大人のフリースクール5(由香里)
メメント・モリの顔合わせから二週間後。
染谷由香里は久方ぶりに大学院の研究室に足を踏み入れた。すかさず、中にいた半ば主と化しつつある同期生の
「オッスー。珍しいじゃん。二週間ぶり? どうなのよ調子はぁ」
「……オッス。前途洋々なれど着地点は不明。そんな感じ?」
「うははははは! いい研究環境が見つかったかもって言ってたじゃん!」
博士課程二年目。博士論文の研究に追われ始めるこの時期、優奈が爆笑していられるのは、すでに論文用の研究をふたつ終えているがゆえ。
由香里はぷりぷりしながらコーヒーメーカーに向かい、冷めきった研究の友をマイマグカップに注いだ。尋ねられるままに本来は他言無用のフリースクールについて説明していると、ふんふんと興味深げに聞いていた優奈がふたたび大声で笑いだした。
「うはは! あだ名がユカポンて! 年齢サバ読みて! し・か・も、三つもぉ!」
「だって仕方ないじゃん! 最年長はダメでしょ! お母さんにされちゃうもん!」
「すごい発想……って言いたいトコだけど、今だってお母さんじゃね!?」
腹を抱えて笑い転げる様が、実にムカツク。
由香里――ユカポンは、ゴツンと椅子の足を蹴りつけた。
「私はアナタのお母さんになったつもりはありませんよー」
「いやいや。教授たちの話よ。みんな由香里の息子さんじゃん。飲み会とかさぁ」
「ほっといてよ。ていうかアレ、セクハラで訴えられないのかな? なんで私らがお酌して回らないといけないの? 手酌でよくない?」
「ほらぁ。愚痴までお母さんじゃん。若人のエキスちゃんと吸ってこーい」
「私は研究のために参加してんだって。趣味ってわけじゃないしさぁ――」
瞬間、脳裏に年齢詐称が過った。
「ああぁぁぁぁもう! 失敗したぁぁぁぁぁぁぁ!」
ごん、と無駄にデカい白いテーブルに額を打ちつける。痛みは後悔も苦悩も払ってくれない。
ユカポンは、今年で二十六になる。メメント・モリで次々と語られていく想像以上に若い世界に、ついサバを読んでしまった。
彼女自身は童顔と言われ続けてきたし、バイトで入っている実習でも、学生にナメられている感すらある。だから、それでも通用すると思っていたのだが……。
正直、少ししんどかった。
自分よりひとつ年下のコータが、メンバーにはオッサンと呼ばれている。特にハナビがヒドくて、ことあるごとにオッサンだからとか、お爺ちゃんだとか、辛辣なツッコミを入れている。それを耳にする度、ユカポンも身につまされるのだ。
「んで? 無許可の参与観察は順調なん?」
優奈が壁棚に隠していた秘蔵のチョコクッキーを出し、テーブルに置いた。
「……それを言わないでってばぁぁぁぁ」
嘆きつつ、ユカポンはクッキーを口に運んだ。ダダ甘かった。
「なんとなく頭オカしそうな集団だとは思うんだけどねー……。まだ様子見ってカンジ?」
あんな会に参加しているだけあってメンバー全員、頭がオカシイとは思う。この二週間、大人のフリースクールと称する鉄棒での打ち合いに参加した、正直な感想である。
チンピラっぽい奴に、赤っ
しかし、彼らにまして、コータとハナビの二人が明らかにオカシイ。会で習っているエスクリマなる格闘術や警棒術の上達速度もさることながら、根本的に何かが違う。
優奈はクッキーを二枚重ねて口に放り込むと、ボリボリと音を立てて噛み砕いた。
「いやぁ、さすがに研究対象を頭オカシイって言ったらダメっしょ」
「だって頭オカシイよ、あの人たち。見てよこれ。アザだらけ」
ユカポンは片肘をつき、袖をまくった。生々しい青痣がいくつもついている。すべて組み手中にできたものだ。組み手の際には籠手もつけるし、剣にはウレタンの緩衝材も巻かれている。しかし、いや、だからこそ皆、本気で叩いてくる。
手加減してくれるのはコータくらいのもので、ハナビなんかはスイッチが入ると殺意すら感じるほど強く振り込んでくる。もちろん、約束組手である以上、躰を打たれる機会はそう多くはない。だが、当たれば痛いなんてものではなかった。
「ゆーてもさぁ。由香里の研究にピッタリはまって、しかも近場とか、他にないしょ?」
「そうだけど……でも毎回痛い思いするのはしんどいよぉぉぉ」
「よしよし。由香里は頑張ってるぞぉ。
「言わないでよぉぉぉぉぉぉ……」
そう。ユカポンは博士論文にまつわる研究のために、『メメント・モリ』に潜っていた。
恐怖症の対象は多岐に渡るが、なかでも死に対する恐怖症を指す。自分の死や他人の死に異常に
ユカポンはそんな特殊な研究対象を選んでしまったせいで――主に倫理的な問題で――実験に難航しており、参与観察による報告をもって博士論文にしようと計画していた。
「でもさぁ、それって社会心理学でやること? どう考えても臨床屋の仕事だよ」
そんな厳しい研究事情を分かったうえで優奈は厳しいことを言う。一理ある、が。
「だから逆なんだって。普通なら臨床でやるから、社心でやるの。それならオンリーワンだし、死恐怖症って普遍的な問題じゃん? 環境要因デカそうじゃん?」
「や、どう考えてもトラウマ的な何かでしょ。子どものころ何かやらかしたとか――」
もっともらしい優奈の意見を聞き流し、ユカポンはコータの笑顔を思い浮かべた。
『――と、すいません。ちょっと強かったですね。大丈夫ですか?』
約束組手でユカポンが剣を取り落としたとき、そう言って困ったように笑っていた。爽やかかつ親しみやすさを感じさせる……けれど、幽かに陰もある。
どこか危うい魅力は、ユカポンを惹きつけてやまない。
メメント・モリで接するコータは異常なほど普通な人物だった。話しているときも、立ち合うときも、まるで態度が変わらない。どこか冷めた雰囲気を漂わせていて、どんな無理難題でも平然と受け止めそうな強さもあって、一部の若手講師と違って無害で、子ども好きっぽくて、顔もそこそこイイほうで。
「……無職じゃなきゃなぁぁぁぁぁ……年下じゃなきゃなぁぁぁぁぁぁ……」
「うはは!
