大人のフリースクール4(花火)
夜も遅いからと駅まで送ってくれたコータに、花火はペコリと頭を下げた。
「それじゃあ、警棒……お願い、します」
慣れない言葉のせいで舌がもつれそうだった。顔も熱い。駅舎に入っていく変な大人の背中を見送ってすぐ、花火は夜の街へと駆け出した。
お腹の中で丸まって寝ていた毛むくじゃらの犬が、主人の帰宅を知って走りに連れてけと吠え立てている。そんな気分だった。
家に閉じこもるようになって一カ月。鈍った足が上手く回ってくれない。それでも街灯の光る道を走り続ける。息はすぐに上がったけれど、不思議と苦しくはなかった。
『花火さん……ハナちゃんじゃ変ですし、そのままハナビちゃんでよくないですか?』
ポケっとしたコータ(ハムタは拒否されたのでコータだ)の顔が思い出される。つい頬が緩んだ。マンションの下で足を止めたときには、声まで出して笑っていた。
「変なヤツだなぁ、コータは!」
愛想笑いでもなく、空っぽでもない笑顔になったのは、何日ぶりだろうか。
悪意なく、晴れやか気持ちで他人の名前を口にしたのは?
花火は緩慢に降下してくるエレベーターを待っていられなかった。
「ただいま!」
数日ぶりの単語を言った。と、同時。
「花火!? 花火!」
リビングから悲鳴にも似た母の声がした。ヤバイ。連絡するのをすっかり忘れていた。
母はフローリングの床で足を滑らせながら飛び出て、そのまま抱き着いてきた。鈍痛。思わず、ぎゅぅ、と牛蛙みたいに呻いた。
「花火! もう! よかった! 無事だったのね!? こんな遅くまでどこに行ってたの!? 外に出るなら連絡してって言ったじゃない!」
声が潤んでいた。お腹の中の犬が、しゅんとする。
共働きで家に帰ってくるのは遅いし、娘に花火なんて変な名前を付ける人ではある。それに娘がおかしくなったと騒いで病院に連れて行こうとした親でもある。
でも無理に学校に行かせようとはしないし、相談すれば真剣に聞いてくれる、優しい母だ。今だって引きこもり同然の娘を心配して泣いてくれているのだ。
死ぬのが怖くなって、外に出たなんて。自分で死のうと思ったけれど、怖くて、できなくて、誰かに殺してもらおうと思って外に出たんだなんて……、
言えない。
言えるわけがない。
ハナビは開きかけた口を噤み、泣きじゃくる母の背中を撫でた。
母は声を震わせながらハナビをきつく抱きしめた。
「花火は悪くない。お母さんが『病院に行こう』だなんて言ったから……」
ややこしいことになった。どうやってメメント・モリへの参加を説明しようか。
あんまり嘘は吐きたくないけど……いまさらか。
すでに、クラスで浮いている程度の話をイジメられていると盛ってしまった。それから今まで、学校に行けないでいる本当の理由を言えないでいる。
秘密を明かせば裏切るような気がするのだ。それに、頭の病気だと疑われるのも嫌だった。
それが始まったのは、二年になったばかりの、なんでもない夜だ。
クラスで浮いていて、翌日の登校が憂鬱ではあった。けれど、休む気はなかった。
深夜、どうしても寝付けず、何の気なしに死んだらどうなるんだろうと考えた。
意識がなくなるとはどういう状態だろう。寝て、目覚めないということ?
目覚めなければ何も考えられなくなるはずだ。それに何も見れなくなるだろう。何も聞こえなくなる。でも意識がなくっちゃ、それも分からない。
もし目を閉じて、起きられなかったら?
ふいに、恐ろしくなった。躰が強張り、息苦しくなり、暴れたくなった。枕に顔を埋めて叫んだ。ベッドの上で布団を頭からかぶり、足をばたばたと振り回し、私は大丈夫だと繰り返す。次第に恐怖が去っていく。
けれど、顔を出し、息をついたまさにそのとき、恐怖が一気にぶり返してきた。
何度も繰り返す内に寝入っていたらしく、朝日を見れたことに安堵した。
寝不足で見る朝日は眩しくて、目が焼かれそうだった。一晩中叫んでいた喉は痛み、ぼんやりとした頭の底に恐怖という名の虫がへばりついているようだった。
頭の中を這い回る足音が耐え難く、五月の連休の後、休んだ。一度休んでしまうと楽になり、その日は遊んで過ごせた。
しかし、その夜、シャワーを浴びているとき、それはきた。
降り注ぐ水音に誘われるように、虫が、頭の底から這い上がってきたのだ。
ちょうど髪の毛を洗っていて口を塞げなかった。顔を埋める枕もない。息を止める暇もない。
気づけば悲鳴をあげていた。母と父が飛んできた。翌日は休んだ。次の日も、その次の日も休んだ。いっそ無理にでも学校に追い出してくれたなら、まだマシだったかもしれない。
でも、そうしてもらえなかった。
「――お母さん、その、私、相談があるんだけど」
「相談? 何? なんでも言って。お母さん、できる限りのことをするから」
それが辛いんだよ、お母さん。
ハナビは痛みとも苦味ともつかない思いを呑み込む。
「その、今日、街で、フリースクールっていうのの、説明会に行ってみたんだよね」
「フリースクール?」
「ええと、簡単に言うと、私みたいに学校に行けないでいる人たちを――」
「花火がどうしたって!?」
声と共にドカンと玄関扉が開かれた。父だ。汗まみれで、顔から血の気が引いていた。
またややこしくなっちゃったよ。
ため息をついたハナビはポケットの中でコータの名刺を撫でた。
二人の説得を終えたころには空腹で死にそうになっていたが、甲斐はあった。
またあの変な大人と会えるらしい。それに一度断ってから言い出しにくかったスマホも買ってもらえるらしい。中学生にも敬語を使ってしまう、ダメな大人のコータ様々だ。
その夜は、興奮しきっていたのに、なぜかすぐ眠りに落ちた。
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