風希の苛立ちに気づいた風希の苛立ち

 晴れ上がりには遠い、強い日射しだけが覗く空の下。穏やかになりつつある波打ち際を歩き、波来は風希と歩く。ツカサが二人から距離を保ちながら、後ろから歩いてくる。

 客足はまったくなく、海の家の前に辿り着く。桔実と風希本人が佇んでいた。

「風希ちゃん!」

 桔実が風希に駆け寄り、「心配したよ」と言いながら彼女の腕にすがり、無事を確かめて安堵の表情を見せる。

「まったく、本当に何をしていたのよ!」

「心配してくれてたんだね、伊原木風希ちゃん」

 風希の笑顔にむっとした怒りに満ちた風希本人の形相を返す。

「心配なんてしてないわよ、迷惑していたのよ」

「ごめんね」

「ごめんですまさないで!」

 イライラというより、わめく感じで風希本人は、風希を邪険にする。

「こんな奴に好きになって欲しいのか? 君は」

 わなわなと腕を震わせながら、ツカサは風希の後ろに接する。

「ツカサさん、落ち着いて」

「……」

 風希は一歩前へ歩いた。風希本人をなだめるような、たおやかな足取りで。

「伊原木風希ちゃん、私はあなたのことが好きになりたい」

 雲の切れ間から差し込む日射しで顔が輝いているのを波来は横際から垣間見る。比喩で喩えるまでもなく本当に輝かしい笑顔だ。

「は、なんで? あなた昨日と明らかに態度が違うわね? 私にあなたを好きになって欲しいなんてぬけぬけと、言動不一致よ」

「うん、私はあなたが嫌いだよ。でもね私はあなたのことを好きになりたいの」

 強気に出て、風希はまっすぐ彼女の眼差しを見据える。

「気持ち悪い、私にとってあなたという存在が迷惑だってことがまだわかってないの? 本当に不愉快」

 憎悪は好意の裏返しなんて言葉は通じない。彼女の言葉は十割すべてが憎悪だ。そのことに風希が黙っていられるわけがない。

「あなたのやることやってること、そしてあなたがいままでやってきたこと。本音を言うと私はあなたのすべてが大嫌い。とてもイライラする」

「でっしょ?」

「だからね、私はあなたが感じているそのイライラに私ははじめて気づいたの……たぶんはじめての感情だった」

 その感情に流されて風希は衝動に駆られて逃げ出した。きっとそういうことなんだろうと波来は空気が読めていなかったせいで、いまになって彼女が逃げ出した意味をようやく汲み取る。

「ごめんね、でも私はこの感情に気づけてよかった。私はあなたのことが理解したい」

「簡単に理解なんてしないで! 私の感情をそう簡単に理解されてたまるかって言いたいわよ」

「わかるわけないよ、だから私はあなたを好きになりたい。私が好きになるということは、あなたが私の一部になるということ」

 そして……、

「あなたが私を好きになるということは、私があなたの一部になるということ」

 それが真にして、風希と風希本人が正面から向き合うということだ。

「大嫌い」

「伊原木風希ちゃん……」

「大嫌い、みんな大嫌い。そしてあなたのことが一番嫌い!」

 沈黙の空気に押されないように、風希は歯を食いしばる表情をした。

「だけどみんなあなたのことが大好きなんだよ。私も、桔実ちゃんも、波来くんも……そしてツカサさんも」

 波来とツカサを一瞬だけ見やる風希に、波来は控えめな笑顔を作って、しっかりと頷いた。

「嘘よ! みんな私のこと嫌いなくせに、無理してるってわかってるのよ」

「あなたはわかってないよ! みんなが私のことを想ってくれているんだよ。それくらいみんなあなたのことが好きなのよ、伊原木風希ちゃん!」

 強気の姿勢を崩さず、風希はしっかりと風希本人を捉えるように目する。

「ねえ、だったら教えてよ。私、あのときどうすれば良かったの? みんなが私の面子を潰そうとしたんだよ。そんな敵だらけの中で、どうすればイライラせずに済んだの?」

 中学の文化祭に起こったことを再び持ち出す。

 あのときのことがトラウマで、舐められていることに我慢できなくなって、結果いまの本人の生き様になってしまった。

 その取り返しをどうすればいいのか、彼女はわかっていない。

 いや、これはそもそもわからない問題だ。解決策などないのだから、と波来ですら割り切るしかないと思案していた。

 けれど、そんな問題は刮目すべき問題ではない。

「あのとき、私はあなたのそばにいたんだよ?」

「あなた……」

「私だけはあなたの心の中で、あなたを応援してた」

 それに言い返すことなどできはしなかった。そもそもドッペルゲンガーの風希は、ツカサによって捨ててしまった風希だ。捨ててしまった以上、深い関係は断ち切られている。かつての自分自身が目の前にあっても、そこに風希とのつながりはないように見えた。

「私はかつてあなたの中にいた。私だけはあなたを応援していた。たぶんだよ、たぶん私はそのことを伝えるために……」

 感情の込めかけた風希の声に、風希本人の目が潤み始めた。

「そう。ただそのことを伝えるためだけに、あなたのもとに来たのよ」

「あなた……」

「たぶんあなたはいま怖がってるんだね、わかるよ」

 その言葉に否定を差し込めない風希本人がいた。いや、否定などできはしないし、おそらくしたいとも思えない。そんな空気に本人は包まれているのだ。

「だからもう一度言うよ、私はあなたが好き。そしていまは一人じゃない。桔実ちゃんがいる、そして波来くんがいる」

「他の二人は余計よ、部外者よ、関係ないわ」

 そうやって無下に扱ってくるが、その顔は素直になっていない色をしていた。

「私が、あなたの前でこうやって言おうとしたのも。私がはじめて苛立つという感情を持ったから。私はあなたに気づけた、そしてそう言おうと決めたの」

「……」

「私は、あなたが大好きだよ。桔実ちゃんのことも、波来くんのことも、ツカサさんのこともみんな大好き。あなたもそうであって欲しい。二人もあなたのことが大好きなんだから」

