風希のわがまま、わがままな風希を快く受け入れていた

 手渡されたハンカチで濡れた顔を拭きながら、風希と波来は近くのファミレスに入店した。

 軽やかなチャイムが鳴り響き、店員の案内で四人席へ。雨風のせいで店内は閑散としており、二人の他に客はいなかった。

 気まずい雰囲気がその場に佇んでいる。なんて切り出すべきか。答えを出すと言った手前、波来は何も言い出せない。その状況がさらに二人を気まずい思いをさせている。

 本当に波来は空気を読めない。空気をかき乱して悪くしてしまう一方だ。

「波来くん」

 風希のほうから声がかかる。

 雨で濡れているのか、涙で濡れているのかわからない顔なのに。

 彼女は笑顔で波来の顔色を窺っていた。

 そもそも波来がいま対峙している問題を変えなければならないのに、一生懸命になっている風希を目の前にして、波来はとても切なくなった。

「ごめん」

「謝らなくていいよ、私は波来くんが頑張ってるんだってことは重々わかってるから」

「風希……」

「わかっているから」

 風希の笑顔が霞んでいく。

「波来くんは優しいよ」

「ごめん……僕は」

「波来くんは優しいよ、だから……」

 消え入りそうな笑顔で風希のほうが、表情に浮かびそうな苦しみが滲み出ながら、一言一言を搾っていく。

「だから、私は物凄く苦しい。とても嬉しくて、波来くんの思っていることを考えるだけで、胸がびりびりに引き裂かれそうで」

「風希……」

 嬉しい反面、苦しかった。

 優しい反面、悔しかった。

 ひたむきな一生懸命さが風希の心を苦しめていることを、波来は悟った。

 こんなときどうすべきなのだろうかと考えること自体が、とても愚かに思える。

 そう悟ったとき、波来は考えることをやめた。

「風希は、僕にどうして欲しい?」

 自分の聞きたい問題の答えを当人に丸投げするなんて卑怯者のすることだとわかっている。

 だけど、それが波来に唯一できることなのだ。自分の無力さを怖いほど知っていたから。

「私、波来くんが好き」

 何度目の好意の表現かはわからない。けれど、波来にはその言葉がとても新鮮に聞こえた。

 きっと、次に聞いたときも、波来はそう感じるのかもしれない。

 だけど、あと何回この言葉を聞けるのか考えるだけで、波来は深い絶望に苛まれる。

「そんな顔しないで、波来くん」

「ごめん、空気読めなくて」

 波来は風希の思いに答えるために、彼女の両手をぎゅっと握った。

「僕も風希のことが大好きだ」

「波来くん……」

 彼に握られた手を、風希は震えながら顔に持って行く。

 その手を頬に擦り寄せ、目を閉じた。

「さっき気づいたの、波来くん」

「何?」

「波来くんに……ううん、みんなにしてもらいたいこと」

 口を噤んだまま、頬を両手に擦り寄せたまま、風希は涙目を隠した切ない顔で、言葉を紡いでいく。

「私のこと、好きでいてください」

 波来の胸がきゅっと締めつけられる。

「私を好きでいたことを忘れないでください。そうしたら、私はずっと波来くんの一部でいられる気がするの」

 一言一言が切実過ぎて、波来は息も飲み込めなかった。

「私は伊原木風希。私があの日、風希の一部であったように。波来くんが私のことを好きでいてくれれば、私はいつまでも私でいられる気がするの。波来くんの思い出の中で、私はずっと生きられる気がするの」

