第2話 童貞、いいと思いますよ

 自称占い師の女の子とのおしゃべりを切り上げ帰路についた僕は、自室のあるアパートの外階段を上っていた。二階建ての建物の二階、一番奥が僕の部屋だ。

 部屋に入り、鮭とばの入った袋をちゃぶ台の上に放り出すと、さっさと部屋着に着替えて夕飯の支度をする。

 作りおきの焼きそばを温め、麦茶と一緒にちゃぶ台に出したら準備完了。野菜多めの焼きそばなので、栄養バランスはそれでよしとすることにしている。

 

「それにしても、なんだったんだろう……」


 不意にさっきの女の子の姿が脳裏をよぎり、思わずつぶやいた。

 あんな時間にあんなことをしていて、ご両親は何も言わないんだろうか。

 かといって不良っていうような感じではないし……やっぱりちょっと変わってる子なのかもしれない。魔法、とか言ってたし。

 

「魔法、ねぇ……」


 そういえば、「30歳まで童貞を貫くと魔法使いになれる!」なんていう常套句があったっけ。それで本当に魔法使いになれるんだったら多分世界中で童貞が激増すると思う。

 それくらい30歳童貞なんてあり得ない存在って話なんだろうけど、僕としてはそれほどおかしいことだとも恥ずかしいことだとも思わない。

 仮に、一緒にいたいとか抱きしめたいと思える相手に出会って、その恋が実らなかったとしよう。がっかりするのはもっともだけど、自分を卑下したりする必要はまったくない。

 誰かがピーマンよりにんじんが好きだと言ったら、にんじんはピーマンより偉くなるだろうか。もちろんそんなことはない。人の好き嫌いだって同じことだ。

 むしろその好き嫌いが噛み合うのはほとんど奇跡によるもので、世の中の愛の大多数は妥協で薄めてできている。「顔可愛いしいっか」、「金稼ぎそうだしいっか」、「優しそうだしいっか」。元々好きじゃなくても愛は当たり前に成り立つ。

 そんな妥協をしてでも相手が欲しいと思う人もいれば、そうでない人もいる。

 僕は後者だけど、自分と違う価値観を持つ誰かと比較したりなんかしない。

 奇跡に出会えた人には、妬み嫉むのではなく「おめでとう」。

 とにかく相手が欲しい人の必死さは、馬鹿にせず「頑張れ」。

 仮に相手が挑発してこようと、自分がこのスタンスを崩さなければ問題ない。わざわざ相手の価値観という土俵に上がる必要なんてないのだ。


「相変わらずまずい……」


 僕は焼きそばをつついていた箸を置いてため息をついた。

 料理は下手だ。なぜか調理しているときと食卓に出したときで味の感じ方が違う。

 ……もし本当に魔法が使えるようになったら、この焼きそばもおいしくできたりするのかな?

 僕は自分の考えの安直さに苦笑しつつ、人差し指を一本立てて焼きそばに向けた。

 

「おいしくなーれ……」

「――萌え萌えキュン?」


 僕の呪文に続くように、女の子の声がした。

 心臓が飛び出しそうになりながら顔を上げると、ほんの少し空いた正面の窓の隙間から女の子の顔がのぞいていた。

 

「ひぃっ!?」


 闇夜に浮かぶ色白な女性の顔は、油断している人間にはちょっとしたホラーだった。

 一瞬思わず後ずさりしかけてから、その笑顔に見覚えがあることに気づく。

 

「……って、さっきの?」

「こんばんはー」

「こんばんは……」


 こんな状況でも律儀にあいさつしてしまう素直な息子に育てた両親がにくい。


「どうしたの……っていうか、なんでそんなところに?」


 窓の向こうは狭いベランダになっているものの、この部屋は二階にあるわけなので下からよじ登ってこないとそこにはたどりつけない。

 