 一筋の涙が風希本人のまなじりから、そっと伝った。

「できないわよ、どうしたらあなたに戻れるの? 私はもうあなたじゃないもの、このイライラした気持ちを手放すなんて、たぶん一生かかっても無理よ」

「だったら、なおさらみんなのこと、好きになって。みんなあなたのことを許してくれるから。そうでなきゃ、この旅行にあなたを呼んだりはしなかったんだから……」

 風希の目元からも涙の雫が零れ落ち始めた。

「バッカみたい」

「優しいんだよ。みんなも、私も、そしてあなたも」

「唐突に何よ!」

 本人の当たり散らす抵抗も弱まってきて、形だけの反論しか出てきていないように見えた。

 そんな折を見て、風希は彼女を抱きしめた。

「なに、よ?」

「私が教えてあげる……」

 風希の小さな声が聞こえてくる。その声を聞き漏らしなく、耳を傾けた。

 安藤桔実ちゃん。いつも伊原木風希ちゃんのことを心配してくれていた。あなたのいない中学時代の孤独を挟んだけれど、それでも同じ高校に通い始めて、変わり果てたあなたを見ても、あなたについていってずっと心配してくれていた。いつもあなたのことを思っている。グループの縁を切られるのも構わず、あなたのことを思ってくれる。あなたへの責め苦を一身に受け止めようとし、そしてこの旅行も考えに考えて計画してくれた。

 カゲヒツカサさん。ツカサさんはあなたを消そうをした。たぶんあなたが一番嫌いな相手だと思う。けれど、ツカサさんがあなたを好きになったからこそ、あなたの頼みを聞いてくれた。大好きだった。あなたを天敵のように見ているけれど、どれもこれもみんな私が好きだったからだよ。愛するなんて言葉を簡単に使っちゃいけないけど、あなたのことを愛してもいい価値を見出していたからこそ、あなたの頼み事を聞いてくれた。

 城田波来くん。波来くんはあなたのことが大好きになった。それはあなたから明るさと優しさを感じ、元気をあなたからもらったから、あなたに好きだと言ったの。波来くんは、あなたと私を別人物と見なしているかもしれない。けれど、あなたのことを本当は心配してくれている。だからこそ波来くんはあなたをツカサさんから守ろうとした。なんでかって言われても答えない。多分それは理屈や理由なんて必要ないくらい当たり前のことだと思っていたんだと思う。だから波来くんは優しい。

「うるさい、うるさい」

 あなたは私、私は優しい人間だって自慢できる。私が桔実ちゃんを認めてあげられた、桔実ちゃんの心と得意なことを掴んでいたから、私は桔実ちゃんをダルタニアンにすることができた。私は夢はみんなに元気を与えること、私はピアノは下手だけれど、みんなを楽しませたい優しさを持っている。そして、何より私はあなたを貶めようとしてはいない。本音は私もあなたを理屈なしで優しさを与えてやりたい。そんな人間なんだよ。

「うるさい……」

 そして、いまもあなたは優しい。なんだかんだとこの旅行に参加してくれた。そして、率先して海の家の手伝いをしてくれた。先頭を切って私たちに指示をしてくれたよ。桔実ちゃんには優しくしてくれた。波来くんには呼び子の練習をさせてくれた。

「……」

 波来くんも元気づけようとした、後で波来くんが好意を伝えてあなたは拒否したけれど、たとえ気まぐれでも波来くんに優しさを与えた。

「私をいったいどうしたいの?」

「伊原木風希ちゃん、みんな優しいんだよ? そしてあなたも優しいんだよ」

「優しいだけじゃ、ううん……優しさなんて世渡りに必要ないのよ!」

「一人で生きるの? それともあなたは一人で生きられるの……?」

「わ……、私は……」

 言い淀んでいると、抱きしめたままの風希が真剣な表情で本人と顔を見合わせた。

「もし一人で生きられるなら、それはそれで寂しすぎるよ」

 風希は自分が一人じゃないことを教えるために、こうやって訪れたのだ。

 みんな風希のことが好き、だから優しい。

 風希本人が瞼をぎゅっと閉じる。涙をせき止めるために。だが涙は溢れ出てきて、ささやかな抵抗は無駄になる。

「伊原木風希ちゃん、その涙の意味は何かな?」

 ぎゅっと抱きしめて、風希は彼女に聞く。

「意味なんてないわよ、わけもわからないのに涙が……」

「大丈夫だよ、あなたは何も怖がる必要なんてないから、胸がチクッとするただ少しだけ照れるだけで済むから」

 ふいに風希の身体が透けてきた。

「風希!」

 風希は何も言わず、波来を一瞬振り向いて、泣いた半分の笑顔だった。

「私たちがいるから、そして私はまたあなたになる。あなたをずっと見守ってあげる。それが私だから」

 ふいに雲の切れ間からの日射しが強くなる。ハレーションのようにあたりを一瞬だけ眩しく照らす。その刹那の合間に風希本人の前から、彼女は消えた。

 真夏の名残のように、風希は消え去った。

 風希本人が唖然とした顔で涙を流し続ける。口元を押さえてせり出す嗚咽を押し戻すのに必死だった。

「風希……」

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