大人のフリースクール8

「んー……ちょっと裂けただけっぽい。押さえとけば血は止まるっしょ」

 サッキーはそう言いながら、コータの側頭部にガーゼを当てた。滲みでた消毒液が頬を伝い落ちていく。さすが看護師志望というべきか、口は悪いが手際はいい。

 けれど、そんなことよりも。

「……意外と可愛い声だすんですね。サッキーさん」

「……うっさいな。もう一度からかったら、もう手当してあげないかんね?」

 コータは叱られた子どものように小さく頭を下げた。すぐに動くなと怒られた。

 仕方なく目だけを動かすと、ユカポンとハナビが談笑していた。ときおり、呆れたような視線がこちらに飛んだ。悲鳴をあげたサッキーとは、えらい違いだ。

 逃げるように視線を動かし、コータは先ほどテツとやりあった場所を見つめる。

 タケッチが床に残る戦いの残滓をモップで拭き取っていた。もっとも、そこに残されていたのは誰かさんが漏らした小便なので、感慨深いものではないが。

 チビった当人は着替えを片手にトイレに逃げ込んでから戻ってきていない。恥ずかしくて悄気しょげたのだろうか。惨めな思いをさせてしまったことを謝ろうと思っていたのだが。

「あい。終わり」

 さっぱりとした声で言って、サッキーが包帯頭をポンと叩いた。

「手当はしたけど頭だし、一応、病院行っといたほうがいいよ。頭骨ン中で出血してたら明日の朝はこないかも……ウチは警告したかんね?」

 どうせ聞かないだろうと言わんばかりだ。その掠れた笑みには、看護師の真似事をする自分を嘲笑わらうような気配があった。

 包帯の上からこめかみを撫でると、心臓の拍動を思わせる鈍い痛みがあった。

「……まぁ死んだら、そんときですよ」

「そんとき、何?」

 サッキーが苛立たしげに眉を歪める。その化粧っ気のない小さな口から説教が漏れるより早く、背後からイサミンの低い声が聞こえた。

「コータさん。ちょっと、お説教してもいいですか?」

 口は笑っていても目は別だ。緊張を強いるだけの迫力がある。

「えっと……内容によっては聞きたくないですね」

「まぁ、説教ってのは聞き取りにくいものですからね。仕方ないでしょうな。でもコータさんはメンバーの中では最年長だし、聞く耳を作る修行もしないといけませんからね」

 抑揚の消えた声で冗談を混じえられても、笑えはしない。

 コータは縋るような目をサッキーに向けたが、彼女は「さっ、ウチも自主練しないと」などと一度もしているところを見たことがない行為を口にし、さっさと逃げてしまった。

「……修行、ですか」

「修行、ですね。でも、そんなに難しいことを言うつもりはないですよ。単にね、テツくんは臆病なんだから、あんまりイジメないであげてよ、ということでね?」

「……やっぱり彼、臆病なんですか」

 そう尋ねてみると、はっはっは、と軽い笑い声が響いた。

「そりゃそうですよ。じゃなきゃあんなにキャンキャン吠えないでしょう。コータさんもそのへん分かってて挑発に乗ったんじゃないんですか?」

「……えぇ、まぁ」

 嘘だ。確信はなかった。テツのほうが腕が立つのは知っていたので、立ち合えば危機感を取り戻せるのではと思っただけだった。

 しかし、イサミンは腐っても元自衛官で、得体の知れない警備会社の元警備員で、武道家でもある。そんな彼が言うのだから、テツは本当に臆病なのだろう。

 ……しょうもねぇな。

 どうやら、見誤っていたらしい。弱い犬ほどよく吠えるとは言うが、人の頭を叩くのすら躊躇うようではチンピラの仲間内でも苦労していそうだ。

 同じフリースクールに通う仲間なのに他人事としか思えない自分が、少し腹立たしい。

 おそらく、彼との交流自体が少ないからだろう。仮に約束稽古を回数に数えたとしても組んだのは両手で足りる。また、失職中ゆえにほぼ皆勤賞のコータと、バイトに遊びにと忙しそうなテツでは連帯感が生まれないのも当然だ。……そういうことにしておく。

