夢見る風希、風希の夢の終わり
キーボードの曲が終わりの合図するがごとく、ジャーンと音を鳴らした後、拍手が巻き起こる。
風希は決して拍手をしなかった。だけど、無表情で頷く仕草を見せる。どうやら感心はしているようだ。感心がなければ文句のひとつやふたつ言わずとも、すぐに立ち去るはずである。
演奏者が立ち上がると、やおら礼をして、そこでまた拍手が起きた。
そしてキーボードを片付けようとしたところで、観客はみんな離れていき、その中に風希もいた。
「風希ちゃん」
桔実が歩み寄る。風希は鋭い目つきで威圧的な態度を視線に込めた。眼光はギラつき激情をちらつかせている。言うまでも無く桔実を矛先に。憎しみとまではいかないまでも、「こっちに来ないで」という嫌悪感を含んでいた。
桔実もさすがに背筋が攣るほどびっくりした。風希があのような目をするのも、今朝のことがあったからで、彼女の理不尽な怒りは冷めていない。
それが理不尽だと桔実も思っていた。風希がビデオカメラを非道な使い方をして、それを咎められることを嫌がった。自分で悪いとは思っているのだろうかと疑問に思う。悪いと確信しているのであれば桔実も押しを強くすれば思い留まるだろう。
どうせなら、ピアノの演奏をビデオカメラで撮影すればいいのに。
バカないじめ動画を見せて不条理な笑いを提供するよりも大事なこと。
「風希ちゃん」
「何」
ぞんざいな言葉を返す。そんな
「ピアノ、まだやってる?」
今朝のことをまた問われるのかと思ったのか。風希は鳩が豆鉄砲を食らった顔を一瞬だけ見せ、また例の形相に戻して桔実をにらみつける。
「興味ない」
「ええ? 嘘だよ」
桔実の言葉に反抗するよう風希は口を引き結ぶ。
「風希ちゃん、興味深そうに演奏見てた」
「暇つぶしよ」
「風希ちゃんの友達が言ってたよ、ピアノを鑑賞してるから邪魔するなみたいなこと」
「あいつら……」
本心の一部を見透かされたことに腹を立てたか、彼女は苦汁を飲んだ渋い顔を作った。
「正直になろうよ、ピアノが好きなんでしょ?」
「どっちでもいいでしょ?」
「そうどっちでも? じゃあわたしの考えで間違ってないことにするよ」
「くっ……」
風希は夢のかけらはまだ残っているはずだ。
彼女はピアノでみんなを楽しませたい。
自分が楽しむため、その次ふたりを楽しませるため、そしてみんなを楽しませるため。
風希の夢は完全には消えていなかった。
◆
「ごめん、風希」
放課後を迎えた学校に二人分の影法師が伸びていた。屋上に行くと案の定、風希がいて、波来は彼女と言葉を交わす。
波来はひたすらに謝るしかなかった。
桔実が泣きすがっていたことを、風希から聞いたからだ。そのことをこの風希から聞いた。
彼もできれば突き放したくなかった。そうするしかない自分を責め立てたい気分である。言い訳などしたくないけれど、波来も必死だった。
「全部わかってるよ、私がここにいる理由も、私がこれから待ち受ける運命も」
「風希……」
手に入れた事実を伝えることよりも、すでに事実を知っていることは酷なことだ。それは風希について何も知らなかったという事実を晒すことなのだから。
彼女はこの期に及んでも、涙を流さない。波来が風希の理想を願ったように、風希は笑顔のままでいてくれる。それがさらに非道であることは彼自身が承知している。
「波来くんは、私のこと、好きでいてくれる?」
「そりゃそうだよ。僕は風希のことが好きだよ」
だからこそ胸が苦しい。彼女のことを想っているのに、行動では何ひとつ結果を出せない自分に苛立ちを覚える。
「私は本来、ここにいてはいけない存在だから」
「そんなことはない!」
激情に駆られて、波来つい冷静さをかなぐり捨ててしまい、この場で叫んでしまった。
