大人のフリースクール9
稽古を終えたコータが一息ついていると、その背にユカポンが声をかけた。
「あの、コータさん? 私、そろそろ上がろうと思うんですけど、ご一緒にどうですか?」
「おっと。ユカポンさん? 会長の前でそんなお誘いを?」
答えたのはイサミンだ。口ぶりこそ穏やかなものだが、言外にルールを覚えているか問うている。メメント・モリでは会員同士の私的な交流を禁じているのだ。
もっとも、さすがに帰路の同道まで制限するほどではないのだが……。
「えっ、あっ、その、すいません! 私、そういうつもりではなくて――」
しかし、何を勘違いしたのか、頬を染めて何度も頭を下げていた。イサミンが苦笑しながら「冗談ですよ」と言うまで、繰り返し、何度も。
コータは苦笑しつつ体育館の時計を見上げた。もう午後六時になろうとしていた。
「そうですね。遅くなってきましたし、俺も上がることにしますよ」
言ってテツを探すが、先に引き上げてしまったのか逆立つ金髪は見当たらなかった。
謝ろうと思っていたのに、とコータは心でため息をつく。
「えぇと、テツさんが来たら、謝ってたって伝えてもらえますか?」
「ええ。構いませんよ。まぁテツくんからしたら、謝られるほうが恥ずかしいでしょうが」
そう言ってイサミンは豪快に笑った。愛想笑いで答えたコータは、バッグから着替えのTシャツを取り出した。わざわざ更衣室を借りるまでもない。気にする相手もいないのだ。
サクっと着替えを終えると、「ちょっと待って!」と声が聞こえた。ハナビだ。
「私も一緒に帰る! すぐ着替えてくるから!」
ハナビは返事を聞くよりも早くタケッチに剣を投げ渡し、更衣室に駆けだしていった。組手を放り出された老け顔の青年の背に、哀愁が漂う。と、恨むような目がこちらにに向いた。
咄嗟に視線を外すと、今度は腕組みをして鋭く眼光を放つサッキーが待っていた。吼える直前と言った様子の牙を剥き出した犬が、押し潰されて窮屈そうにしていた。
「えっと……サッキーさんも一緒に帰ります?」
「ウチは遠慮しとく」にべもなくそう答え、ちょいちょい、とタケッチを呼び寄せる。
「タケッチ、ちっとウチに叩かせなよ」
「えっ!? でも僕、ちょっと休憩しようかと……」
「ウチが相手してやるって言ってんだから、断ったりしないよね?」
「そんなぁ……」
と嘆くタケッチを、断らないほうが悪いとばかりにイサミンが慰めていた。彼は会の責任者だけあってよく見ているので、適当なところで交代してやるつもりだろう。
「それじゃ、また次回で。タケッチさん、サッキーさん、ありがとうございました」
コータは深く頭を下げた。イサミンが気にしないでと片手を上げる。同時にサッキーからは「ちゃんと病院行かないと知らないかんね!」と釘を刺された。
体育館を出ようとする間際、
「待ってって言ったじゃん!」
と、ハナビとユカポンが叫んだ。
……すっかり、二人のことを忘れていた。
中高生にとっては夏休みも近いこの時期、帰り道は男がつきそう必要があるのか疑問なほど明るい。もっとも、明るいからこそ若くて陽気な奇人が増えるのもまた事実。コータは横を歩く二人のために、それなりに警戒しつつ歩いていた。すると、体育館を離れたところで、
「ほんと、たまにひどいですよね、コータさん」
ユカポンが呆れたように言った。約束したそばから忘れていたので、反論の余地はない。
もう少し他人に興味が持てれば覚えていられるのだろうが、ひどく難しく思えた。無職の後ろめたさもあって、つかず離れず、どうしても距離を保とうとしてしまう。
それに、奇妙なフリースクールに参加している人間同士だ。深入りするのは悪い気もする。
「すいません。誰かと一緒に帰ろうって思ったこと、あんまりないんですよ」
しかし、代わりに、数少ない友人には決して言えないようなことも話せてしまう。今は気兼ねなく自分のことを話せる他人が、一番ありがたかった。
「コータ、アタマ、大丈夫?」
ハナビがからかうような口調で言った。
「え? ああ、まぁ、まだちょっと痛むけど、痛いだけですからね」
そう答えつつ、歩道側を歩くユカポンを横目で覗いた。少しばかり不満そうにしている。まさか二人きりで帰りたかったわけであるまい。
ふぅ、と小さなため息をついて、ユカポンが口先を尖らせる。
「でもコータさん、その、ああいう危ないやり方は」
「あれですよ、ユカポンさん」
コータは、ハナビがペットボトルを取り出すのを見計らい、言った。
「クリームシチューにカツもあり」
「……なんですか? それ。クリームシチュー? と、……トンカツですか?」
「ですです。イサミンが言ってたんですよ。ありがたいお言葉ってやつです」
「……それってまさか、死中に活ありですか?」
「ぶッッッ!」
ハナビが口に含んだスポーツドリンクを噴いた。
