メメント・モリ2(ハナビ)

 合宿から戻った次の日の深夜、ハナビのスマホに一通のメールが届いた。てっきりコータかメメント・モリに関する連絡かと思ったのだが、違った。

 送信者のメールアドレスはランダム生成された無意味な文字列で、題名はない。『ひとつめの儀式』と本文に書かれており、すぐ下にリンクがあった。

「……マジ?」

 寝る間際に届いた怪しげなメール。思い当たるところがなければ無視して放置だ。

 けれど、ハナビの指は自然と画面を叩いた。

『依り代を作れ』

 難しい指示ではない。一番気に入っている服を切って人形を作るだけだ。ただ、メールを確認したらすぐに作業を始めろとある。しかも、完成するまで寝てはいけないらしい。

「裁縫とか……できるかな?」

 小学校のころを最後に、針を握った記憶がなかった。

 たしか、一度、儀式を始めたら、最後までやるのがルールだったか。電話では、途中放棄すれば罰が与えられると言っていた。あまり得意ではないが、やるしかない。

 ハナビは部屋のどこかで眠っているであろう裁縫箱を探した。

 それから一晩をかけ、お気に入りの服から不格好な人形を作った。盆を過ぎたばかりということもあって、父も、母も、出かけ間際に扉の向こうから声をかけてきただけだった。

 完成したらどうするんだろうとスマホを見ると、すでに次の指示がきていた。差出人のアドレスまた別のものになっており、本文にはリンクだけが張られていた。

「血って……マジで?」

 開いたページには、指先に針を刺し、人形の頭に血を塗りつけるよう書いてあった。人形を依代に作り変えるための最初の儀式だという。続けていけば、いずれ捨てたいところを人形に移せるようになるのだそうだ。

 痛いのは嫌いだ。痛みそのものが怖い。でも、指先くらいなら耐えられるかもしれない。

 ハナビは左手の人差し指に針を突き刺した。想像していたよりも、痛みは鈍かった。

 メメント・モリで頑張ってきたからかな。

 そう思うと、少し誇らしくなった。

 儀式の連絡は、それから毎日、間を置かずに届いた。内容はどれも簡単なものだ。たとえば一時間かけて人形に『お前はハナビだ』と教えたり、たとえばノートに『死は恐れるものではない』と書き連ねたり。ただ、三日目は『SNSグループから抜ける』ことだった。

「マジか……」

 それまで順調に儀式をこなしてきたハナビだが、こればかりは朦朧とする頭に鞭を入れて考えた。コータとユカポンは何にも換えがたい友人――いや、友人以上の何かだ。ユカポンは約束を守ってくれる優しい姉のような人だし、コータはまるでダメな大人だけれど、好きだ。

 サッキーやテツは『テキトーなだけだ』というが、まるでコータを分かっていない。

 普通の大人は、夜の繁華街を歩く中学生に声をかけ、名刺を渡したりしない。

 変だけど、変だからこそ、オカしくなったハナビにも対等に接してくれるのだ。背中に背負おうとする人ではなくて、肩を貸そうとしてくれる人だ。

 できるなら、自分の足で立って、一緒に歩きたい人なのだ。

 でも、今のままじや、いつかコータの足を引っ張ってしまう。死ぬのが怖くて震えているんじゃダメだ。それじゃ隣を歩けない。だから、

「コータなら、きっと分かってくれるよね……?」

 ハナビはグループから抜けた。釈明は後でいい。コータはそんなに小さな奴じゃない。後がいつかは分からないけど、迷っている暇はない。すぐに、次の指示がきてしまう。

 とにかく今は、少しでも長く眠らないといけない。

 目を閉じて息をつくと、すぐにスマホがチカチカと明滅した。むくりと躰を起こしたハナビは、画面をじっと見つめる。また違うアドレスだ。タイトルもなし。ただ、

『次の儀式を待つあいだ、死は恐れるものではないと、依り代に教え続けろ』

 と、書かれていた。

 ハナビは睡眠不足で霞む目を擦り、赤黒く汚れた人形を見つめた。

「死は恐れるものではない」

 何度も何度も繰り返し呟いていると、ときおり、人形が代わりに呟いた。依り代として機能し始めた証だ。何通前の指示だったか分からないが、そう書かれていた。たしか。

 ハナビが思い出せる記憶は、どれも朧げになっていた。

 いつだったか、カーテンを閉めるように指示されて以来、ハナビの部屋に陽の光が入ることはない。扉の向こうから声が聞こえてきた。誰の声か判別できない。しばらく待って扉を開けると食事が置かれているから、人形と一緒に食べながら次の指示を待つ。

