風希が納得したい、風希の知りたいこと
◆
海の家にもドッペルゲンガーの風希はいなかった。後藤さんは荷物を運ぶというので、波来の言葉を聞く前に、すでに車で引き上げていたので、海の家にはいなかった。当の風希本人は冷たくも、あんなやつ知るかと言う態度で、腕組みで柱に寄りかかっているだけ。彼女のことを無視し、波来は桔実とともに海の周辺を探し回る。
風希ちゃん風希ちゃんと叫びながら、桔実はあちこちを駆ける。
彼女の顔は涙のせいなのか雨のせいなのか、酷く顔がずぶ濡れていた。
「風希! 風希!」
まさか波にさらわれたのだろうかと酷く心配になる。
近くの岩場を見ると、大波が叩きつけて飛沫が高々と上がるのを見て、波来は恐怖を感じずにはいられない。
「風希!」
何度声をかけても風希は返事を投げてくることはない。
ただ、彼女の名前を投げる声だけが、むなしく聞こえるのみ。
だが聞こえるのは秒にも満たない、すぐに大波が音を打ち消しにやってくるから。
「風希!」
すでに喉の奥が痛かった。いったい風希に何があったのだろう。
風希が無断で海の家から離れる理由などない。
いや、心当たりはあった。波来が思い当たるところ、風希は自分が消えたくないからこの場から離れていった。その可能性しか考えられなかった。
「風希……」
だとすれば、このまま探すのは残酷なことではなかろうかと思った。
ただ確かに風希は自分が消えてもいい、自分は消える運命なのだと、そうやって諦めた表情であった。けれど気が変わったのかもしれない。昨日のこと、風希本人のこと、いろいろなことに直面していま涙を飲んで、波来たちから大きく距離を取った可能性はゼロではないかもしれない。
いや、ゼロであるはずがないのだ。
存亡の危機が迫れば、誰だって逃避したくなる。風希と風希本人を向き合わせることは、やはり段階を踏み越えていた。それくらい無理のあることだ。そう波来は考え始めた。
「風希」
もう声も枯れてきた。だが、弱々しい声になっているのは、声が枯れたせいではない。波来自身に迷いが生じているせいだろう。波来の心の脆弱さが声を弱めているのだと、彼はそろそろ気づき始めた。
このまま探さないほうがよい選択なのだろうか。
猛る海に猛る風が正面からぶつかりそうになる。波の飛沫を浴びて波来は、自分の無力さに耐えがたい劣情を感じ始める。
もう名前を呼ぶことすら躊躇したくなった。このまま帰ってしまおうかと逡巡する。
「とうに諦めたかね、波来くん」
「……ツカサか?」
振り向かずともわかっていた彼の声。
ツカサが後ろから歩く音を立てながら、波来の右隣に肉薄する。
「ツカサが隠したの?」
「隠したことと、逃げてくることに、いまどれだけ些末な意味が取れると思っているのかね」
「そう、風希はツカサのところへ逃げ込んできたんだね?」
言葉の代わりに沈黙で応えることが、何よりの答えだった。
「風希はいまどうしてるの?」
「怯えているよ、君にもわかっているであろう?」
波来はため息を吐いた。その際に喉の奥がひりひりして、軽くむせ込み、弱い呼吸で空気を吸い込む。
猛威を振るうばかりの海の怒りをツカサと眺めながら波来は、しゃがれ声を直すようもう一度咳をしてから、ツカサを見る。
「ツカサ……、僕は」
「君にはわからないよ」
先手を取って言われてしまう。波来だって確信してる。だが、確信犯的に物事を進めたくはない。決して蓋をせずにこの状況を無理に打破するほどの人間。波来もそんな卑怯者にはなりたくなかった。
「僕にはわからないよ、たぶん一生かかってもわからない」
自分が消えてしまう恐怖なんてわからない。
それは死が怖いというのとは少し違う。
なんとなれば、死はいくらでも先延ばしできるし、いまここで海に身投げすることだってできる。
問題はその死を受け入れなければならないという事実にある。
消極的な死に方は誰しも受け入れたくない。みんな納得して死にたいんだ。
風希はいま納得できる消え方を知らない。
どう納得すればいいのかわからない。
一生かかってもわからないなんて本当に無責任だ。
そして波来は気づく。この問題は風希が消えることを先延ばしにすることでは解決しない。やはり、納得することに一番の本質があるのだ。
「僕は風希がここにいた意味をわからせてやりたい」
それを聞いてツカサは「ふむ」と言いながら、横から肩を軽く触れる。
「ツカサ、どうして君はここまであの風希に尽くすの?」
「ふっ……」
ツカサはらしくなく軽く笑った。だが、それは嘲笑とは微妙に違う笑い方だった。
「俺がわかっていないからだ、風希を匿うこと、これしか俺にはできない」
「卑屈にいばらないで」
「いばるつもりはない、これは敗北宣言だ。そして、全責任はそもそもあの風希を生み出した俺にあるのだ」
「ツカサ……」
「そして、俺も愛着を持ってしまったのかもしれない。俺が自ら産みだした風希にな」
憐れみか、それとも自分勝手さなのか。
ドッペルゲンガーの生みの親でもあるツカサである。
けれど、ツカサ自身にも答えは出せていないと見える。匿うことだけしかできなくて、きっと彼も悔しいのだろう。
ドッペルゲンガーを生み出した責任の取り方がわかっていれば、すでにやっているはずだ。
だが、ツカサには彼女を消すことはできない。風希本人を殺すことは一番非道だ。いまやるべきことは、二人そのままの状態を保たせ、ただ見守ることだけ。だからこそ波来はツカサに言った。
「僕が……僕が風希を納得させてみせる」
波来は手を握りしめる。ツカサに比べれば、ひ弱で小さな手だ。
だけど、その手でしか、不安で仕方なく風希が差し伸べようとしてる手も握ることはできない。
「風希、僕は……」
右手に小さな手が触れてくる。
小さくて柔らかで、細かい作り物のように壊れてしまいそうな手。
横に目をやるとそこにツカサの姿はなく、風希がそこにいた。
「風希」
「波来くん……」
彼女が哀しむ目で圧倒されてはいけない。まして同情などしてはならない。風希が胸の内に感じることを好き勝手に推し量る。そんなことは自己満足の欺瞞だ。決して同情をしようなどと考えてはいけない。
「君の待つ答えを、僕が見つけてあげる」
濡れた顔を隠すよう風希はゆっくりと頭を下げた。
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