大人のフリースクール10(ユカポン)

 残された二人は。特に、ユカポンは。

「……古っ!」

 と呟き、遠ざかるコータの背中を見送った。

「……ユカポン、なんで古いって分かるの?」

 ぐざり。と胸に何かが刺さった。

 ユカポンは、心の、割と根元のほうまで突き刺さった何かの痛みをこらえて口を開く。

「じゃあ、私たちも――」

「……私のこと、ひとりにするんだ」

 なんですと。

 ユカポンはありえないものを見つけたような目でハナビを見つめる。目にかかりそうなサラサラの黒髪のその奥で、涼し気な瞳が潤んでいた。家に帰れば独りだと言ってはいたが……まさか、寂しいのだろうか。

 だとすれば、込み入った話を聞くチャンスである。

 フヒ、と無意識の内に笑んでいた。

 話を聞きたい本命はコータだったが、ハナビでも構わない。むしろケーキと紅茶を提供された女子中学生なら、大学の卒業研究と詐称しても気軽にインタビューに応じてくれるかも。

 ユカポンは指先をピンと伸ばして『ル・コルビジェ』のメニューボードを指す。

「『王道! サン・ピエール教会(レアチーズケーキ)+紅茶セット!!』でもいい?」

 目につくメニューで、それが一番安かった。

 しかし、店に入ったら入ったでハナビが丸っこい声色で、

「……あの熊さんっぽいケーキ可愛い……」

 と呟いたこともあり、ユカポンの注文だけがチーズケーキのセットになった。泣けた。

 とはいえ、熊の顔を模したチョコレートケーキがテーブルに置かれるとテンションが上がってしまい、二人してスマホを構えて最も可愛く映る角度を探求していた。

 せっかく『ル・コルビジェ』を名乗る店に来ているのに、なぜ建築モチーフではないケーキの写真を撮っているのか。

 そう自問しながらも、それでもまぁ、と思い直す。

 財布事情は苦しくなったが、その価値はあった。

 メメント・モリで立ち合うハナビとまるで違う。立ち合いでは遠慮なく腕や胴を叩きにくるくせに、熊にはにさん付けするわ、その顔にフォークを突き刺していいものかと躊躇うわ、その姿はまさしく年相応よりもさらに一段、可憐であった。ユカポン自身の子どものころと比べるのなら純真すぎるくらいに。可愛い。

 アンビバレンツでイノセンティックなハナビに、ユカポンは俄然、興味が湧いてきた。

 元々、かなり不思議な子ではある。立ち合ってからしばらくの間は、ひどく怯えているような素振りを見せるし、見た目通りに怖くはない。それが何度か打ち合っていると、まるで焼いた鋼を叩いているかのように強い芯ができてくる。攻撃は徐々に苛烈になり、うかうかしていると防御が遅れて痛い思いをさせられる。

 ユカポンのまるで動く機会のない院生生活も、ハナビの半引きこもり生活も、健康度では大して変わらないだろうに、自分の半分ほどしか生きていない少女に太刀打ちできないとは。

 加齢という名の茫漠とした悲しみはチーズケーキにぶつけるしかない。フランスはフェルミニに立つサンピエール教会を模したというケーキを半壊せしめ、酸味の効いた爽やかな甘みで傷ついた心を癒やす。

 よっし。元気でた。やるぞ。

 ユカポンは、テーブルに置かれたままになっていたコータからのプレゼントを指さす。

「コータさんからもらったの、開けないの?」

 インタビュー前に親密な関係ラポールを築きたかった。それに失業中で無駄遣いできない男が大枚はたいて買ったらしいのだ。興味がないはずがない。

「気になる?」

 そう言って、ハナビは猫のように愛らしく微笑んだ。

「気になる。だって、なんだかすごく綺麗な箱だし」

「でも多分ユカポンの予想は外れるね。賭けてもいいよ」

「ん……ハナビちゃん、賭けるられるようなものあるの?」

 そう言うと、すぅ、とハナビの表情が曇った。

 しまった。焦りすぎだ。

 ハナビが挑発的な態度を取るときは、決まって機嫌がいいときなのに。

 と、自らの失態に後悔しかけたそのとき、

「驚いた?」

 悪戯っぽい笑みがぱっと花開く。暗い表情は演技だったらしい。

 たまに、ホントに、腹立つな、この子。

 子どもだからって調子に乗るなと思いはしても、いちいちそれを口に出したらインタビューにならない。研究者としての自分を貫くために、魔法の言葉を胸中で唱える。

 もぉぉぉぉぉぉう! 

