大人のフリースクール6

 コータは瞼を開くと同時に、またかと思った。

 見慣れた自室の白天井が薄青色に染まっている。窓から差し込む朝日がレースのカーテン越しに部屋を照らしているのだ。まるで水槽の底から水面を眺めているかのようだ。

 水中を漂う灰皿をひっくり返したような円盤が、学生服の少年を拉致アブダクションしようとしている。

 そう認識した途端、違う違う、とコータの意識が束の間の休息から目覚めた。

 いま見ているのは夢だ。初めて見たのは中学二年くらいで、以後なにか人生の節目になると見てしまう、あの頃とまったく変わらない夢。

 UFOのように見えるのは天井からぶら下がる電灯のフードだ。そして少年――中学二年生の高柳公太は、宇宙人に拉致されかけているのではない。電灯と天井をつなぐコードに紐を結わえ、垂らした輪っかに首をかけ、ぶら下がっているのである。

 コータは込み上げてくる懐かしい感情にため息をついた。もちろん、実際には息など吐けない。なにせ高柳公太の躰は中学二年生の姿で天井からぶら下がっているし、それを眺める今の自身に実体などない。

 いわば定点カメラのように、揺れる少年の背中と踵を見続けるしかない。

 せめて顔を見せてくれれば少しは楽しめるんだろうけどねぇ。

 そう思ったところで、映像に変化がついてくれるわけでもない。

 どうやら死にゆく躰を眺める夢というのは中々に強固らしく、いつ見ても、何度見ても、何ひとつとして変化しないし、変えられないのだ。

 できるのは、ただ漫然見続けること。

 ただ見続ける他にないというのは、実に退屈なものだ。

 でも、ま。とコータは思う。

 次の展開だけは、何度見ても笑えるから許せる。あの一瞬というか、一言というか、とにかく次に夢の世界で起きるできごとだけは、長らくツボにハマり続けている。

 丁度、足音が聞こえてきた。そろそろだ。もう直に来る。来たぞ。

 ガチャリ、とドアノブが下がった。開かれたままの窓と扉が風でつながり、ぶら下がった躰が静かに揺れる。ゆらゆらと。ふらふらと。ふと思う。

 さっきは水槽の底にいるようだと思ったが、むしろ天井が水槽の底なのかもしれない。

 揺れる躰は水草の暗喩メタファーなのかも。だからなんだと鼻で笑う。

 誰かが入ってきた。背広姿の父だ。眉間に皺を寄せて舌打ち。居間へと顔を向ける。

「参ったな……母さん! 公太が首くくってるわ! 俺、仕事だから、後始末しといて!」


  *


「うわ。キッツ」

 すぐ横で、膝を抱えて聞いていたハナビは、そう辛辣なコメントをつけた。予想していたよりも幾分か重めの反応だ。

 コータは内心しくじったかな? と首を傾げつつ、慌てたに続けた。

「いや、夢ですからね? 実際にそういうことがあったわけじゃないですからね?」

「や。夢だからこそキツいってゆーか。うん」

 ハナビはジト目になって、大げさにため息をついた。

「やー……。コータって闇深そうだなーとは思ってたけど、ホントに闇深なんだねー……」

「ちょっ、ハナビちゃん、ヒドくないですか? ヤミフカ? とかよく分かりませんけど、あんま酷いこと言わないでくださいよ」

 ヤミフカ、闇深、闇が深い。なんとなく、闇は深い浅いではなく濃いか薄いかの気がする。

 コータは分からないなりにハナビの調子に合わせようとして、わざとらしくうなだれた。拍子に汗が滴り落ち、体育館の木床を濡らした。

「うわっ、きたなっ。ちゃんと汗ふきなってー。もー」

 苦笑しつつ、ハナビが真新しいタオルを差しだしてきた。伸び放題の前髪に隠れて瞳はよく見えないが、口元は楽しそうにしている。それなりに打ち解けてきたのかしれない。

 借りたタオルで顔の汗を拭うと、洗剤の香りに混じって、仄かに家の匂いがした。

 瞬間、コータは我に返った。

 一歩間違えば事案じゃね?

 ド平日の、真昼間の、市民体育館の一角である。責任者たる幸田勲――イサミンは、木山健ことタケッチを連れて外にいる。しかも、限界点を軽々と越えてきた夏の暑さにやられて、コータはすでに半裸であった。

 そしてまたハナビも、袖捲りした黒いTシャツと、学校指定の体育着と思しき紺色の短パン姿である。あまり外に出ていないせいか、放り出された腕と太ももは生白かった。

 二人の年齢差は約十個。メンバー以外に人がいなくてよかったと、心の底から思う。

 今は自称・大人のフリースクール『メメント・モリ』が貸し切っているが、もし一般客がいれば通報されていたかもしれない。そうでなくても口の端に上ったのは間違いない。

 市民体育館の、立地の悪さゆえの不人気さに感謝である。

 しかし、コータの幸運もそこまでだった。メンバーの一般人代表(と思われる)ユカポンの関心を惹いてしまったらしい。立ち合いを中断して走り寄ってきた。

「何? ハナビちゃん、またコータさんいじめてるの?」

 ユカポンは楽しそうに口元を綻ばせ、グローブとアームガードを外した。露わになった白い腕にいくつか小さな赤い痣ができている。つい先ほどまでのサッキー(加納咲。コータの提案したサキッチョは激怒をまねき、却下された)との立ち合いでついたのだろう。

