夢の風希、夢見る風希
「僕にとって、風希は一人しかいない。あんなの風希じゃない!」
どうして。こんなことを波来が言うはずがないと、信用していたのに。
「もうあの風希に関わるのは、やめよう。ね? 桔実ちゃん」
「酷いことを言うんですね、波来くん。どうしてそんなことが平気で言えますか」
ようやく絞り出した言葉も、聞こえていないのか。
波来は虚空を見つめ、決して桔実の顔を見ない。
「桔実ちゃん、もうやめよう」
昼休みの屋上には誰もいない。
仲間を一人失って心にぽっかりと空いてしまった。
波来の気心が変わったのだろうか。
いや、波来はドッペルゲンガーの風希が好きだ。
彼女に対する思いは変わっていないと桔実は思う。
いったい波来はどうして心が変わってしまったのだろうか。
理解が追いつかず、その困惑に涙が滲みそうになる。
そして、不良の決闘を隠し撮りするために風希当人はビデオカメラを借りた。
なんとかして止めるよう言いたいが、桔実には止められそうにない。
桔実には説得するための力がない。
波来を言い伏せる論理はあるが、気弱な自分が風希に対して感情を込めてねじ伏せるほどの力がない。
もっと強い感情が必要だった。けれど、おそらくそれは手に入らない。
弱い真心があっても、それは強さになりはしない。
あの風希の感情が強すぎるのだ。それゆえに彼女は危うい。
どうにもならない歯がゆさに桔実は苦しんでいた。嗚咽が漏れるのをこらえる。そして時折訪れる吐き気をぐっとこらえていた。
「桔実ちゃん……」
困ったときにいつでも現れてくれる風希。
そよ風の音にすら、かき消されそうな声で、彼女が桔実の肩に触れてきた。
「風希ちゃん」
後ろを向けば、いつもの笑顔がそこにあった。
いつだってそうだ。風希はいつだって桔実の心の助けになる。
そしていまも。
「何かあったの? 桔実ちゃん」
「風希ちゃん」
目の前で涙を流すことを許し受け止めてくれる相手がいる。桔実はそれに甘えるように、顔を風希の胸に埋める。
何も言わず、今朝からためてこんできた涙を絞り出した。
「風希ちゃん……」
裏返った声になりながら桔実が抱きつき、風希は桔実の頭をそっと撫でる。
その抱擁を受け止める彼女は、優しさそのもので、明らかに彼女は強かった。
「辛いことがあったんだね、桔実ちゃん」
「波来くんが、それにもう一人の風希ちゃんが……」
言葉が整理できないうちにそれを言葉にしようとするが無理を生じる。
それでも風希は「大丈夫だよ」と慰めてくれた。
しばらくして顔を離す。
桔実はようやく落ち着いた。
そして、経緯を教えられるほどに感情も安定してきた。
「そうなんだ、桔実ちゃん。とても辛かったんだね」
「うん……」
これからどうすればいいか見当もつかない。
あの風希当人を変えるために、頑張っている。けれど自分は何も変えられない。それが悔しかった。
どうすればいいかわからなかった。
「わからなくていいんじゃない?」
「え?」
「わからなくてもいい、でも動かなきゃ何も変えられないよ桔実ちゃん」
胸の奥がじんと熱くなるのを桔実は感じる。
「行動がよくも悪くも変えるかもしれない。けど、桔実ちゃんは変えたいと思ってる気持ちを忘れなければいい。それでいいと思う」
「風希ちゃん……」
「桔実ちゃんの信じることをすればいいよ、それが一番だと思う」
とても優しくて、勇気づけてくれる。きっと桔実には手に入らないくらいの人格だ。
だけどそれでよかった。
桔実は動くことしかできない。でも、動くことはできる。
それが間違ってても意味があるんだということ。それを風希が教えてくれる。
「ガンバだよ、桔実ちゃん」
「ありがとう、風希ちゃん」
ひとりぼっちになったかと思った。けれどひとりではなかった。
たとえひとりぼっちになったとしても、桔実の心の中に風希がいる。
風希の言葉がある限り、桔実の心に風希がいる。
