メメント・モリ3(コータ)
同日、午後七時。コータは躰にまとわりつく残暑に辟易としながら、駅前までやってきた。
同級生の並木に呑みの誘いを受け、待ち合わせしていたのだ。
日課にしていたランニングを済ませると、三通のメールがあった。一通は並木からの『だからお前は』で始まる説教であり、二通目は『さっさと返事を返せないような奴は』という罵倒であり、三通目は『わかった。今日、呑みに行こう』という前向きな検討課題であった。
もちろん、コータは三通目にのみ『お前の奢りな。失業保険切れる』と返した。
そしていま、夏の終りに、コータはタダ酒を呑むつもりで駅まで赴いてやったのだ。
この俺と酒を呑めるとはなんて羨ましい奴なのだろう。
自分でも尊大だと思う感情を抱いて現れたコータに、吊るしの背広を着た並木は言った。
「お前さ、時間厳守って単語を知らねぇの?」
知らないことはないが、意味があるとは思わない。儀式みたいなものだ。
約束の時間を守るのは相手方からの心証を保つためであって、守ったからといって特別いい思いをしたことはない。それに、守らなくても生きている。
「……この駅さ、メメント・モリでよく使ってたんだよ」
「……俺のツッコミは無視かよ! 知らねぇよ! お前の謎の文化的活動なんて興味ねぇわ!」
並木の魂の咆哮を聞き流しコータは漠然と思った。
鉄の棒っきれで殴り合うのは、はたして文化的活動といえるのだろうか。
それを気に入っていた自分については棚に上げ、コータは並木を伴い、懐かしき繁華街に足を踏み入れた。
ポツポツとネオンが灯り、疲れた顔した呼び込みが立っている。いつも通りの、そして久しぶりの光景だ。あらためて店を探して歩くと、驚くほど凡庸な飲み屋街である。
「……なぁ、家呑みにしねぇ? 俺の家、隣の駅だしさ」
コータは無個性の極めようとする居酒屋チェーン群に口の端を下げ、そう提案した。
「そうなぁ……」と興味なさげに返す並木は、ふと眉を寄せて通りの先を睨んだ。
「なんだありゃ。この辺、地味に雰囲気悪くね?」
「何がだよ。ふらっと来といてヒトの地元バカにしてくれんなって」
「お前の地元はここじゃねぇだろ。だいたい盆にも帰って――じゃなくて。ほらアレ」
言って並木は通りの先を指さす。
見覚えのある生意気そうなガキンチョが、独り、ふらふらと歩いてた。
「……マジか」
ハナビだ。歩く姿を目にするのは、二週間ぶりだった。胸が一度、強く弾んだ。
「何? また知り合い? んじゃ、あの子も誘って呑むか?」
転職を繰り返して女っ気に欠ける並木が、本人はキメ顔と信じる下卑た笑みを浮かべた。
バカめ。こっちは、それどころじゃねぇんだ。
「今さ、『悪い、また今度』っつったら、怒るか?」
「憤死するほど怒るわ。ボケが」
「じゃあ、『悪い、また今度』って、言ってもいいか?」
「……はい憤死ー。俺、憤死しましたー」
「死人にゃクチナシ」
「白い花ってか? 後で請求書送りつけてやっからな。ボケカスが」
並木の『ボケカスが』をきっかけにして、コータは思い切り地を蹴りつけた。
あのクソガキめ。
いきなり俺を仲間外れ(ハブ)にしやがって。
我ながらガキ臭いと思うが、駆けながら叫んだ。
「ハナビちゃん!」
ビクリと震えたハナビは弾かれたように振り向いて、
逃げた。
ハハハハハ、クソガキめが。
疾走というには足らないが、全力ダッシュではあった。鋭く息を吐き出し、限界まで足の回転を速める。ハナビはめちゃくちゃ速かった。けれど、
夜の線路沿い、意味が分からないまま、懸命に少女の背を追う。ときおり、すぐ横を電車が通って、謎の追いかけっこに興じる二人を照らす。走って、走って、走って、走った。
コータが腕を伸ばす。指先がハナビのシャツの後ろ襟に触れた。握る。捕まえた。が、
「……ッ! ……………ッッ! …………ッハァ――ッッ!」
声を出せるだけの酸素が肺に残っていなかった。
一向に収まらない動悸、息切れ。早朝ランニングを欠かさず続けていなければ追いつけなかっただろう。逃げた張本人にぶっ叩かれまくった時間も含めて、無駄ではなかったのだ。
コータはなけなしの力を込めてハナビの後ろ襟を引っ張り、どやしてやろうと顔を覗きこんだ。途端、言ってやろうと思っていた文句の全てが腹の奥底に引っ込んだ。
どういうわけか、ハナビは泣いていた。
瞬時にコータは悟った。追いかけてきた距離もさることながら、遅い帰途についた人々もいないではない。ここで長引かせれば、事案だ。
「――どう? この辺り、夜の散歩は楽しい?」
だから、コータは初めて出会ったとき同じことを尋ねた。
両手を膝に息を整えていたハナビは、咽るようにして笑った。
やったぜ――なのか?
