風希は迷う、風希は苛立つ

 今日も朝早くに海の家で手伝いをした。だが、今日は風が一際強い。天気予報では朝方に風が吹くとは言っていたが、ここまで強いとは思わなかった。後藤さん夫妻もやめたほうがいいと言う。だが風希本人がやると強引に言ったのがはじまりで、けっきょくパラソルの設置をすることになった。

「本当にやるの? 風希、こんな風の中」

 パラソルがめくり上がりそうだった。けれど風希本人は曰く。

「予報でも、風が強いのは明け方あたりだって言ってたでしょ。風が止んだときにはお客が大勢来るのよ」

 昨日の昼前は、確かに人が多く来た。

「お客が入れなかったらその分、損失になるのよ。それにお客が来た後だとパラソルなんて設置してるヒマなんてないんだから」

 昨日に増して、随分と積極的になったものだと波来は感心する。

 とは言うものの、風希本人は相変わらずトゲトゲしていた。ドッペルゲンガーの風希と比べれば、まだ優しいと断言する境地にはほど遠い。

 パラソルを無理に立て固定していく作業をしていく中で、桔実が覚束ない様子で砂地に固定しようとしたそのときだった。

 一段と風が強くなり、桔実の持っていたパラソルがめくりあがった。その次にパラソルが地面をえぐるように固定がずれ、パラソルが倒れ桔実の身体に覆い被さる。

「桔実ちゃん!」

 刹那に悲鳴をあげて下敷きになった桔実のもとへ、波来たち三人が駆け寄った。

「大丈夫!?」

「いたた、だ、大丈夫ですよ」

 よかったと波来は胸を撫で下ろし、倒れていた桔実が起き上がるために右手の平を砂地に押しつけようとする。

「痛っ!」

 明らかに激痛を伴った金切り声をあげる。

「桔実ちゃん!? 本当にだいじょ……?」

「キッちん!」

 波来を左横から押しのけ、彼が顔を砂に埋めたのも構わず、風希本人は桔実の右手を取った。

 風希本人は指を動かしたり、手首を回したりする。

 どうやら彼女には、怪我の程度を見る心得があるようだ。

「これ痛い?」

「痛くない」

「こうすると?」

「ちょっと痛い」

「これはっ?」

「痛い!」

 確かめてから風希本人は自分の肩を桔実に貸してやり、ゆっくりと立ち上がらせた。

「ごめんね、風希ちゃん」

「悪いのは私のほうよ!」

「風希ちゃん?」

「この天候でパラソルを立てるなんて言い出した私がバカよ、ほんと私はバカヤロウよ」

 そうぶつくさ言いながら店内へと入っていった。

 波来は二人を見て、その違和感を感じた。風希本人は何を思いながら桔実を助けたんだろうか、あまりに風希本人らしくないと思える。

「波来くん……」

 ドッペルゲンガーの風希がこちらを見る。

「どうしたの? 風希」

「ううん、なんでもない」

 何か言いたげな顔をしていたが、数秒後に口を噤んで、目をそらした。風希は二人のほうを見ていた。だがしかし、その目先はどうも桔実を見ているようには思えない。波来は風希があの風希本人のほうを見ているんじゃないかと思えた。

 そして風希の目は、悲しげな目をしている。波来もただ黙ってここにいることしかできない。風希にとって二人の光景が手に届かないほど遠く見えた。おそらく、風希もそんな目線で二人を見ているのではないか。そう思っただけで波来は、滔々と胸に注がれる切なさが溢れ出てしまいそうな切実さを感じた。