「よく、わからない……よ」

「大丈夫、私もよくわからないから。あははっ」

 無垢に笑う風希を目の前にして、とても苦しくなる。なんで、こんなにも笑顔でいられるのか不思議だった。

 だけど、波来は最後まで風希の望むままに、何かをしてあげたい。

「僕はきっと風希のことを好きでいてあげる。たぶん次に誰か好きな人ができたとしても、風希のことを好きだった事実を、決して忘れはしない」

「そんな言い方しないで、波来くんを好きになってくれた人に失礼だよ」

「ごめん……。でも、これが僕の本音であり本気だよ」

 たぶんこれは初恋なんだ。たぶん一生忘れない。またいつか好きな人ができたとしても。はじめて好きになった人を、波来は決して忘れたくはなかった。

「私、わがままだよね」

「そんなことないよ、でも風希の言うささやかなわがままなら、なんでも聞いてあげるから」

「残りのわがままは、波来くんには叶えられない」

 風希は真剣な目つきで、波来の瞳を見つめた。

「桔実ちゃんも、私のことを好きでいて欲しい」

 桔実ならきっとノーと返事をすることはしないとわかっている。無情な別れがあろうと、約束はしてくれるだろう。

「そして、もうひとつのわがままを聞いて欲しい」

 それは、

「伊原木風希ちゃんが、私のことを好きになって欲しい」

「風希……」

「これが、私の三つのわがまま」

 波来は無言で聞き入るしかない。

「言ってたよね、この旅行は私と私が向き合う機会なんだって」

 そう、そのための協力を波来は惜しまないつもりだ。

「だけど、それはあっているようで、少しだけ違ってたんだよ」

「え?」

「この与えられた機会は、私と私が向き合うものじゃない」

 そうこれは、

「私とみんなが向き合う機会なんだよ」

 喉のつかえが取れた瞬間だった。溜飲が下がるのを波来は確かに感じる。

「私が私と向き合うように、伊原木風希ちゃんが私と向き合うように、みんなも私に向き合って欲しい」

 だから、風希はもう一度わがままを言った。

「みんな、みんな、私のことを好きになって欲しい。そして、好きだったことを忘れないで欲しい」

「風希……」


 ファミレスを出て、堤防の高みから眼下の海を見る。

 雨はすでに止み、荒波のざわめきは静かに消え入り、雲の切れ間から一筋の日の光が差し込む。すると、巨大な一枚鏡が海に現れた。心なしか細い虹の橋が海の果てを、水平線をかすめるように架けられた。

 湿気って鈍重に居座っていた空気が引くのを波来は感じた。もしかしたら、目の前の後ろに下がっていく波が、重い空気を引けているのではないか。いつの間にか、波来は胸の内にあった憂鬱すら、いつの間にか、かき消えていることを知る。

 いまなら何でも言えそうな気がした。波来は左手で風希の肩を抱く。彼女の肩は先ほどまで雨にずぶ濡れていたせいで、冷たくなっていた。顔と顔を付け合わせて、右腕を伸ばし、風希の身体を抱きしめた。

「波来くん……」

「好きだよ」

 たぶんそれは格好つけでも、憧れでもない。風希の不安を除くため、消極的な心から出てきた言葉だ。そこには恥じらいはない。ただ切なくて失いたくなくて、波来は風希が痛がっているのがわかるほど腕に力を込め、抱きしめ続けた。なんて寂しいんだろう。

「結論は出たか?」

 ただ抱きしめることしかできない沈黙の空気を破り、ツカサが歩み寄ってきた。眼鏡越しの瞳が発する光は鋭く、彼は明らかに緊張感をより滲ませている。それはおそらく、ツカサ自身が風希をどうするべきかという問題の答えを一刻すらも待てなかったから。

 波来は風希を抱擁から解放し、ツカサに視線を突きあわせる。そして、一言声も漏らさず、口を引き結んだまま波来は頷いた。その様子を見て、ツカサは安堵をした表情を浮かべた。波来はそんなツカサの顔を、一度として見たことがない。

 そして目を疑うようなことがいま起こった。

「ツカサ?」

 彼の瞳から一筋の涙が流れ出てくるさまを、波来は目の前にした。

 波来よりも男らしいはずのツカサが、わけもわからず泣いていた。

「すまない」

 眼鏡を外し、ツカサは袖で目元を拭った。それでも涙の道跡は消えない。風希はとても心配そうに、ツカサの表情を見た。

「ツカサさん……」と風希は言葉を零し、戸惑っていた。

 強いはずの彼が涙を流す理由が見つからない。けれど、ツカサもその実、弱い人間の一人なのだと勘づくと、波来は思い当たることをそのまま口に出した。

「ツカサも、風希のことが好きだったんだね?」

「俺は……」

 また涙が溢れて、目元を拭い、袖でこすれた眉間が痛々しいほどに赤くなった。咽ぶのを隠すように何度か咳き込んでツカサは、元あった厳かな顔に戻し、眼光を鋭くさせて二人をじっと見つめた。

「好きでなかったら、俺は風希に手を貸さなかった。手出しなんてすることはしなかった」

 やはり確信していたことは本当だった。彼もか弱い人間で、風希が好きで。だが波来はツカサに対し、しこりのようにまだ思うところがひとつあった。

「ツカサは、後悔してるの?」

「……ああ」

 異能の力によって、いま目の前にいる風希は生まれた。風希本人から切り離れたという言い方が客観的に正しいが。彼にとってみれば、風希は生まれてしまったものだ。風希を消したくない思いに駆られた自業自得に、ツカサは胸が苦しかった。波来はそう確信する。

「ツカサさん……」

「何も言うな、俺がすべて悪い」

「自分を責めないで」

「やめろ」

 ツカサは強みを見せつけるように、眼光をさらに鋭くさせ、怖い瞳で風希を睨みつけた。だが、風希はそれに怖がることはない。

「俺自身を責めるのは、俺の特権だ。罪悪感に浸らせてくれ、俺自身が自分のせいだと納得できるように」

 そう言われるともはや何も言い返せなくなる。それがツカサのやり方ならば仕方がない。波来もツカサの意向を止めようとはせず、ただツカサに自身を責めさせてやった。いま二人がツカサにやってやれる唯一の優しさだった。

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