廃れ邸

 

 妹が部屋に戻り、自室に一人となる。吸血鬼にとっての血縁について深い意味もなく考え、茫っと室灯を眺めていると、ともなく不意をついて書斎机の上に充ちたワイングラスが現れる。

 忽然と現れた。

「有り難う」

 天井に向けて感謝を告げる。応じて室灯の一つが点滅した。だが、私は葡萄酒は飲まない。葡萄酒に限らず、飲食は摂らない。

 吸血鬼と呼ばれども、私は食事として血を摂ることすらない。吸血鬼のなかにも様々な血筋がいる。そういう種属なのだ。

 ただし時々。

 祝い事の際にでも、葡萄酒を眺める。個人的なその慣習を数少ない友は知っている。知っているから、ワイングラスが出てきた。妹が帰ってきたから。

 しばらく眺める。

「有り難う」

 もう一度言う。

 ワイングラスが消える。

「妹が戻ってきた」

 当然、気づいているであろうことを改めて伝えた。

 我が友からの反応は格段ない。さきほどのような直接的な反応を示すことの方が珍しいのだ。反応は待たず私は自席に座した。

 そして不老不死の因業に倣い、再び茫っとしはじめる。

 我が友ーー私の邸は物言わず常変わらず粛々と、ただ此所に存在していた。


 ※ ※ ※


 乗っていた新大陸からの旅客機が墜落したのは、何十年か前のこと。欧州で長いこと暮らし、新大陸にも百年ほどして些か物憂いを感じた私は印度に向かおうとしていた。

 そして墜ちた。

 機器的なトラブルのようだが、人の世の新しい科学ことには私は疎く、ともかく墜落した事実だけが確かである。

 私や眷属の者は死なない。

 しかし他の乗客は真っ当な定命の人間である。我々だけ生き残って申し訳ないという思いもよぎったが、かといって一介の吸血鬼に鉄の鳥をどうこうするほどの膂力はない。

 落下に伴う悲鳴などの混沌のなか。

 私はここはどこら上空へんだろうかと考えていた。

 そして激突。

 しなかった。


 我々は山中に墜ちた。

 そこには現地で妖怪と呼ばれる現象がいた。

 妖怪は『廃れ邸』と謂い、山に入った人間の記憶のなかの家屋の形態を採る。そして屋内に入った人間を取り込み、帰さないようにする。

 そういう現象だった。

 そこに遙か上空から我々がノコノコと墜ちてきた。そして口を開けたひな鳥に与えられた生き餌の如く、一口にされたわけである。

 さすがに吸血鬼の身の上を持つ我々は個体性を維持していた。だが他の乗客たちは《廃れ邸》の家人となった。もはや外には出られない。

 とはいえ、死ぬよりかはましだと思ったのだろうか。

 大抵の乗客たちは、今では多少なり、妖怪の一部である人生を楽しんでいる。

 『廃れ邸』は取り込む存在の記憶に倣い、自らの一部となった者の過去は批准しない。

 この邸のなかで、我が友から最も独立した存在は私である。その為か、邸の様相は私の記憶に基づいている。

 悲惨なことに。

 私の記憶を再現した結果。

 我が友はローマ式住居と封建制城塞、そしてアメリカ滞在時の邸宅を複合した、訳のわからない家屋となった。。

 外観と規模は城塞。通路は洋館。部屋はローマ式とアメリカ風の合わせ。

 石であり木であり、古代であり中世であり近代である。

 廃れ邸の内外では物理的な整合性すら、霧中の塵と化す。

 蟻の体の中に象が住んでいるようなものだった。

 一貫性の消却。なんともはや混沌であった。

 

 妹は面白がり、ここに住もうと言った。

 断る理由もないので、私は『良し』とだけ言った。 

 印度行きを諦めて、私は一戸の友を得た。


 ※ ※ ※


 放蕩妹と新しい客人を迎えた夜が明け、どうやら朝が来た。

 仄暗いうちから私は廊下に出た。

 本当に空き部屋がないかを確認しようと思った。窓の外に立ちこめる霧を見やりつつ、絨毯を踏みランプの光の中を進む。

 

 ふと違和感に気づく。

 以前よりも廊下が一つ増えている。

 そこには扉が幾枚もあり。

 うち一つを試みに開けてみる。

 無人の部屋。

 

 扉を丁重に閉め、ランプの一つに会釈で謝意を示す。

 私は妹の客に部屋を宛てがいに向かった。

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