メメント・モリ1(ユカポン)
遡ること二週間ほど前――メメント・モリの合宿から帰ってきた、その日。ベッドに躰を投げ出したユカポンは、届いたメールを見て、眉間に皺を寄せた。
差出人は不明でタイトルも無し。ただ『ひとつめの儀式』と題されたリンクがあるだけ。
当初、ユカポンは無視を決め込んだ。深夜だったし、明日にしよう。
しかし、三十分おきに四通も同じメールが届けられたため、眠い目を擦りながらリンクをタップしていた。すると、奇妙なサイトが開かれた。
水色の背景に黒地で『儀式』と題されていて、作業内容が書かれている。
イサミンだ。彼の立てた何らかの実験が開始されたのだ。
すぐにユカポンは記録を始めた。自分が
目的はなんだろうか。依り代という表現も気になった。
「裁縫かぁ……懐かしいなぁ」
ひとり寂しく呟きながら、捨てようと思っていた服から特にダサいワンピースを選んだ。綿なんて気の利いたものは手元に無いが、余った布でも詰め込んでおけばいいだろう。
儀式の結果や死の恐怖をなくす云々という話には興味が湧かないが、なぜこんな作業をさせるのかは知りたかった。
しばらく黙々と作業をしていたユカポンは、少し不格好になってしまった人形の写真をアップロードし、ベッドに戻った。長時間の作業ですっかり意識が覚醒していた。
いちおう目だけは閉じてみて、せっかくだからと寝落ちるまで考えることにする。
怪談に肝試し、そして謎の『儀式』とやら。予想では恐怖に関する実験だ。問題はオカルトめいたストーリーが、メメント・モリの活動と、どう繋がるか。
ユカポンは何度めかの寝返りを打ち、無駄だと悟り、薄気味の悪さに少し後悔した。
ふいに、スマホが震えた。どうせ目は冴えてしまっているのでメールを開く。『次の儀式』として、リンクが張られていた。アドレスは違うがサイトの作りは、ほぼ同じだ。
『依り代に血を染み込ませて、写真をアップロードしろ』
使う血の量に指定はない。サイトの下方に、先の儀式の写真がいくつかあった。
さて、どうしたものか。実験参加は続けたいが、自らの躰を傷つけるのはバカらしい。
「ケチャップ……じゃバレるよね」ユカポンは冷蔵庫を閉め、戸棚を開けた。
「トマトの水煮缶……同じだよ。ダメだって……」
布に染み込んだうえに乾いた血の色となると、赤というより黒に近くなるだろう。黒に赤を混ぜたような――いわゆる茶褐色だ。絵具でもあればいいのだが。
「って、そうか。去年のハロウィンで使ったやつ……」
優奈に半ば強引に参加させられたパーティーで、ゾンビメイクをしたことがあった。貧乏性もあって、買った小道具は部屋のどこかに埋没しているはず……。
探し出した血糊を人形に塗りつけて乾かし色味の調整を終えたころには、催促のメールが二通もきていた。写真をアップロードすると、またしばらくメール攻勢が止んだ。
そして、粛々と儀式をこなすこと、三日。
ユカポンは睡眠不足に苦しんでいた。
大学の夏季休暇は九月の終わりまである。生活に余裕はなくなるが、アルバイトを休みさえすれば、記録する時間も寝る時間も確保できるはずだった。
新たに『SNSから抜けろ』と指示があった日、その予想はあっけなく崩れた。
メメント・モリに隠れて作ったグループから、ハナビが抜けてしまったのだ。
彼女が同じ指示を受けているであろうことは予想していた。
しかし、バカ正直に従うとは。
せっかくの観察対象者をみすみす逃した形になったユカポンは、バックアップを取った上で自身もSNSグループから脱退した。
当初の予定を変更し、しばらくは参加記録に注力することにしたのだ。
同じ実験にハナビも参加していると分かっているなら、うまく続ければ間接的に彼女を観察できる。我ながら、転んでもただでは起きない最高のプレイングだと思った……のだが、
「このままだと私がダメになる、か」
三日間で合計六時間ほどしか眠れておらず、判断力が落ちてきていた。
古い心理学の研究では『三日間の断眠から妄想や幻覚が始まる』とされている。
人間が耐えられる限界はおよそ一週間で、超えれば免疫機能が低下していくという。ラットを用いた実験では、被検体が全滅してしまうほどの影響を及ぼすのだ。
ユカポンは据わり切った目で『依り代』を見つめ、ノートパソコンを立ちあげた。優奈にメールするためだ。スマホは監視されている可能性があるため連絡に使いたくなかった。
また、『外出禁止』の指示が出されているのもあって――さすがに人を使っての行動監視まではされていないと思いたいが――外に出るのも避けたかった。
それから何時間ほど経っただろうか。
玄関の呼び鈴が、ぐわぁん、と鳴った。
鉛のように重い躰を起こしたユカポンは、ふらつく足を踏ん張り、壁伝いに歩きだした。床は海原のように波打ち、視界の端が虹のように煌めいていた。
ドアノブを下ろすために伸ばした手が、空を切る。二度、三度と空振りするうちに、生暖かい空気を握ろうとしている自分が可笑しくなって、つい笑ってしまった。
と、中指がドアノブにかかった。
開いた扉の向こうから強い光が差し込んできた。瞬く。人影がかぶさる。優奈だ。目を吊りあげて、口を固く結び、腕組みしていた。
「あんたねぇ!」優奈はまるでお母さんみたいな声を出して、すぐに顔を歪めた。
「――ちょっ、由香里、大丈夫!? 死相が見えるよ!?」
死相て。仮にも自然科学に属する博士の卵が言う言葉かいな。
たしかにそうツッコミを入れたはずだったのだが、声は自身の耳にも届かなかった。意識が遠のく。霞んだ視界をどうにかしようと瞬く。真っ白だ。世界がとつぜん白くなり、クリーム色になった。違う。遠いし、ゆらゆらと揺らめく影がある。
天井? もしかして寝ちゃった?