 脳内でピコピコ両手を振り回すミニユカポンにつられて、現実の笑顔も引きつった。

 一瞬、不思議そうに目を瞬かせたハナビは、嬉しそうにリボンを解き始める。

「ごめん、ごめん。でも、ホントにユカポンが思ってるようなものじゃないと思うよ?」

「私が何を予想したのか分かるの?」

「ううん? まったく」ハナビはふるふると首を振る。「でも重さで中身は分かるよ」

「重さって……」

 アクセサリーにしては重いという意味なら……まさか。

 ユカポンは口の端が下がるのを知覚した。想像通りなら悪い冗談としか思えない。

 白っぽい少女らしい手が、バリバリと包み紙を破り、黒い厚紙の箱を開いた。

「やっぱり」

 箱から出てきたのは、ナイロン製のホルダーに収められた、黒い特殊警棒だった。クロムモリブデン鋼を使用しているコータのものと同型の、本格派である。

 何を考えているんだろうか、あの男は。

 なかなか頭が良くて、そこそこ面白い話もしてくれて、顔だって悪くはない。

 でも失業中で、危なっかしいトコがあって、闇とサイコパス傾向が垣間見えて対抗恐怖症的態度で、そのうえ乙女心をまるで分っていない。

 警棒にラッピングするなんて。

 しかし予想に反して、ハナビはのぼせたように特殊警棒を見つめていた。

「コータらしいね。冗談なのか本気なのか分からないけど」

 ホルダーごと特殊警棒を持ち上げると、柄尻からぷらんとストラップが垂れた。ミニチュアサイズの、ロダンの『考える人』チャームだ。

「……何? このオジサン」

 ハナビの形のいい眉がうにゅと寄る。

 また反応に困るものをつけおって、と、ユカポンは呆れながら紅茶を口に運んだ。

「……このオジサン、まさかコータとか?」

「――ブッッッッ!」

 噴いた。コータさんはそこまでマッチョじゃないでしょ。いや、それ以前の問題か。

 ユカポンは咳ばらいをして、プラプラ揺れている『考える人』をつついた。

「『考える人』。オーギュスト・ロダンって言う髭モジャおじさんが作った有名な像だよ」

「へぇ……そういえば、美術資料集で見たことあるかも。何考えてるの? この人」

「それは――」

 話すべきか迷う。インタビューをする前に聞かせると回答が歪むかもしれない。しかし。

「えーと、地獄について考えてるんだよ、たしか」

「地獄? 地獄って、あの天国と地獄の地獄?」

 素朴すぎるくらいの質問に、ユカポンは苦笑しつつ答える。

「『あの』っていうのがどれか分からないけど、ダンテの『神曲』っていう叙事詩があって、それに感動したロダンが『地獄の門』っていう像を作ったのね? で、その頂上で座って考えているのが『考える人』。ダンテの神曲っていうのはキリスト教世界における地獄・煉獄・天国を見て回る話でね? 中でもロダンは地獄篇に影響を受けたわけ。だから『地獄の門』には『この門をくぐるものは一切の希望を捨てよ』って銘文が刻まれて……」

 饒舌に語っていたユカポンは、はたと気づいた。

「って! ごめんね!? こんな話つまらな――うわぁ」

 長い前髪の奥でハナビの瞳がキラッキラに輝いていた。そっち系だったかぁ、と若干驚きつつも、昔は私も……と在りし日を思い返す。

 また、すぐに圧倒的『それでそれで?』圧力を受け、インタビューは次回以降に持ち越さざるを得なくなった。せっかくコータからのプレゼントで機嫌も良くなっているようだし、今のうちに親密な関係を築くほうが建設的だという判断である。

 ……『ル・コルビジェ』だけに。

 そして。

 約一時間後、『ル・コルビジェ』の個室トイレで、ユカポンは顔を覆っていた。

 解説に熱中しすぎて何の探りもいれられなかった――。

 一月ほど前に後輩が退院して以来、夜間の学生指導の手伝いティーチングアシスタントを代行しているが、ハナビのように真剣かつ面白がって話を聞いてくれる学生はいない。普段はできない知識の披露による高揚感と輝かしい若人の瞳に、完全に意識を持っていかれてしまった。

