八月と九月の狭間:ユカポン
同日、午後十一時。ユカポンの自宅マンションにて。
寝ぼけ眼をこする優奈が、気持ちよさそうに寝入っているユカポンの尻を蹴った。
「ちょっと、由香里! 起きなって! 交代!」
「もうちょい……もうちょいだけ……」
「手伝ってやってんだからさっさと起きんかぁぁぁぁ!」
優奈の怒声に、ユカポンのつかの間の休息は切り上げられた。
「何ぃ? なんなのぉ? もう交代ぃ?」
「他に何があるって? てか、こんなの記録してなんになんの? 頭おかしいよコイツら」
ほらこれ見ろとばかりに優奈がスマホを投げる。充電器から伸びるコードに引き止められてスマホがベッドの端に落ちた。
上体を起こしたユカポンは眠りたがる脳にカフェインで活を入れ、よれたシーツの上で光る画面を見つめた。切っ先が真っ赤に濡れたナイフと、傷だらけの腕が映っていた。傷は歪ながら算用数字の形をしており、『666‐6666』とも読めた。
「うぇぇ……何これ? あの電話番号? ……フェイクじゃないよね?」
「多分、違うね。百均メイクで皮下脂肪まで再現するやつなんていないっしょ」
言って優奈は左腕を立てた。写真の傷とよく似たメイクが施されている。本人も口にしていたように、肉の裂け目からのぞく黄色い脂肪までは再現されていない。
いよいよ過激化してきたかと、ユカポンは霞む目を擦った。
求められる血の量は増え、催促の頻度も上がっている。二人がかりで挑んでいるからまだ眠れているが、ひとりで儀式を行っている参加者たちは横になる時間すらないだろう。
「ほんと、優奈に頼んでよかった」
「マジで感謝してよね? それっぽく写真加工するのとか、すげー面倒だったんだから」
「うん。お礼はちゃんとするから……」
「お礼は分かったって。……でも、いい加減ヤバくない? 写真使って競争させて……みんなどんどん過激になっていってる。さっさと警察に通報したほうがよくない?」
「まだ……まだちょっと、早いかなぁ……。証拠もないし」
実験系らしい優奈の自制的判断は理解できるが、いまは同意できない。
すでにいくつか実験を終えている彼女とユカポンでは立場が違う。やっとの思いで潜り込んだメメント・モリで、これ以上はないという特殊な実験が行われているのだ。それも自分には責の及ばない形で。最後まで見届けない手はない。
私には次がないかもしれないんだから。
ユカポンは自分に言い聞かせる。
まだ何の罪にも問えないのだから、通報するだけ無駄だ。
自殺教唆は立証するのが難しいという。自殺を促す直接的な指示でもあれば別だろうが、いままでに集めた記録だけでは証拠としても不十分である。
それなら、実験を止める理由はない。ここで実験を止めたりしたら、イサミンがメメント・モリを作った理由も、洗脳の目的も、何も分からないまま実験が闇の底に沈む。
ユカポンは高揚感に導かれるまま、優奈に訊ねた。
「……でもさ、この実験、面白くない? 洗脳の実験なんて普通じゃできないよ?」
「――キモい」優奈は一言で切って捨てる。しかし同時に、諦めたように笑った。「だけど、分かるよ。研究が進むとテンションあがってくるもんね。私ら、マッドだよ、マッド」
「ヒドいな。優奈と違って私はこんな実験しやしませんよ」
だって。
「
そういうと思ってましたと言わんばかりに、優奈が声をかぶせた。ニヤリと片笑みを浮かべて、ユカポンに代わりベッドに入る。すぐに寝息が聞こえ始めた。
「……私、そんなに頭おかしいかなぁ?」
自分を狂気的だと評する同僚を見つめ、ユカポンは自嘲するかのように笑った。
あらゆる科学的研究は、実験であれ調査であれ、必ず倫理審査を受ける。中でも死や恐怖といった特殊な感情を扱う研究は、主題がデリケートなだけに、審査が厳しい。
そうなった理由のひとつとして、監獄実験と呼ばれるものがある。
人の行動や価値観は役割の影響を受けるか検討するために行われた実験で、参加者の一般学生を囚人グループと看守グループに分けて生活させたという。今から振り返れば、僅かながらも、洗脳に関連する実験ともいえる。実験自体は、途中で中止せざるを得ないくらいに影響がでるという結論を得て、終了した。
あの実験が暴走したのは、研究者自身が実験を主導していたからだ。
「こっちは外側から観察してるんだし、大丈夫でしょ」
ユカポンは研究者としての愉悦に唇の端を吊り上げ、受け取った次の指示を確認する。
彼女はまだ、自身がとうに危険な領域を踏み越えているとは、気づいていなかった。
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