 だからなんだ。なぜ気になった。日付よりもさっきの夢の展開のほうが重大だ。

「親父……は慌てたりしねぇだろうしなぁ……」

 誰だか知らないが、なぜハナビの名を呼んだ? 

 というか、あれは俺の声じゃなかったか? 

 叫んだくらいだから、きっと慌てていたんだろう。

 それに、あの生々しい縄の感触。

 首を撫でると、目の奥に刺すような痛みが走った。酸欠を思わせる体感覚、微かに漂う酒の残り香。ローテーブルを見ると、乾いたチーズケーキが半分と、薄茶色の液体で満たされたショットグラスがあった。口をつけていないということは、途中で酔い潰れたのだろう。

「アタマ痛ぇ……宿酔い? 俺が? マジで?」

 躰を起こしたコータはよろめきながら流し台に向かい、麦汁と化したターキーを捨て、同じグラスで水を口に含んだ。生ぬるい。ゆるゆると再起動した脳みそで昨晩の記憶を手繰る。

 近所のコインランドリーにハナビの服を放り込んで、そのあと、どうした?

 帰りにドラッグストアに寄って、包帯とガーゼと消毒液を買って、家に戻った?

 いや、怒っているであろう姫のご機嫌を取るため、引き返してコンビニに寄った。テーブルに残っていたチーズケーキがそれだ。なぜ半分。そうだ。

 戻ってみたら思いのほか時間が経っていて、ハナビがすっかりのぼせていたのだ。

 声をかけても返事がないので鍵を開けて浴室に入った。湯をぶっかけられた。かろうじて死守した洗濯物を渡し、ご機嫌とって、その後は。

 ハナビの親が通報して足取りを追われて両手に縄。そんなの御免だと思った。

 だから、電話を入れさせた。電話口から母親らしき女の叫び声が聞こえてきて、当事者がヘロヘロだから埒があかず、けっきょく電話を引き継いだ。

 何を言われたのか忘れたが、耳奥を掻きむしられるような金切り声は覚えている。

 しかし、ハナビが両親にコータの名刺を渡していたのが幸いした。また、メメント・モリのことをぼかして話していたのもそうだ。

 自宅の住所を伝え、必ず学校に行かせて家に帰すと約束し、こくりこくりと船漕ぐハナビに話をさせた。眠気マックスといった様子のふにゃふにゃした声色だった。

 しかし、なんとか納得させられたようで、お願いしますと頼まれた。そのすぐあと、電話を代わった父親に『ハナビに何かあったらただじゃすまさない』と、釘を刺されもしたが。

 で、ひと段落して一杯やって、マットレスにハナビを寝かせて二杯目をやって……、

「……今か……」

 呟き、流し台で顔を洗う。何か忘れている。妙な、酔いとは違う思考の定まらなさ。

 もしや、焦ってる?

 なるほど焦燥感というやつだとしたら、俺は何に焦ってるんだ?

 と少し楽しくなってきたそのとき、はっと気付いてシンクの縁を叩いた。

「学校に行かせないとじゃねぇか!」

 それで時間が気になったのか!

 あの殺意を帯びた声の父親に訴えられる。だから焦っているのだ。

 いかんではないか!

 それからのコータは早かった。再び眠りの世界を旅し始めたハナビを引きずり戻し、朝食代わりに残りのチーズケーキを食べるよう言った。そして「学校休むぅ」と寝ぼけ眼で可愛く愚図るハナビをどやしつけた。自らの保身のために。

「ダメだ! 絶対ダメだ! 始業式に出てもらわねぇと訴えられる!」

「……慌てすぎだよ、コータは。私が話せば父さんはそんなことしないって」

「ダメ! 営業で最も大事なのは親密な関係ラポールだ! 信頼感カンフィデンスを得るのが大事なんだよ!」

「んぅ……良く分かんないけど、もう営業じゃなくない……?」

「営業ってのは人間関係の最小単位なんだよ! 小さな約束をしっかり果たすことで信頼されるんだ! それを繰り返して、関係を構築してくの! 分かるか!?」

 ハナビは長い前髪の奥から興味なさそうにコータを眺め、乾いて微妙にカピカピしているチーズケーキを口に運んだ。口元が綻ぶ。

 コータはその少女らしい笑みにほっとした。 

「よし。コーヒー淹れるから、飲んだらすぐに学校に行くんだ。いいな?」

「すぐにって……一回、家に帰るよ。それから行くから」

「ダメだ。それだと間に合わないだろ?」

「……そりゃそうだけど、私服で行けっての? そっちのほうが問題にならない?」

 ハナビ様の言う通り。けれど、すぐに秘策も思いついた。

 コータは極薄のクローゼットからワイシャツと赤いタイを選んで投げ渡す。

「それ着て、それ締めて、『ちょっと急に人に会ってきて……』とか言えば大丈夫」

「何それ? そんなの却って怪しまれない? だいたい――」

「大丈夫だよ。若いころ俺も何度かやった手なんだ。たいていは『こんな朝早くから誰に会ってきたって言うんだ――』とかなんとか言ってくるから、そこで、こう答えろ」

 コータは大げさにしなを作って多義的なな笑みを浮かべた。

「それはちょっと、その……」パっと姿勢を戻し真顔で続ける。「後は何も言うな」

 ハナビは呆けたような目をして、ネクタイとワイシャツとコータを見比べる。

「えと……何? なんでそれで大丈夫なのか全くわからないんだけど。っていうか私、ネクタイとか結んだことないんだけど」

 不貞腐れたような態度のハナビに、コータが詰め寄る。

「大丈夫だ。誰に会ったのか言えないフリをしとけば、教師どもは深く追求しない。できないんだよ。あとあとプライバシーの侵害だのなんだの言われたくないからな」

「えっ? それって――」

「脳内に幼くして別れた父親だの母親だの設定しとくんだ。間違いないから。信じろ」

 言いつつコータはネクタイを結んでやった。次にかつて並木に買わされた薄手のカーディガンを腰に巻かせ、その下に特殊警棒を隠させた。残る問題はダラリと垂れてる前髪だ。そのままでは小うるさい教師の心証を損なうに違いない。