気づいた瞬間、躰の怠さが遠のいた。五分か、あるいは十分か。ようやく至れたはずの夢の世界は、それこそ瞬く間に終わったらしい。上体を起こすと薄手の布団がずり落ちた。
枕元で優奈が深刻そうな顔をしてスマホを見つめていた。
「起きたかバカモノめ。先に言っておくけど、寝てたのは四時間くらいだよ」
「おお……優奈さま……ありがたやぁ、ありがたやぁ」
「ふざけてる場合?」優奈は舌先で唇を湿らせた。「あんたこれ、
「――やっぱり優奈さんもそう思いますか」
「思うも何も、あんたの状態見れば一目瞭然でしょ!」
「……そんな酷い顔してる?」
「このタイミングで『由香里はいつでも美人だよ』なんて冗談、言うと思う?」
「どうかな。私はいつでも美人だし」
言うだけ言って、優奈の顔は見ないように洗面台に向かった。
鏡に映る顔は、なるほど、美人とはいいがたい。寝起きだというのに目の下にドス黒いクマがつき、肌はカサカサ髪はバサバサ。湯を顔に当てると、熱湯のようだった。
でも、まだ生きている。
両頬を叩いて気合を入れる。普通ならできない実験を見届けられる、千載一遇のチャンスなのだ。しかも、参加者であって、実験者ではない。倫理的問題を問われる心配もないのだ。
ただ実験に参加し、記録を残していけば――、
「博士論文……は無理でも、足しにはなるよね……」
ユカポンは、鏡の中からこちらを見つめる研究者の卵、染谷由香里に言った。
「よし、やるぞ」
居間に戻ってすぐ、難しい顔でPCを睨んでいる優奈に頼んだ。
「……優奈。それ、誤魔化すの手伝ってほしいんだけど」
「マジで言ってる? アタシ、そんな暇じゃないよ?」
「ウソつき。余裕なくせに。オムレツ作ったら食べる?」
「食べる――じゃなくて!」
即答していたくせに、優奈は怒鳴るように言った。
「この指示どういう奴が出してるの? こんなの真面目にやってたら頭イカれるよ?」
「一理あるね。結構しんどかった」
でも、まだ結構だ。死ぬかと思ったかといえば、違う。
それは実験をしかけてきているイサミンも分かっているはずだ。
言い換えれば、まだまだ実験は続くのだ。寝てしまっていた四時間あまりが怖い。もしかしたら、すでに実験から排除されているかもしれない。
ユカポンは喋りつづける優奈の手からスマホを奪い返した。メールが何通も届いていた。いずれも儀式の催促だ。四時間も催促し続けるということは……。
「由香里? 聞いてる? 私、怒ってるんだけど?」
「――うん。ありがと。でも大丈夫だよ。自傷系はなんとか全部ごまかしたから」
そう答えると、優奈は嫌そうに『ユカポンの依代』をつまみあげた。
「見りゃ分かるよ、そんなの。でもこんなの、さっさと止めたほうがいいよ」
「ここまで付き合ってきたのに? 他に実験に参加してる子だっているのに?」
「どういうこと? なんか今、聞きたくない話してる?」
「してるかもしれない。私が目ぇつけてた子が、がっつりハマってるっぽいの。だから止めるにしても、なんにしても、ちゃんと記録を取っておきたいんだ」
ユカポンは髪をゴムでまとめた。頭にはまだ厚い霧が張っている。
しかし、思考速度が落ちていても分かるほど、実験の意図ははっきりしてきた。
イサミンは断眠により実験参加者を
「……報酬が欲しいなら払うし、優奈の研究で手伝えることがあるならやるよ」
「……そこに呑みもプラスしていい?」
「ウワバミめ」
「うっさいな。ノーパソ借りるよ。あと、早くオムレットを作りたまへ」
優奈が伸びをしたのを了解と取り、ユカポンは安堵の息をついた。
思えば、合宿の肝試しもそうだった。酒を飲ませて判断能力を奪い、怪談を聞かせて緊張状態を作り、つながる電話と不快なノイズで現実に異常な状況を作ってみせる。
やり遂げるまで連続して届くメールも効果は同じだ。睡眠時間を削って判断力を奪い、催促して考える時間を奪う。簡単な指示をこなさせて達成感を与え、反復により指示を待ち望むように誘導する。他の参加者を匂わせることで競争心を煽り、同時に、ひとりではないという安心感をもたせてやる。
実に巧妙な、よくできた設計だ。ひとりで挑めば確実にやられていた。
しかし、博士課程が――いわばセミプロが二人がかりなら、洗脳されたりはしない。
ユカポンはフライパンを温めながら、優奈を呼んだ自分を褒め称えた。
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