「びっくりさせようと思いまして」

「普通に正面から会いに来たとしてもびっくりはしたと思うけど」


 いきなりどうしたとか、こんな時間まで出歩いて大丈夫なのかとか、なんで家を知ってるのかとか、僕なんかになんの用かとか。

 とにかく現状はどこからツッコミを入れたらいいのかわからなすぎて、びっくりの過剰供給状態だ。

 

「やるなら何事も全力で、をモットーに生きておりますので」

「いつか大怪我すると思うよ、物理的にも社会的にも」

「治療も社会復帰も全力です」

「……それなら、まあ……いいのかな」


 年下相手に押し負けてしまった。単にどうでもよかっただけとも言う。

 

「お邪魔してもいいですか?」

「別にいいけど……一応僕一人暮らしの男だよ?」


 僕が言うと、女の子は目をパチクリさせてこちらを見つめた。

 

「ほほう、私で童貞卒業する気なんですか?」

「…………」


 あまりにあけすけな物言いに、僕は思わず黙り込んでしまった。

 女の子は笑いながらパタパタと手を振った。

 

「あはは、そんなひどいことする人が今の今まで童貞、なんて絶対ありえないじゃないですか。お邪魔しまーす」


 そのまま窓の隙間を広げて室内に滑り込んでくる。

 遠回しに意気地なしとかそういうことを言われてるような気がする。

 僕は肩をすくめて笑った。

 

「わかんないよ? 僕が今まで出会った女の子とは段違いの魅力を君に感じて、今回ばかりは強引にでも関係を持ちたいって思うかもしれない」


 女の子も微笑をたたえながら、ちゃぶ台を挟んで僕の正面に正座した。

 

「もし本当にそうなら」


 真面目な声でつぶやいて僕をまっすぐに見つめる。

 

「別にいいですよ、私は」

「……は?」


 僕は言っている意味がよくわからず、間抜けに口を開けて聞き返した。

 

「いいですよ。そんなに襲いたければどうぞ」

「……からかってる?」

「いえ、まったく。ここ数年で一番真面目ですよ。高校受験のときより1.2倍くらい真面目です」


 爽やかに親指を立てられても、高校受験のときの真面目度合いがわからない上に1.2倍とかいう微妙すぎる数字のせいでからかわれてるのかどうか結局よくわからない。

 

「君は……その……」

「処女ですよ」

「へ?」


 僕はまたしても変な声を出してしまう。この調子だと、このまま間抜けな「は行」のリアクションをコンプリートできるかもしれない。

 

「なので、ふざけているわけでも、そういう行為を軽く見ているわけでもありませんよ」

「じゃあ、なんで……」


 あまりに深い困惑に眉根を寄せながら尋ねる。女の子は含みのある笑いを浮かべながら応じた。

 

「そこはまあ、私の価値観の問題ですね」

「というと?」


 腕を組み、街頭インタビューで政治を語るおじさんのように難しい顔を作る女の子。


「世の中、なぜか見た目より中身の方が大事って風潮じゃないですか。外見だって、中身と同じくらいちゃんと私なのに。似合う髪型考えて、可愛く見える服を選んで、制服だって先生に怒られるギリギリを見極めながら着こなしてるんです。私が認めてほしい、好きになってほしい『私らしさ』に、外見と内面の優劣はないんですよ」


 淀みなく、立て板に水を流すように持論を展開する女の子。

 

「だから、昨日彼女と別れたばかりの人に性格を軽く褒められるよりは、30年間童貞を貫いてきた人に『今まで見た誰よりも可愛い』って言われた方が私は嬉しいんです。もちろん男子にモテたくて見た目気にしてるわけじゃないですよ? 私はあくまで私にとっての『可愛い』を追求してるだけです。でもその結果として褒められるのは、相手の性別を問わずやっぱり嬉しいですから」