「その前髪、上げよう。上げたほうが絶対イイ」

「えっ、やだ! それは絶対やだ!」

 それまで借りてきた猫のようだったハナビが、急に前髪を押さえて逃げようとした。

 だが、その反応はコータの想定内である。すかさず肩を掴んで座らせた。

「任せてハナビちゃん。俺、クビじゃなくて、自主退職だから」

「…………意味わかんないよ!」

 たっぷり考えてから出てきたハナビのツッコミを無視し、コータは壁棚から長らく使ってなかった小物箱を取った。営業時代に使用していた対女性用チラ見せアイテムである。デザインヘアクリップなどはお姉さま方のウケも良かった。

「好きなの選んで。とりあえずデコだそう。デコ。そのほうが教師ウケいいから」

「な、なんかコータ、ちょっと、勢い怖いよ?」

「怖くはない。俺はいま、真剣にやっているんだ。ハナビちゃんも真剣にやるんだ」

「……わ、分かった」

 ハナビは気圧されたように首を縦に振り、様々な色形のクリップ眺めて鯨モチーフの青いヘアクリップを選んだ。長い前髪をまとめて横に流し、クリップで留める。

「…………なんだよ。ちゃんとデコ出してるほうが可愛いじゃんか」

「――えっ? そ、そうかな?」

「教師にヨシ、俺にヨシ、ってやつだな。鏡、見てみな」

 言ってコータは熊の後頭を象ったコンパクトミラーを渡す。これまた営業時代に使っていた小道具である。かつては飛び込む直前、必ずこれで最終チェックをしていた。

 ハナビが鏡に見入っている隙にコータは着替えを済ませ、淹れたばかりのコーヒーをすすった。未だに頭が寝ぼけている気がした。だが、完全覚醒を待っている暇はない。

「よし、行こう。もう時間がない」

 すでに時刻は八時を回っている。始業まで残り三十分を切っているのだ。

 そして。

 コータは『まだコーヒーを飲んでない』と駄々をこねるハナビにカフェオレを買い与え、なんとか駅前まで引きずり出した。次の問題は駅から学校まで徒歩十五分という距離だ。

 なんで遅刻している当人が落ち着いていて、俺が焦らなくちゃいけないんだ。

 そう思いつつも、真人間に近づけたような気がして饒舌になっていた。

「ちゃんと学校行けよ? いいな? 学校行って、帰ったらお父さんとお母さんに――」

「分かった! 分かったってば! しつこいよ! なんか急にオジサンっぽいよ!?」

「そりゃハナビちゃんから見りゃ俺はオジサンだろうよ! だから言ってんの!」

 財布を開いたコータは貴重な諭吉を一枚ドロー、ハナビの手に握らせた。

「向こうに出たらタクシー乗れな? あと俺の電話番号わかるか? 家は?」

「大丈夫だって! 心配性だなぁ……っていうか、お金、いま渡すの?」

 はっとした。おっしゃる通りである。

 急に対不審者向けの強烈な視線がないか不安になった。周囲を見渡した瞬間、一人、二人は目を逸らした気がする。きっと誰も見ていなかった。そう信じるしかない。

「いいから! もってけ! 帰れって言われたらタクシーで帰っちまえ!」

「……ップ……プ、ク……アハハハハハハ!」

 何がツボにはまったのか、ハナビは腰を折って笑った。滲んだ涙を指先で払い、ポケットに金をしまいこむ。

「ありがとね、コータ。最初から、コータに電話してればよかったよ」

「……? よく分からないけど、ちゃんと親御さんに説明してくれよ? じゃないと条令違反じゃすまなくなるからな? 俺、この歳で前科一犯とか、ゴメンだからね?」

「何歳ならいいの? ……じゃなくて、了解!」

 言って駆け出したハナビは少し離れたところで足を止め、振り向きざまに大声で言った。

「どうしてもダメそうなら、ちゃんと合意の上だったって言うよ!」

「うん……うん? ……って、ハァ!?」

 コータはぐんぐん遠くなっていく背中に叫び返した。

「それ! 一番アウトな奴だからやめろ!」

 ハナビは悪戯がバレた子どものような笑顔で手を振りかえしていた。

 頼むぜ。

 本年度で最も深いため息が出た。正直、疲れていた。

 しかし、まだ日課のランニングが残っている。

 今日こそは平均速度記録を更新してやると、その場で決めた。

 アプリを起動しようとスマホを出したコータは、大量のメール通知に眉を寄せる。メールは並木からではなく、ユカポンからだった。

「……今度は、何?」

 見るなと叫ぶ本能に逆らい、受信ボックスを開く。ずらずらと並ぶ題名はどれも『緊急』だの『急ぎ返信ください』だのと、何やら不穏な香りが漂っていた。

 最新のメールには『今どこですか? ハナビちゃんに連絡取れますか?』とあった。

 どう返信するべきか迷ったコータは、

『いつもの駅前にいます。ハナビちゃんは学校に。何かあったんですか?』

 と、できるだけ平静に、何事もなかったかのように返した。ユカポンは心理系の学生だと言っていたし、ハナビを気にかけていた。九月一日の殺意に気付いて心配になったのだろう。

 勝手に抜けたくせしてムシのいい話だよなぁ。

 コータは、ふ、と鼻を鳴らしてスマホをランニングバッグに突っ込んだ。

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