桔実は決して、一人ではない。
「頑張るよ、わたし」
そこで風希と分かれて、桔実は次にどんな手段で迫るか模索した。
けっきょく押しでいくしかないとは思うものの、どうやって風希当人を感情で押そうか。それを考えてるだけで放課後になり、帰り道もそのことを始終思考していた。
不良男子が向こうから歩いてくる。
「あ、キッちん」
グループとは縁を切っている。それでもからかい半分で彼らは目をつけてきた。
「風希ちゃんどこですか?」
「お前に教える義理なんざねえよ」
「いいです、わたしが勝手に探すです」
「やめろ、姉さんはピアノを鑑賞中なんだ、邪魔するなって俺らがはけられたくらいだ」
「ピアノですか」
「お、と、しまった口が滑った。これ以上は何も喋らねえ」
「いいです、あとは自分で探します、ありがとうございます」
「お礼なんざ言われる筋合いねえんだよ、一人で探せ、キッちんのことだから横から話しかけたら、姉さんにどやされるぞ、だいたい……」
不良の忠告も黙殺し、桔実はその場所を探しに行った。
このあたりでピアノを演奏しているところといったら、どこだろうか。
あちこちまわっているうちに、遠くからピアノの音が聞こえてくる。
しめた、と桔実は思った。
音を頼りに辿り着くと、楽器店の前で人が集まっていた。
路地にキーボードが立てられており、そこでおそらくプロのキーボード弾きが曲を奏でていた。流行曲を弾いていて、みなが聞き惚れてじっと沈黙する中、美しい指使いのメロディが奏でられる。
周りの人だかりに、桔実は風希を見つける。
「風希ちゃん」
一瞥を加えてから、風希は桔実を無視し、ピアノに目線を向ける。
ピアノだから声を潜めるのは当然と、桔実も同じようにピアノの鑑賞に意識を向ける。
そのとき桔実は思い出したことがあった。それは、小学生のころ風希が音楽室でピアノを弾いているところを桔実が聞き入った場面だった。
小学校の放課後、音楽室からピアノの音が聞こえてきた。
流行歌とかではなかった。弾くのが容易にできそうな童謡である。
ただ不器用な弾き方だったので、演奏者はおそらく指がおぼつかないのだろうと思った。
興味で音楽室のドアを開けると、風希がピアノを弾いていた。
「桔実ちゃん?」
ピアノを弾く手が止まって、楽しい童謡の響きが静まる。
「いいよ、続けて。風希ちゃん」
「うん」
彼女は不器用に指を踊らせて、ピアノを弾いた。
「いいね、風希ちゃんのピアノ」
明らかにお世辞だったけれど、風希はありがとうと言う。
「いまはね」
「ん? 何? 風希ちゃん」
「いまはね、この曲を弾いて自分が楽しむことだけに精一杯なんだ」
あらかた多くの場合、曲を弾いたり作品を作る際にまず必要なのは、自分自身が楽しむことだ。
「桔実ちゃん、私はね、みんなを楽しませる、そしてみんなを明るくさせるのが夢なんだ」
「風希ちゃん……」
「ピアノでなくてもいい、私はみんなを明るくさせるような人間になりたい。それが私の夢」
彼女にとって身近なものはこのピアノなのだろう。
「いまはひとりで楽しむだけで精一杯」
まだぎこちないながらも彼女の弾く指からは、力強い音が響く。
「じゃあ風希ちゃん、わたしをその二人目にして」
「桔実ちゃん?」
「風希ちゃんが一人目。何事も練習だよ。そして、わたしはその二人目になりたい。ひとりが楽しむ演奏から、ふたりが楽しむ演奏をわたしは聞きたい!」
「ありがとう、頑張るよ私」
それからも風希はピアノを弾いていたのだろうか。
桔実がその二人目になる前に、自分たちは卒業し、散り散りになってしまった。
あのときの頑張りを風希は忘れてしまったのだろうか。それとも諦めたのか。
風希はいまもピアノを弾いているのだろうか。
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