八月最後の夜:ハナビ
内心、大慌てて出浴室に入ったハナビは、何とか服は脱いだものの、それをどこに置くべきか迷っていた。猫の額ほどの広さしかない洗面台にはコップとかが置かれているし、トイレの蓋の上には置きたくないし、床に脱ぎ捨てて濡れたら後で困る。
それ以前に、まさかコータの家でシャワーを浴びるはめになるとは。
相手にそんな気がなさそうなのは臭いと言われて分かっているが、とても冷静でいられそうにない。少しでも気を落ち着かせようと、ハナビは特殊警棒のグリップを握りしめた。
「大丈夫だよ、大丈夫。いざとなったらこいつで……」
ゴクリ、と喉が鳴った。勝手に。
ひとつ深呼吸をして、湯気の籠り始めたバスタブに躰を入れる。久しぶりの暖かさが白い肌の上を伝って、左手首の傷を濡らした。鋭い痛みに現実を思い知らされる。
「痕……残るかな?」
バスタブに座り込んだハナビはぎゅっと膝を抱えた。洗い流された傷は浅く、血はすでに止まっていた。お湯で固まっていた血が溶けたはずなのに、貯まっていく湯は澄んでいた。
「ハナビちゃん。カーテン閉めて」
「うぇっ!?」
突然、聞こえたコータの声に、ハナビは慌ててカーテンを引いた。その音を待っていたかのように、ガチン、とバスルームの鍵が開く。
「ちょっ!? ま、まって! なに!?」
「タオル置きに来ただけだよ。それと、着替えの服をだな……」
言いつつ、乙女心を理解しようともしないオッサンがバスルームに侵入してきた。
ハナビはカーテンで素肌を隠して警棒に手を伸ばす。――否、伸ばそうとした。間際に、洗面台の服に手を伸ばすコータと視線がかち合ってしまった。
「な、なんで、なんで私の服……」
「えと……俺んち乾燥機ないから、コインランドリーに」
言いつつコータは手早く汚れた服をまとめて紙袋に落とす。
ハナビは唇が震えるのを感じた。のぼせていた頭の奥にかっと火が灯る。
「え? ホンキで言ってる?」
「俺、女ものの下着とか持ってないし」
「まぁ、そりゃそう――」
そうじゃないか!
「待って! コータ! それはその――ッ!」
「はいじゃあ、これー」
と、コータは紙袋から特殊警棒を取り出しハナビの手に握らせた。
「カギはかけてくけど、万が一のときはコレで。あと――ま、なんか買ってくるわ」
「ま、あの、私ここで待つの!? じゃなくて!」
「ちゃんと肩まで浸かるんだぞー。この時期に風邪ひくと後が辛いからなー」
飄々と言ってのけたコータは、警棒を伸ばす間にバスルームから出ていった。
ハナビは遅ればせながら、ガチャンとしまった扉に叫ぶ。
「この……このヘンタイジジイ!」
すぐに玄関から物音が聞こえて、湯が跳ねる音だけが残った。数舜前まで沈みきっていた気持ちは、コータと一緒に、どこか遠くに行ってしまった。
「これ、どうしよう……」
伸ばしてしまった警棒を見つめながらハナビはバスタブに座り込む。湯が腰の辺りまで貯まっていた。柄からぶら下がっていた『考える人』が、湯に濡れて銀色に光った。
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