「いやぁ。だってさ、コータがすごい闇深な夢の話するんだもん」

「闇深な夢? ちょっと私、興味あるかも。コータさん、闇深そうですし」

 ユカポンはセミロングの黒髪をゴムでまとめ直し、いっちょやるかと袖をまくりあげた。

「ちょ。ユカポンさんまで。あんまイジメないでくださいよ」

 大げさに諸手を挙げて、嘆いてみせる。ピエロ役は得意分野だった。

 吹き出しかけたユカポンが、隙ありとばかりに目を輝かせる。

「ふふふ。まだユカポンさんなんですね」

「ね。やっぱり闇深おじさんだよ。コータは」

 ユカポンとハナビは顔を見合わせ、ころころと笑った。

「ヒドいなぁ。ホントにヒドい。同じセラピー仲間をいじめるなんてっ」

 冗談めかして笑っておいた。この手の付き合いなら慣れたものだ。

 入ってしばらくの間は失敗したかもと不安になったが、今では『メメント・モリ』に入会して良かったと思える。独り暮らしで失業中だと、他人と話す機会はとても貴重だ。

 と、その貴重な機会にサッキーも参加を表明した。

「ナニ? コータからかって遊んでンの? ウチも混ぜてよ」

 クロスターバンでまとめた赤髪の毛先が、汗でくたりとしていた。白ラインの黒ジャージに青いTシャツ。胸元に妙にリアルな絵柄の牙を剥き出した犬がプリントされている。

「ハナビ。ウチにもタオル貸してよ」

「なんで? 自分の使えばいいじゃん。まさか買う金もないとか?」

 平然と言ってのけたハナビは長い前髪の奥からサッキーを睨んだ。

「あ? ハナビ、ウチとやろっか?」

 さっそく剣呑な雰囲気が辺りを包む。

 額面通りにやりとりを受け取るのなら、少々感情的ではあれども、単なる組手の申し込みでしかない。が、二人の間に限っては違う。

「何? さっきユカポンにボコられてたのに、今度はアタシにボコられたいんだ?」

 ハナビの挑発的な返答に、サッキーは眉間に皺を寄せた。

 しかし、ひりつくような沈黙に真っ先に耐えきれなくなったのは、ユカポンだった。

「ちょっ、ちょっと二人とも。一旦、一旦、落ち着こう。ね?」

「ユカポンは黙っててよ」

「態度でけぇね、ハナビ。ユカポンにさっき教えてもらったかんね。潰してあげんよ」

 健闘も虚しく二人の内側ではすでに闘志が漲っている。

 全員同期となるメメント・モリ創立メンバーでも、決して一枚岩とはいえない。創立当初からハナビとサッキーの間には奇妙な緊張があった。――というより、ユカポンとコータが間を取り持っていなければ、いつどちらかが抜けてもおかしくはなかった。

「ちょ、ちょっと、コータさんも、何か言って――」

 自分のほうに向いたユカポンの青ざめた顔に対し、口だけ『何を』と動かす。

 ん。とユカポンが唇を結んだ。ツッコミが思いつかなかったようだが、持ち前の童顔も手伝い拗ねているようにしか見えない。

 その子どもっぽい仕草に、コータは思わず吹き出してしまった。

 一番の潤滑剤が機能していないなら仕方ない。貴重な話し相手(しかもうら若き女性たち)を失いたくないし手伝ってやろう。

 そんなことを考えながらコータは、鼻息を荒くするハナビの肩を押さえ込んだ。間髪入れずにわざとらしく咳ばらいをして、サッキーに上目をやる

「サッキーさん」

「あ!? っだよ!? てめぇもいつまでサッキーさんだよ!?」

 睨まれた。しかも恐るべき語彙力のなさだ。一般人であれば怒気と眼光にやられていただろう。いったん火がつくとひどく攻撃的になるのも含めて、短気は彼女の明確な欠点である。

 けれど、いかにヤンキーかギャルかな外見でも、同じフリースクールに通う仲間。苛立ちと折り合いをつけるのに必死なのだと好意的に受け取っておく。

「ちょっと聞いてくださいよ。二人が俺のこと闇深オジサンっていじめてくるんですよ」

 言いつつコータは、アニメや漫画の三下よろしく手もみもした。

 ぐっと息をため込むサッキー。ユカポンの説得を聞き入れるときと同じ表情だ。吹き出すのも時間の問題だろう。熱しやすいからこそ冷めやすいのは、長所といえよう。

 小物顔を作ったコータは蛇使いに操られる牙なしコブラのように腰をくねらせた。

「んっっっっ!」

 と、サッキーは口元を隠してそっぽを向いた。予測は半ば当たっていた。

 ユカポンとハナビのツボにもハマってしまったのは誤算だったが、その場はしのいだ。

 満足げにうなづくコータは夢の話をするべきか思案する。タイミングとしては悪くない。そもそも、ハナビに夢の話をしたのは、薄気味悪い話でも笑って流してくれると考えたからだ。

 これがユカポンやサッキーのようなだと、そうはいかない。きっと二人ともマトモに悩んでくれてしまう。しかし、同情や共感は望んでいないのだ。冗談として話して、冗談として誰かに認めてもらいたい。どうしてそう思うのかはコータ自身も分からない。

「実は今朝、すごい夢を見たんですよ」

 したり顔をしたコータは期待感を煽り、ユカポンとサッキーの目を自分に誘導する。

「なんと、中学生の俺が天井から――」

 と、突然、パァン! と鋭い打音が響いた。

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