「……嬉しいっていってもそれだけで体を許すほどじゃないでしょ?」

「もちろんです。だから、あなたとそういうことをしてもいいと言ってるわけじゃありません。あなたが襲ってきたとしても許しますというだけです」


 笑みを浮かべ、何か考え込むようにあごに指を当てる。


「例えば、私の作った、大切な人に送るはずの世界で一つの高級プリンを誰かが盗んだとしましょう。小腹がすいたプリン好き程度が犯人なら探し出して殺します。私が死んだあと地獄でもう一度殺します」

「それ君も地獄に落ちてることになるけど……」

「二度殺すためなら自分が地獄に落ちることも辞さないです」


 それは、なんというか……すさまじい。


「でも30年間一度もプリンを食べたことがない人が、このプリンだけは食べたい、と思って盗んだなら『私のプリンにそこまでの価値を見出してくれたのならしょうがない。恵んであげたことにしよう』、くらいには思えるということですね」


 なんでプリンに例えた。おかげでわかりやすくなった気はするけど。

 

「ちなみに私はプリンより牛乳ゼリー派です」


 なんで! プリンに! 例えた!! 普通に好きなもので例えればいいのに……。


「あ、普通の女の子なら30歳童貞に無理やり処女奪われるとか自殺ものですから、そこは勘違いしちゃ駄目ですよ? 私が特別なだけですから」

「わかってるよ……」


 そんなこと言われるまでもない。30歳童貞じゃなくても死ぬほどいやだろう。


「わかってるならいいです。こんなに寛容な女の子、私以外にはいませんからね」


 女の子はなぜか満足気に言ってうなずいた。

 なんというか、よくわからない女の子だ。

 

「…………」


 多分、「見た目も大事」っていうのは本音なんだと思う。それを強調するために少し過激な表現をしてみた、と。僕ならちょっとくらい挑発しても大丈夫だと思って。

 なめられていたとしても腹を立てたりはしない。でもあんな時間に独りで占い師ごっこをしていたことといい、この態度といい、何かの理由で自暴自棄になってしまっているのではないかと心配にはなる。

 

「一つだけ言わせてもらってもいい?」

「なんですか? ブラの外し方を教えてほしいとか?」


 僕は女の子の軽口を受け流して続ける。

 

「どんな意図があったにしても、やっぱり『襲われてもいい』はまずいと思う」

「……そうですか?」


 急に真面目くさって言う僕を不思議がるように、まばたきを繰り返す女の子。 


「世の中には相手の言葉の真意をちゃんと考えようとしない人がごまんといる。今回は僕がたまたま本物の意気地なしだったからいいけど、君が相手の危なさを見誤る可能性だって十分ある。というより、君みたいな女の子にあんなこと言われて少しもその気にならない僕の方が特殊だと思う」


 我ながら、多少の妄想くらいはした方が生き物としてはむしろ健全なのではないかと思う。でもそれより先に心配の方がきてしまうんだからしょうがない。


「外見も大事っていうのはわかるよ。君が言った通り外見も内面も、同じくらい大事だ。でもそれは外見の方が大切ってことではないんだよね?」

「それは……そうですね」

「それなら、君の外見と内面の両方に……それこそ30年分くらいの思いを注いでくれる人を探すべきだと思う。自分の体も心ももっと大事にした方が後悔がないんじゃないかな。もちろん君の方から好きになったんならどんな相手でもいいと思うけど」


 僕が言いたいことを言い終えて黙ると、そのまま無言で見つめ合うような形になる。十秒ほどそんな状態が続いたあとで、女の子はゆるく目尻を下げた。

 

「――ふふっ」


 そして、口元を押さえて小さく笑った。

 それは、これまでのどこか僕の反応を楽しむ笑みとは少し違う気がした。具体的にどこがと言われても困るんだけど、初めて心底から感情を出した顔に見えた。


「そうですそうです。あなたは特殊な――特別な人です。あなたがそういう人だと思ったから、私は今ここにいるんです」

「……どういう意味?」


 この流れだと説教臭いやつだから、と言ってるようにしか聞こえない。

 

「それはですね――」


 女の子が応えようとしたそのとき、ふいに玄関のチャイムが鳴った。

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