 ふいに、イサミンが柔和な笑顔でタケッチを見やった。黙々とモップをかけていた。

「コータさんは死ぬのも殺すのも躊躇なさそうですからね。テツくんには荷が重い」

「……どんな印象ですかそれ。さすがに俺も殺そうと思ったわけでは……」

「でも、死んじゃったら仕方ないかなって、そんな感じでしょう?」

「……えぇ、まぁ……そりゃ、そうですよねぇ?」

 どうして気づいたのだろうかと思いつつ、曖昧に笑って返した。どうやら俺は、自分の生死だけでなく、他人の生き死ににも興味がないらしい。

 記憶に残っていないトラウマでもあるのか。はたまた今朝も見た自殺する夢の所為か。いずれにしても、死は、肩を並べて寝るくらい親密な関係にある。

 死を忘れるなメメント・モリ

 忘れないだけじゃなく、もう少し甲斐性をもって接してやるべきなのかもしれない。

 まるでカノジョみたいだと、コータは自嘲気味に笑んだ。

「コータさん? 真面目に聞いてもらえますか? これはメメント・モリを維持していくためにも、皆さんが回復していくためにも、とても重要なことなんですよ?」

「――分かってます。申し訳ありませんでした。以後、気をつけます」

 通り一遍の謝罪を述べて頭を下げると、深いため息が頭の上から降ってきた。

 言い分はもっとも。気持ちも想像がつく。けれど納得はいかなかった。

 メメント・モリは市民サークルである。仮にケガ人が出たとしても、全員が沈黙を守れば事件にならない。さすがに死人となると処理に困るだろうが、死んだ側にとっては、その後のことなど知ったことではない。

 死者は死後に憂いたりしない。最後くらい盛大に迷惑をかけてもいいだろう。

 文句を言われたところで痛くも痒くもない。やはり、死んでいるから。

 ――って、俺が殺した場合は別か。

 ちらとタケッチの様子を窺う。

 視線に気づいた老け顔の少年は、モップがけを切り上げ、非難するような目をした。

 とん、とん、とイサミンの剣先がコータの肩を軽く叩いた。


「コータさん。集中して下さい。そんな調子じゃいつまでも再就職できませんよ? ……ただまぁ、次からはちゃんと防具をつけてください……くらいしか言えないんですが」

「すんません。助かります。どうも説教って苦手で」

 バレてるなら遠慮はいらないかと、鼻頭を掻きつつ答えた。

「説教を聞くのが得意な人なんて知りませんがね。でも、本当に気を付けてください。ユカポンさんやサッキーさんはともかく、タケッチくんやハナビちゃんには刺激が強い」

 本当にそうだろうか? タケッチは平然としているし、悲鳴をあげたのはサッキーだけだ。

 現に、壁際に座る最年少のハナビは、目が合うと同時に、手を振ってきた。頭の横を撫でる仕草をし、大丈夫? とばかりに小首を傾げる。移り気の激しい変わった子ではあるが、血を見てビビるようなタマではないだろう。

 どうとでも取れそうな笑みをハナビに返し、イサミンには冗談で応じる。

「ホント、今後は気をつけます。せめて殺さないようにしないと」

「コータさん?」

 イサミンの笑顔が冷気を帯びた。元からそうだが、目だけはマジだ。

「コータさんは、しばらく僕との組み手にしましょう。拒否権はないですからね」

「マジですか」

 コータは肩を力なく落とした。しかし俯いた顔は笑っていた。

 イサミンはメメント・モリの誰よりも強い。二本の棒を持たせれば国内でも最強なんじゃないかとすら感じる。また、大元が自衛官だからか、彼との組手はスポーツや武道といった雰囲気ではなく、殺し合いに近づいていく。