『包丁で手首を切って、写真を撮れ』

 その指示が来たのは朝だった。いや、夜だったか。いつの間にか、画面に映る時計が読めなくなっていた。声を聞いたあとだったはずだ。それは、昨日だったか。

 スマホが震えた。催促だ。枕元で、早くやれよと真っ赤な顔のハナビが言った。真っ赤になっていたのは自分か。違う。ハナビだ。手のひらに収まる、小さなハナビ。

 ハナビがハナビは私だと言った。違うと答えた。どっちでもいい。儀式を進めないといけない。いま辞めたら、頑張ってきた全部が台無しになる。

 のろのろと躰を起こしたハナビは、のたうち回る扉を蹴りつけ黙らせ引き開けた。トレイの上の腐肉に蛾がたかっていた。茶色い地面がうねうねと波打ち歩きにくかった。

 真っ白い空や、壁から、蛾がポロポロと零れ落ちていく。足元を小さなハナビが駆け抜けていった。茨が道を塞いでいるのに、躰の小さなアイツは関係なしだ。

 ハナビは茨をかき分けながら台所まで這い、流し台の下から包丁を抜き取った。

 ――鍵だ。これは地獄の門扉を開く鍵だ。私を救う私の鍵だ。

 銀色に輝く鍵を部屋に持ち帰ったハナビは、それを蛾にまみれた手首に当てがう。あとは横に引けば儀式は完了だ。横に引くだけ。引くだけ。引け。引け。引け。引け……、

 引け!

「――ッ!」

 鋭い痛みが走った。取り落とした包丁が床で弾んで、甲高く鳴った。生白い手首に一筋の赤い線がぷっくりと膨らみ、流れ始めた。瞬間、全身を警棒で滅多打ちにされた気がした。

 痛みがあるのは手首だけなのに、痛くて躰が動かない。

 違う。痛くて動けないんじゃない。

 怖いんだ。

 気付いた途端、頭の底から虫がわらわらと溢れた。

 怖い。怖い。怖い。死ぬのが怖い。私が消えてしまうのが怖い。

 光がなくなるのが怖い。考えられなくなるのが怖い。皆と会えなくなるなんて嫌だ。死にたい。死にたいと考えるのが怖い。死ねば終わるのに死が怖い。嫌だ。

 嫌だ嫌だ嫌だ!

 ハナビは着ていたTシャツを破って、真っ赤に濡れた左手首に巻いた。

「こんなの、私、無理だ……」

 手元にポタリと水滴が落ちた。いつの間にか、涙を流していた。床に放り出したままだった警棒の柄尻に、『考える人』がちょこんと座っている。

 もう、ダメだ。

 たとえ一瞬とはいえ、ハナビは正気を取り戻してしまった。その時点で深層意識の変性に歯止めがかかり、儀式を進められなかったという罪悪感が弱った心を押し潰し始める。

 ハナビは依りハナビを切り裂きベッドに潜った。儀式は進めたかとスマホが震える。何度も、何度も、何度も何度も何度も。昼夜を問わずひっきりなしに鳴った。

 ユカポンからは何もなかった。けれど、コータからは電話があった。

 しかし、ハナビは応じなかった。応じられなかった。

 何を伝えればいいのか分からない。助けてなんて言えるはずもない。勝手にグループから抜けてしまったし、ユカポンには見放されてしまった。コータも怒っているに違いない。全部自分で始めたことだから、自分でどうにかするしかない。

 せめて、死ぬ勇気があればよかったのに。

 でも、死にたくない。死ねばいいのに、死ねない。怖い。死ぬ勇気すらない。

 お父さんに言う? お母さんに言う? 

 どっちも無理だ。これ以上の心配はかけたくない。もう長い間、顔も見ていない。会わせるような顔もない。もうきっと酷い顔になっているんだ。

 ハナビは止まらない涙をそのままにして、一日中、スマホを睨み続けた。

 こなせない儀式が積み上がっていく。みるみるうちに増えて三十八個も積まれた。

 また、スマホが鳴った。とうとうメールの受信画面ですらなくなっていた。電源が落ちたみたいに真っ暗になった画面いっぱいに、『死ぬのが怖いか?』とあった。どう返信すればいいのか分からない。どうやって画面を出したのかも、まるで思い出せなかった。

 画面上の文字列がうねり、形を変える。

『死を食って欲しいなら、電話を捨てて外に出ろ』

 儀式だ。

 死を食って欲しいなら、という言葉の意味は分からないけど、

 これなら、アレさえあれば私にもできる。

 ハナビはコータにもらった特殊警棒をシャツの裾に隠して、外に出た。

 神様。コータ。死を恐れない勇気を、私にください。

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