今更ながらに、選択を誤ったとき特有の、浮ついた足裏の感触に気付いた。
傍目には相当に不可解な光景だろう。ひどく昏い雰囲気の女子中学生を連れ、夜の街を徘徊しているのだ。通報されていたりしたら、ほぼ確実にアウトである。
一瞬の明かりを残し、また一本、電車が通り過ぎていった。
「――久しぶり。元気してた?」
「……うん」
ハナビはそれしか答えなかった。記憶にはない弱々しい声色。妙に同情心を誘われる。
自宅ワンルームの扉を開いたコータは部屋の惨状を突きつけられて口の端を下げた。
「まぁ色々と文句が言いたくなるだろうけど、我慢してな?」
ハナビは俯いたまま、ん、と答えた。部屋に招き入れると、ローテーブルの前にちょこんと座った。まるで迷子の野良猫だ。……気のせいか、少し臭うところも。
冷蔵庫を開いたコータは、細く、長く、息を吐き出した。
「……ロコモコ風でいい?」
「……よく分かんないけど、それでいい」
イマドキの若者が分からんのなら、もうオッサンの食い物になったのか。
去来した悲しみを振り払い、作り置きの冷凍ハンバーグを湯煎するため湯を沸かす。冷え切った米をレンジで温め、子どもだったらカレーだろという半ば偏見まじりの予想からドライカレーを作り、同じ皿にハンバーグと目玉焼きを乗せる。
いっそ旗でも立ててやろうかとリビングを覗くと、ハナビは抱えた膝の間に顔を埋めていた。
冗談めかすにしても、工夫が必要そうだ。
コータは鼻でため息をつき、ロコモコ風ずぼらプレートを運んだ。
「これがロコモコ風っすよ。姐御」
「……なに? アネゴって」
久しぶりに明るいところで見たハナビは、痛々しい顔をしていた。泣き腫らしたらしい真っ赤な目の下に、どす黒いクマ。左手首に巻かれたボロ布は乾いた血で汚れていた。
視線に気付いたハナビはすぐに左腕を隠してスプーンを取った。
「――よく分からないけど、コータには似合わないと思う」
「何が? アネゴ? 自炊してるオッサン? もしくはロコモコ?」
そうおどけて答えると、ようやく口元が綻んだ。
「全部似合わないと思う」ハナビはハンバーグをつついた。「食べていい?」
「どうぞ。お口に合うと――って言う前から食ってんね」
ハナビは一瞬だけ抗議するような目をしたものの、何も言わずにがっついた。あんまり勢い込んで食べたせいか咳き込んだ。コータは肩を揺らしながら水を差し出す。
「……水じゃなくて、何か飲み物ない?」
「おうおう、しばらくぶりに顔を見せたと思ったら厚かましいねハナビちゃん」
冗談めかす。だが予想に反してハナビの顔がすぅっと歪んだ。コータは慌てて立った。
「冗談だよ。食べてな。何かないか見てみるから」
気まずさを誤魔化すために嘘を吐く。節約生活を始めていたので冷蔵庫の中身はだいたい把握している。作り置きの惣菜とビールが数本、それに調味料しか入っていない。
時間稼ぎにと冷蔵庫の戸を開けて、肩越しに痛ましき姫の様子を窺う。
合宿前とは明らかに様子が違う。グループから抜けたタイミングからすると、親に何か言われたのだろうか――いや、たとえ叱られたのだとしても、二週間も経ってから家出するのはおかしい。それに手首の傷は、なぜ。
自分用のビールを取り冷蔵庫を閉めたコータは、「あっ」と幽かな声をあげた。
キッチンタイマーの安っぽい液晶が、淡々と告げる。
『8月31日 21:27』
つまり明日は、一年で最も多くの少年少女が、自分を殺してしまう日だ。
コータは缶ビールのプルトップを引き起こし口をつけた。胃袋に落ちていく液体はキンキンに冷えていた。もう一口と顎を上げると、視界の端に小さなコーラの缶があった。安いジム・ビームの販促品だ。コータはコーラ片手にリビングに戻った。
「これくらいしかなかったわ。温いかもしれんけど勘弁な」
「ん」と、受け取ったハナビはコータのビールにジト目を向ける。「そっちがいい」
「ダメに決まってるだろ? 合宿のときとは違うんだから」
「コータの話し方も合宿のときと違うよね。……怒ってる?」
「ブロックするならともかく退会はどーなんだ、とは思った。でも怒っちゃいないよ。俺は懐深いから……つっても、いきなり逃げるのはねぇって。こっちだって走らされたし、メシ作って出してやってるわけで、いまさら営業トークもないよな」
自分で言っておいて、笑ってしまう。自分の言葉に納得したのが可笑しかった。
「……そっか」ハナビははにかむように笑ってコーラを一口飲んだ。
「――ほんとにぬるいね。ご飯は美味しいけど」
「お口に合ったなら幸いですよ、ってな。あとな、それ食い終わったら風呂入れな?」
「――ッブッ!?」
何をどう勘違いしたのか、ハナビはコーラを吹きそうになっていた。
最近の中学生は色々早いと聞きかじってはいたが、オッサンも守備範囲に入るのか。
しかし
「いまさらだから言うけどさ。ハナビちゃん、めちゃくちゃ汗臭ぇよ?」
「えっっっ!」
ハナビの顎が、パカーン、と落ちた。少々背伸びした発想に基づくであろう赤面が、怒りのそれに変貌していく。危険だ。まず間違いなく、こう思っているだろう。
「コータの変態! ヘンタイジジイ!」
吠えたハナビはコータの手からビールを奪った。そして、口をつけた瞬間、スプラッシュした。霧状に散った黄金の飛沫がモロにコータの顔に降りかかる。
「苦っ! 不味い! ナニコレ! 服汚れたからシャワー借りる!」ハナビは矢継ぎ早に罵倒やら言い訳めいた何かを喚きながら立った。
「シャワー! どっち!?」
コータは顔面から黄金の液体をポタポタ滴らせながらユニットバスの扉を指さす。気ままな野良猫のように歩き去っていく少女の背中を見送り、ガクリと首を垂らした。
……親に黙って泊めたりしたら、お縄になるよな。
とはいえ、夜に家出した年頃の少女の親を説得するのは、素面のニートには不可能だ。
コータは皿を下げるついでにグラスを取り、ワイルド・ターキーを一杯、胃袋に落とした。
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