 一撃一撃の全てが致死に相当する代わりに、他のメンバー相手と違って遠慮しなくていい。気を抜けば死ぬし、殺す。

 その緊張感が心地よかった。

 剣が、カツン、とコータの籠手を打つ

「違いますよ。いつも言っているでしょう。打たれてから躱しても遅いんですよ」

 イサミンは穏やかな笑みを浮かべながら、剣を二、三度、振った。コータは打たれた左手首をさすりつつ隙を窺う。一見すれば無造作な立ち姿に見えるが、打ち込める気はしない。

「――分かってるんですけど、なかなかそうもいかなくて」

「はは。それを分かってないというんですよ」

「えーと……すんません」

「あっ、いやいやいや、怒ってるわけじゃないんですよ。教えるというのとも違うといいますか……実は僕、コータさんは幽霊みたいな人だと思ってましてね?」

 幽霊って。

 思わず頬が緩んだ。

「なんですかそれ? 地縛霊……ニートだから浮遊霊? みたいな?」

「いやいや。悪口ではありませんよ? 相手に打たれるのを待つのではなく、自分から打ちにいかないといけないんですが……コータさんは、それがもうできているんです」

「でも幽霊なら、頭を叩かれたりしませんよ」

 肉を切らせて骨を断つとはいうが、頭の肉なら死んでいる。

「ええ。ですから、まだ幽霊になりきれていないんですよ。コータさんが打ち込み方を間違えているから、叩かれてしまったわけです」

「間違たから、ですか」

「ええ。でもまずは、それで正解なんですよ」

「間違いなのに正解ですか……」

「ええ」

 イサミンは剣を振り上げた。

「打ってきてみてください」

「あい」

 と、答えながらコータは剣を振った――否、振ろうとした。剣は振りだす直前で制止する。軌道上にイサミンの切っ先が待ち構えていて、止めざるを得なかったのだ。

 受けてから打つのではなく、受けずに済むよう打ちにいく。

 言いたいことは分かるが、

「実際やられてみても、出来るような気がしませんよ」

「ははは。コータさんはまだ始めたばかりですから。そのうち、僕より早く動けるようになります。さっきも言いましたけど、もう打ちにいけるようになってるんですから」

 イサミンはユカポンたちを覗き見て、コータに耳打ちした。

「実は、コータさんが一番見込みがあるかもしれない。次点でハナビちゃんかな」

 見込み? 見込みって、何の。

 浮かんだ疑問は脇に置き、コータは尋ね返した。

「マジですか? 俺が? タケッチさんとかテツさんでなく?」

「ええ。コータさんとハナビちゃんは、本質的なところが似てますからね」

 マジかよ、とコータは訝しげにハナビを見つめる。こちらを向いたジト目の下で、唇の端が意地わるそうに吊られた。またからかいの種を見つけたのだろうか。

 黙っていれば美少女でも通りそうだが、口を開けば憎まれ口か悪態か、さもなければ背伸びの入った虚勢だ。まぁ分かっていればそれも年相応で可愛らしいところだが。

 イサミンが軽やかに剣を振って、短く重い風切り音を立てた。

「死中に活ありと言いましてね? とりあえず打ち込みにいかないと殺せないわけです」

 先ほど自分で説教したばかりなのに、殺せないとはまた剣呑な。

 視線を外すと、またハナビと目があった。ちょうどタケッチと立ち会おうとしていた。ハナビはひらひらとこちらに手を振っ――たかと思った次の瞬間、タケッチに躍りかかった。

 高い打音が体育館に反響こだまする。

 たしかに、臆せず打ち込みにいく。だがそれは、出会ったときにも言っていたように殺されたいからではないのか。殺されたいから前に出るのであれば、コータが踏み込める理由とは違う。

 ぼうっと立ち合いを眺めていると、イサミンが流れるように剣を構えて言った。

「それじゃあ、はじめましょうか?」

「あい」

 応じて、コータも剣を立てる。

 切っ先が触れ合い、約束組手が始まった。腕を動かし始めると、疑問は脇へ脇へと追いやられていく。余計なものはすべて躰から削ぎ落とされ、次第に意識も消え、やがて瞑想に至る――。

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