風希に苛立つ風希の自分
◆
風希本人が目を覚ます。民宿で宛がわれた四人の部屋だった。ひんやりとした心地いい風が吹き抜ける。風の出所を探るように目を向けると、風希本人は気づく。
障子戸を開け、窓辺にドッペルゲンガーの風希が立っているのを認めた。
「あなた……」
彼女が問いかけようとしたら、風希がこちらを向いてきた。
「ここでお話しよう」と言いたげな涼しそうな瞳でこちらを見る。
話などしたくないけれど、眠ったら風希が彼女をじっと見つめてくるのが耐えられなくて、風希は寝たふりもせず彼女の隣へ歩み寄った。
外には一際青くて冷たそうな月が白々と輝く。
「月は満ち欠けを繰り返すんだよ」
「そんなこと、小学生でも知ってるわよ」
相変わらずのぶっきらぼうで風希本人は言葉を返す。
波来と桔実が寝息を立てて、ぐっすり眠っている。のんきな感じに思えるが、風希本人にとっていまこの感じが殺伐に変わるような気がして、その感情を胸の中の檻に閉じ込める。風希本人の心はその檻の中で猛獣のように暴れ回る。檻が壊れないよう彼女はしっかりとその猛獣を押さえつける。
それくらい風希本人は苛立っていた。
「私は月のようにはなれない、たぶんそのまま消えちゃうんだ」
「あ、そう」
他人事のように彼女は言ってしまう。どうしてそんな酷いことが言えるのか、風希本人にすらわからない。
「あなた、消えたくないんでしょ?」
「……」
顔を俯けて、風希は泣きそうな顔を見せる。
「はは、わかってないと思ってるでしょ? 私知ってるのよ、私があなたと向き合って、自分を見つめ直せば、あなたは消えちゃうんだって」
どこまでも人をイラつかせるのはこの風希本人のほうだと彼女自身は気づいていない。
針を刺してくるような執拗さで、風希本人はどんどんと風希の心を抉っていく。
「あなたなんていなくなってしまえばいいと思う。さぞかしせいせいするわ、見ているだけでイライラするの」
「じゃあ、早く私を消してよ」
意外な言葉に風希本人は豆鉄砲を食らったような顔を作る。
「は?」
「早く私を消してよ」
風希の意図するところがわからない。もしかしたら意図などなくて、感情の発露を反射的に言葉に出している可能性すらある。
「わかってるよ、あなたにはそれが辛いんでしょ?」
「な、何を言ってるの!」
確かに自分自身と向き合うことは辛い。自分の醜い部分と対峙しなくてはならないから。だから風希本人も今日まで自分のありように目を背けてきた。
イライラする根本も、あのとき三人の前で話したとき、本当は彼女も気づいていなかったのだ。
あのとき感じたものがムカツキだったことを、風希は何も知っていなかった、あのときはじめてその感情に気づけたと言っても過言ではない。
「あなた、消えても怖くないの? ははっ、やっぱりドッペルゲンガーさんは違うわね」
「酷い」
泣きそうな雰囲気で風希は眉根を寄せる。
「そうよ、私は酷い人間よ、いまごろわかった?」
風希本人がいじわるそうにそう言った。
「まったく、あなたは消えても怖くないの? ほんとあなたって変わってるわ」
「……しくなかった」
声がかすれて、涙まじりの声で風希は咽びそうになる。
「私が消えても怖くないの……なんて、一番聞いて欲しくなかった」
「は?」
風希本人は失言を言ったつもりではない。
けれど、風希の心を傷つけたことに気づいていなかった。
「私だって消えたくない、ねえ教えてよ。どうしたら私は消えなくて済むの? どうすれば私を生かしてくれる?」
「ちょっと、そう私に詰め寄らないでよ!」
「あなたが一番に知っていることでしょ? 答えてよ!」
「あなた……」
詰め寄る彼女に、風希本人は辟易しながら言葉がしどろもどろになりかける。
「私は消えたくない。あなたには消えてくれたらって思う。辛いよ、何が辛いって? 私がここにいたいと執着していることがとても辛い。だからこそ怖くて仕方ない」
「あなたね! そんなこと私に言われても……」
「なんでこんなことしてるんだろう、なんで私こんなことをして迷いが生じてるんだろう」
「知らないわよ」
「何も知らないあなたのために、なんで私はこんなことしなくちゃいけないの!」
それは風希にとってはじめての感情だったのかもしれない。
いま一番苛立っているのは、間違いなくドッペルゲンガーの風希だった。
ここまで当たり散らすまでに至ることはいままでにない。
「目障りよ! あなたっていう人間は」
本当に消えて欲しくて、風希本人が負けず劣らず声を張り上げて言う。
桔実と波来が目を覚まさないのが幸いだった。おそらくこの現場を見られたら、二人のいずれかに平手打ちをされてもおかしくない。
「目障り? わかってるよ、そんなのわかってるよ。だから私を捨てたんでしょ?」
一番言って欲しくないことを風希は堂々と述べた。それは間違いなく風希本人が得意とする悪口のひとつである。
「うるさい」
「あなたが弱いから私を捨てたんでしょ?」
「うるさい!」
悲鳴に近い声をあげ、風希本人はこの風希に平手打ちを食らわそうと思った。
けれど、できなかった。それをすることは自分の無力さを認めることである。
事実、風希本人はとても弱いのだ。
「波来くんが言ってたよ、伊原木風希ちゃん、あなたのことを」
――酷く嘲る笑みで、気がとても強すぎて、人気取りに誰彼と優しく接して、プライドがあまりに高い。そんな女の子だとわかって僕はいま幻滅している。
「あいつそんなこと言ってたの……絶対許さない」
「許さないのは、あなたのほうだよ」
風希はたぶんここではじめて怒りという感情が湧き上がっていた。
「私は消えたくない、そんなあなたのために、なんで私が消えなくちゃいけないの?」
「何を言って……」
「なんで? なんでなの? 答えてよ、答えてよ」
風希本人はこれ以上当たり散らすことができず、八畳間から廊下へと出る。
わけもわからず、風希本人は、らしくもなく涙が伝う頬の感触を感じた。
自分自身が情けなくて、自分に生きている価値がないことに、苛立っていた。
おそらく生まれてはじめて卑小なこの自分に対し、心の底から苛立っていた。
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