「うっさい!」
図星だ。実際、研究対象者に心惹かれるなんてどうかしていると思う。精神分析の
自分に言い聞かせるようにして首を縦に振るユカポンを、優奈がニヤつきながらつついた。
「ほんで? どうなん? 研究には使えそうなん?」
「……どうだろ。なかなかガードが固くて」
表面的にはへらへらしているようでいて、中身の方はガチガチだ。コータの心の壁は、教授たちの面の皮より分厚いだろう。
「やっぱり私、参与観察に向いてないのかなぁ?」
「まぁアタシら院生は一般社会には向かんわな」
「それは優奈だけでしょ。先輩たちはちゃんと仕事決めてるじゃん」
「ちゃんとぉ? ぜぇんぶ、非常勤じゃん。ただのフリーター……契約社員? アタシんとこのふたつ上なんて、島根だかなんだかだよ? いまだに泣き言メールくるし」
「……ふたつ上って、そんな他人行儀な」
その先輩とやらは彼氏のはずでは。
眉を寄せるユカポンに、優奈はサラリと答えた。
「とっくに別れた」
「へぇ? 別れた……はぁ!? 聞いてないんだけど!? あの人、出世頭でしょ!?」
「やー。言っても島根はないわー。ほら、アタシ都庁から二十キロ以上離れると死んじゃう病病だしさー? それに蕎麦が美味しくないと不安神経症になるから西は長野が限界かなーって」
「長野を二十キロ圏内にないっての! ひっどい奴だなぁ!」
そう叫んだ直後、ユカポンはニマリと片笑みを浮かべた。
「――あ。ってことはあれだ。優奈は今年の学会、参加しないんだ。たしか大阪だもんね」
「うん。そだよ。
「……えぁ!? なにそれ!」
初耳だ。今年の夏は去年の研究でお茶を濁して、一緒に食べ歩こうと思っていたのに。
優奈はズズズとわざとらしく音を立ててコーヒーをすすった。目が意地悪く光る。
「だぁってアタシぃ、次のに載るからねぇ」
「はぁ!? 査読通ったの!? そっちも聞いてない!」
勝ち誇るかのようにそそり立つ二本指。
「まぁマイナー誌だけどねぃ。出したもん勝ちなわけよ、こういうのはさぁ」
「裏切りものぉぉぉぉぉ! その雑誌教えなさいよぉぉぉぉぉ!」
「いやぁ、教えんのは別にいいんだけど……実験系だから、参与観察の報告じゃあねぇ」
「……ああもう! 裏切りものぉ!」
ユカポンは叫びながら身を乗り出すと、優奈の襟ぐりを掴んで揺さぶった。
博士課程の修了には、当然ながら博士論文の提出が必要となる。また、論文の執筆に入るには、最低でも一本、学会誌に論文を掲載させなければならない。
しかし、ユカポンはまだ一本も論文を出しせていなかった。
学会誌は掲載に値するか判定する査読があり、雑誌ごとに掲載難度も大きく違う。論文の掲載を望むなら、まず提出先の学会と研究テーマが一致しなくては難しい。その点、死恐怖症は心理学分野でも特殊な領域であるため、狙える雑誌も限られてくる。
「あ、裏切者で思い出した」優奈が思い出したように言った。
「今度は何ぃ……?」
「由香里ンとこの一年生が退院したから、夜間の講義手伝えってさ」
二人は、大学院に入ることを社会不適合だと認めたものとして入院と呼び、出ていくことを退院と呼称していた。
「……マジで?」
「マジで。『大学院ってぇ、ワタシが思ってたのと違いましたぁ。それにぃ、彼ピが中途でイイトコ決まったんでぇ、研究は一旦お休みしよってぇ、思ってぇ』だってさ」
真顔のまま優奈がしてみせた後輩の真似は、過度にギャルっぽく誇張されている。
「……あぁぁぁぁぁぁぁんの根性なしがぁぁぁぁぁ!」
なぜなら、二人とも頭にきていたからである。
「しかも夜間かぁ……夜間って断れないよねぇ?」
「人が足りないし無理だろうね。アイツら、おっかないんだよなぁ」
「あ、ビビってるんだ。私はもう怖くないよ、墨入ってても」
刺青は、メメント・モリに参加しているチンピラ――テツで、見慣れ始めていた。
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