それがごく自然な反応であるものの、彼の意固地が風希を苦しめていることは重々承知している。だからこそ風希の笑顔が目の前にあって、波来はとても胸が痛む。
「少なくとも僕は、風希がここにいて欲しい、そう思ってる」
「少なくとも波来くん……じゃないよ」
風希が語気を強めて言った。
「少なくとも波来くんと桔実ちゃんが、だよ?」
桔実のことを忘れていた。こんなときに空気読めなくてどうするの、と波来が自戒を込める。
「ごめん」
さっきからその言葉ばかりだ。波来は自分自身が嫌になる。
「二人はそう思ってるって私は知ってる。だけど私は私のことを……」
「風希!」
「ううん、私は嬉しいんだよ。だからこそ悲しいの」
自分のことを想ってくれている。そのことが嬉しい反面、そのことを知っているからこそ、風希は二人に心配りすることを強いられている。そのことがあまりにも悲痛だ。
「ねえ波来くん。私は波来くんの理想とする風希になったかな」
「そうだね、僕はそう思うよ」
彼女は決して波来を裏切らない。彼女は理想に忠実に生きていた。
「ありがとう」
理想をつきつけたのは波来自身だ。
だけど、それがなんだか無理強いのように思えて仕方ない。
「波来くん、私が好きであっても、決して後悔しないで」
「風希?」
好きという言葉は覚悟のいる言葉なのだと気づかされる。
人を嫌うことほど簡単なことはない。それは自分の人生から相手を切り離すだけでいいのだから。
けれど、人を好きになることほど難しいことはない。それは自分の人生の一部にすることだから。
「私はここにいていい人間だったんだって、そう思えるような時間を過ごしたい」
人生の一部として受け入れる覚悟がはたして波来にあるのだろうか。記憶という形であれ、思い出という形であれ、その人のことを忘れないことは、人を思い続けなければならないという責任が生じる。
無論、その責任は想いを伝えられた相手にも生じるものだ。
好きになってその想いを伝えることは難しい。
「そんなこと簡単だ」と思うことは、とてつもなく身勝手だ。波来はそのことにいまになって気づいた。
「僕も風希とともに時間を過ごしたい」
自責の念に駆られそうでも、波来は素直にそう答えた。
「桔実ちゃん、頑張ってるね……私にはわかる」
彼女にとって風希は桔実の一部だ。だからこそ頑張れる。勇気づけられた分だけ桔実は頑張っている。
「風希、どうしたらこの問題を解決できるかな」
ツカサからの忠告をまだ桔実には伝えていない。口に出すことを忌避したくなる。だからあんなにも桔実に冷たく接してしまった。ごまかしもいいところだ。
「解決なんてしなくていいよ、大事なことは解決することじゃない」
「じゃあ、なんなの?」
「納得することだよ」
心の奥がずしりと重くなる。瞼の裏に何か熱いものが触れる感覚に浸る。
「私がこの先に背負う運命があっても、波来くんも桔実ちゃんも納得して欲しい」
気持ちに区切りをつけるのは難しいことを波来も生来知っている。そのことの難しさは自負しているつもりだった。
風希は納得しているのだろうか。そのことを容易に考えたくはない。
「できるわけないよ」
「お願い、無理な注文だって私もわかっている」
風希のほうがことさらにその運命を受け取ることを拒むはずなのに。
「私は波来くんのことが大好き、そして桔実ちゃんのことが大好き」
だからこそ二人に託したいのだろう。これからの風希の運命を。
「私がここにいた意味を、二人とも納得して欲しいの。これは私からのお願い」
それに対して波来はどう答えるべきだろうか。易々と答えてはならないことだとわかっている。彼の口から出た言葉は。
「できるわけないよ……できるわけ……」
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