「それ、全然意味違うし! てかクリームシチューって!」
「ちゃんと知ってるんですね。冗談だと分かってもらえないかと思いましたよ」
「冗談っていうか、オヤジ? オジサンってクリームシチューとカツを一緒に食べるの?」
実に楽しそうに笑いながらコータの背中をバシバシ叩く。発言と行動からすると、そっちのほうがよほどオヤジくさいが。
と、
「ユカポンさん、どうかしました?」
なぜか、浮かない顔をしていた。
ユカポンは驚いたように顔を上げ、手を左右に振った。
「いえ、その、なんでもなくてっ。というか、意味知らなかったとかないですよね?」
「いえ実は……俺、ついさっき知ったんですよね」
「ほんとに? ちゃんと意味教えてもらった?」
ようやく落ち着いたのか、ハナビは半笑いで目尻にたまった涙をぬぐった。
コータは追い打ちをくれてやるつもりで言った。
「クリームシチュー? それとも死中?」
「ッッ!」
ケラケラと響く声が心地いい。やはり、年相応の笑顔は随一の可愛らしさがある。
「ようするに、やりすぎると、どうでもよくなるって感じでしょ?」
「それ、死中に活ありとは違いませんか?」
すかさすユカポンがツッコむ。こちらはちょっとした冗談では笑ってくれない。
「えぇと、まぁ、似たようなもんじゃないですかね? いわゆる、居付きってやつですよ」
「? なに? 居付きって?」と、ハナビ。
「俺も詳しくないんですけどね。武道の世界では、何かに囚われることを、そういうらしいですよ? ちょっと入門本を読んでみたんですが、そんなことが書いてありました」
いまいち分からないという様子で鼻を鳴らすハナビに、ユカポンが補足を加える。
「えっとですね。居付きっていうのは、こうじゃないか、ああじゃないか、って考えすぎることを言うんです。武道ではそういうのは失くさないといけない……とか」
「だいたい、そんなとこです。怖がってちゃ踏み込めない。でも、踏み込めないと勝てない」
自分で口にし、そういうことかと、はっとした。
霞む視界で目にしたテツの顔貌には、殺してしまったのでは、という怯えがあった。だからこそ動きを止め、だからこそコータが伸ばした手も襟に届いたのだ。
「クリームシチューにカツはあわないってのも固定観念ですからね。居付きですよ」
「もう! 茶化さないでくださいよ!」
ぷりぷり怒るユカポンに、ケラケラと笑うハナビ。出会った当初に比べれば二人とも随分と色々な
もっとも、まずは再就職先を探さないと……。
「ちょっと。コータ! 聞いてる!?」
「はいっ!?」
気づけばそこは駅前で、ハナビが眉を吊り上げていた。
「えーと……それじゃ俺は……駅が違うんで……」
「あぁほらぁ! やっぱり聞いてないよ!」
ハナビがうへっと口の端を歪ませ、ユカポンは乾いた笑い声をあげた。
「えぇと、私は仕事までまだ少しありますし、ハナビちゃんも家に帰っても誰もいないらしくて、その、えーと……」
困ったような顔して、なぜだか歯切れが悪くなっていた。
その様子に業を煮やしたか、ハナビがコータの腹をつついた。
「ちょっとケーキ奢ってよ、って話」
「ケーキ?」
「あ、いえその、奢って欲しいとかってわけじゃなくて」と、ユカポンが慌てだす。
言われてぐるりと見回すと、駅の斜向かいに『ル・コルビジェ』と題されたメニューボードがあった。
なんだって有名建築家の名前が冠せられているのか不明だが、書かれているメニューから察するにケーキメインの喫茶店らしい。
「なるほど……それじゃ、ちょっとだけ寄って行きましょう……かぁぁぁぁぁぁぁ!?」
「ひぇっ!?」「どしたのコータ!」
「忘れてた! 約束!」
コータの希少な友人、転職の天才、
最近は忙しくしているようで、二週間も前にアポを取りつける必要があった。もちろん、失念したのは二週間も前に約束したせいである。そう思い込むことにする。
慌てて遅刻を伝えようとスマホを出したコータは画面上部を目にして戦慄した。ドライブモードになっていた。メール、メッセージ、及び着信が二十八件あった。ヤバい。
「ごめん! ユカポンさん! ハナビちゃん! また今度!」
「えっ! ちょ、あの!」
「ほんとごめんね! 今度、埋め合わせはするから!」
そう言い残したコータは振り返ることなく駆けだ――そうかというとき、もうひとつの大事な約束を思い出す。急いで肩掛け鞄から綺麗にラッピングされリボンまでつけられた(自分でやった)箱を出して、勢いよくハナビの眼前に突きつけた。
「これ! 渡すの遅くなってゴメン!」
「――えっ? これ私――」「早く! 電車遅れる!」「えっ、はい」「んじゃ!」
別れ際にピっと二本の指を立て、これ以上の遅刻はすまいと駆け出した。
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