 何やってんだ私は。と、ため息しかでてこない。嘆いても遅い。疲れていたのだろうか。

 ユカポンは気を抜けば涙が滲んできそうになる自己嫌悪をこらえ、両頬をパチンと叩いた。

 私は変わるのだ。さっさと次の約束を取りつけて、ちゃんとコータも誘いだそう。

 そう計画しながら颯爽とトイレを出て、先に会計を済ませる。

 しかし、そのとき、すでに事件は起こっていた。

「大丈夫ですか? お客様? お客様!?」

 緊迫感を伴う店員の声。まばらに残る客がざわめき始めた。

 なんとはなしに目をやると、ハナビが青い顔をして自らの躰を抱きしめていた。

「ハナビちゃん!? どうしたの!?」

 その手は、真っ白になるほど強く握りしめられていた。寒気――ではなさそうだ。か細い声で何かうわ言を呟いている。

「……だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ……」

「どうしたのハナビちゃん!? 何が嫌なの!?」

 ハナビはガタガタと震えながら汗まみれの顔を上げた。

「死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない――助けて。助けて」

 怯えきった瞳から、涙が零れた。

 ――死恐怖症だ。

 ユカポンは直観的に理解した。恐怖症からくるパニック発作だとすれば、大声や視線は悪影響にしかならない。

 ユカポンは「大丈夫ですから」と店員に言い添えると、ハナビの肩に手を回した。努めて低く、落ち着いた声を作る。

「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ? ちゃんと怖がってるうちは死んだりしないから」

「…………ッ! ………………ッ!」

 躰の硬直と断続的な痙攣。きっと、突然の恐怖と向き合っているのだろう。

 震え続ける小さな肩を撫で摩りつつ、ユカポンは静かに話しかける。

「ほら、コータさんにもらったストラップを見て? 慌てないで、ゆっくり考えるの」

 死恐怖症の罹患者は一般的なパニック発作を抱える人々と異なり、緊張状態が失われている時ほど発作を起こしやすい。多くの場合は入浴時や就寝時、あるいは開けた静かな場所にひとりでいるとき――要するに、死について考える余裕があるときだ。

 一度でもパニック発作を経験すると、またパニックに陥るのではないかと予期するようになる。予期は不安となり、不安は緊張を生み、新たなパニック発作を引き起こす。

 その予期不安による発作の多さから、死恐怖症は極度の安静状態――言い換えれば、ストレスの欠如が発作を引き起こしているのでは、と考えられる。つまり、

『死恐怖症とは、少なすぎるストレスへのリアクションではないか』

 と、ユカポンは仮説を立てていた。

「怖いって言えるだけ、ハナビちゃんは偉いよ。普通はそんなに怖がれないんだから」

「――どういう、こと?」

 震えが、止まった。

 すかさずユカポンは話しかけ続けた。

「死ぬのは誰だって怖いからね。まっすぐ受け止めると動けなくなっちゃうくらい怖い。だからみんな、見ないようにしてるの。考えないように。怖がらないように。さっき話した精神分析とかだと抑圧って言うんだけどね。怖すぎるから躰が思い浮かべないようにしてるの」

「私にも、できる?」

 不安げな瞳に、当たり前だと言わんばかりに微笑みかけた。

「もうできてるよ?」

「えっ?」

「ちゃんと話せるくらいには、怖くなくなってるでしょ? ハナビちゃんの奥のほうで、ハナビちゃん自身が、怖さを調整してくれてるんだよ」

 詭弁だ。けれど、仮説通りなら、適度なストレス下におけば死恐怖症による発作は収まるはずだ。では、適度なストレスを与えるには、どうしたらいいか。

 放っておいても死について考えてしまうのなら、いっそ自発的に死について考えてしまえばいのだ。自動化した思考を意識化するのが難しいように、意識的に行う思考を自動化するのもまた難しい。

 難しいからこそ、意識を必要としない思考は抑圧されるのである。

 逆に、恐怖からの逃避を推奨するのは危険だ。

 死を忘れろといえば、死を忘れなくてはいけないと覚えてしまう。

 考えないように集中すればするほど、何をと、自動的に考えてしまうのである。

「ほら、ハナビちゃん。ストラップを見て? 大丈夫だから、私と一緒に考えてみよう?」

「……うん」

 コクリと頷き返してくるのを見て、ユカポンは胸内で安堵の息をついた。もう大丈夫だ。あとはしばらく付き合ってやればいい。

 ……コータは意識的に『考える人』をストラップに選んだのだろうか。もし無意識的に選んだのなら、彼は、彼自身の苦悩から選んだのだろうか。それとも、ハナビの死恐怖症に気付いていたのだろうか。だとすれば、彼も死恐怖症を持つのだろうか。

 ユカポンは抱き寄せた肩を撫でさすりつつ、二人に目をつけた自分を称賛した。

 二人は、完璧な観察対象者だった。

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