   ◆


 桔実は申し訳ないと思っていた。

「風希ちゃん、私がやるから、無理しないで」

「無理してるのはキッちんのほうでしょ!」

 桔実は右腕を包帯で巻いていた。先ほど後藤さん夫婦に手当してもらったのだ。軽い打撲ではあったけれど、風希本人はどうやら曲がりなりにも責任を感じているようで。

「その手じゃ、中華鍋を握れないでしょ?」

「でも」

「キッちんは、私に教えてくれればいいから」

「う、うん」

 そう言いながら風希本人はレモン焼きそばを作り始めた。

 レシピは一通り教えたが、あとは傍から見ている桔実の勘を頼りに作るしかない。

「あ、そこもう少しシークワーサー入れたほうがいいかも」

「オッケイ!」

 鍋の隣にあるシークワーサーを手にして、風希は中華麺にかけようとする。

「あ、そこそのまま注ぐんじゃなくて、回し入れたほうがいいよ」

「わかった!」

 そう言いながら、不慣れな手つきであれ、風希本人はレモン焼きそばを作る。

「レモン焼きそば二人前!」

 後藤さんの奥さんが吹き抜けになってる厨房に来て、レモン焼きそばを取る。

「はい、ありがとうね風希ちゃん」

「い、いえ」

 ありがとうと言われたのが少しだけ恥ずかしかったのか、風希本人は俯き後藤さんからの感謝の視線から目をそらしてしまう。

 人から感謝されることがあまりなかったのだろう。不良たちにありがたがれることはあっただろうけれど。それはきっと悪いことだから。

 きっと風希本人にとって、いま受けた「ありがとう」の言葉が胸を打たないはずがない。

「ありがとう、キッちん」

 受け取ったありがとうの優しさを受け止めきれなくて、受け流すように桔実にありがとうと言ってしまう。

「ううん? お礼を言うのは、わたしのほうだよ。本当にありがとう、風希ちゃん」

「う、うん」

 赤面して風希本人は、けっきょく受け流したありがとうをまた受け取ってしまう。

「風希ちゃん、大丈夫? 顔が真っ赤だよ、コンロの火が熱いかな?」

「そんなこと、ないわ」

 昨日は夜中、三人から優しさをもらって、なんだか借りができたような気がしてならなかった。きっとそれが風希が忘れていたことなんだろうと桔実は思う。

「焼きそばが鍋底のほうで焦げそうになってるよ風希ちゃん」

「あ、うん」

 そう言いながら、風希が中華鍋を器用に回す。

「そうそう、うまいね風希ちゃん」

「うん」

 桔実は笑顔を振りまきながら、風希の動向を見守る。

 じろじろ見られるのがきっと恥ずかしいんだろうけれど、風希がほんの少しだけ素直になっている気がした桔実だった。

「風希ちゃん、ありがとうね」

 うるさいとも言えず、風希はただコンロの前で何度か頷いた。

 ふいに空のほうがゴロゴロと鳴り始めた。

 遠目から外を見ると、いつの間にか水平線の彼方まで灰色をした雲に覆われていた。

「雨、降る?」

 不安そうに風希本人が眺めながら、桔実に聞く。

「今日は雨の予報のはずじゃなかったんだけど」

 そう、朝方に風が強く吹くとだけ聞いたから、この天気は予想外だった。

 空模様通り十分もしないうちに小雨が降り始める。不運にも通り雨で済まされず、雨脚は強まる一方となった。お客は海から散り散りに帰っていき、海の家には桔実たち四人しかいなかった。

「こう、雨が強いと、お客さんも来なくなるわよね」

「海の家だからね、風希ちゃん」

 やはりこういう商売は雨天には敵わないのだ。

 後藤さん夫婦がラジオを取り出してきて、天気予報のチャンネルを回す。

「……は、ゲリラ豪雨の影響で……」

 どうやら、そういうことらしい。今日は店じまいだと言いながら、後藤さん夫妻から民宿に帰ったほうがいいと勧められた。

「二人にも……波来くんにも伝えてきます」

「よろしく頼むよ、桔実ちゃん」

 そう言いながら桔実が海の家を出て、雨雫に打たれながら波来を探そうとする。両手を傘にしても、顔を覆い隠せず、桔実の顔が濡れる。

「どこへ行ったですか、波来くん。まさか波にさらわれたなんて洒落を考えてませんよね」

 それならそれで洒落にならない。波の前日と比べて、まるで心のざわめきのように荒れていた。

 だが波来の身を心配する必要は全然なかった。彼はいままさにこちらに走ってくる。

「桔実ちゃん!」

「波来くん、やっと見つけたですよ。今日はもう休むよう後藤さんが言ってました」

「大変だ」

 差し迫った顔で桔実と相対する。波来は息を切らせて、青ざめた表情で桔実の顔を見る。

「どうしたんですか?」

「風希がいないんだ!」

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