千夜の晩餐

第四節 精霊はランプの虜囚を望まない

「宝石とな？」

　中には例外もいるだろうが、宝飾品を好まぬ女子は稀であろう。

　そしてシェヘラザードも人並み程度には宝石が好きである。

　だが、それがここで何の意味があるのか？

　突拍子も無いことばかりする男だったが、その言葉はとりわけ頭に残る台詞だった。

「嫌いか？」

「い、いや嫌いではないが……」

「それはよかった」

　ニッコリと笑うジンだが、次の瞬間、周囲の表情が凍りつく。

　ジンの手に、いつのまにか鋭い刃物が握られていたからだ。

「お、おい、その刃物どこから出した!?」

「陛下!　おさがりください!!」

　たちまち護衛官が駆け寄ろうとするが、そんな彼らに男がくるりと振り向く。

　その瞬間、男の視線が彼らの心臓を貫いた。

「鬱陶しいぞ、お前ら。　俺の邪魔をするな」

「……ひっ!?　なんと恐ろしい目じゃ!?」

「こ、殺されるかと思った！」

　侍従たちはヘナヘナとその場に座り込み、だが、かろうじて床を汚すことだけは避けることに成功する。

「悪いようにしはないから、黙って見ているがいい」

　とても黙っていられる状況ではなかったが、この距離では彼らが何をするよりも男が女王を害するほうが早いだろう。

　だが、そんな周囲の状況が目に入らないといわんばかりに、今度はジンの逆の手から透き通ったガラスの器が現われた。

　いったいこんなものをどこからどうやって取り出したのか？

　奇術師で無いというなら、魔術師でしかありえない現象である。

「ほほぅ、玻璃（ガラス）か。　美しい器じゃな」

　周囲がすっかり怯えるなか、女王だけはまったく動じない。

　そして彼女は、男が手にした器に好奇心に満ちた視線を送った。

　このような滑らかで透明な器……あるとすれば国の宝物庫ぐらいなのだが、ジンの扱いはずいぶんと手荒い。

　割れるのが恐ろしくないのだろうかと、近くで見ていた近習や侍女は別の意味でも震え上がった。

「そしてお次はこいつだ」

　料理を載せる台の上に器を置くと、今度は大きな氷の塊がジンの手の上に現われる。

「ジン、その氷はどこから出した？」

　さすがシェヘラザードも、この光景を見ては声を上げずにはいられなかった。

　氷とは、高度な錬金術（アル・キミヤ）を駆使するか、術理を極めた魔術師（マギ）に頼むほかは、恐ろしく高い山の頂上から取ってくるしかない高級品である。

　しかもあっという間に溶けて水となるので、王宮でもわずかな量を氷室で管理しているに過ぎない。

　この男、本当に精霊（ジン）なのではないだろうか？

「悪いが企業秘密だ」

　器用に片目をつむって追求をかわすと、ジンはシャリシャリと音をたてて氷を薄く削り始めた。

　いとも簡単そうにやって見せるが、相当な修練が必要な手業である。

　なれない者がやっても、せいぜい氷を砕いてしまうのが関の山だ。

　そして雪のように細かくなった氷を器に盛り付けると、今度は真っ赤な液体の入った瓶を取り出した。

「そ、それはまさか血か!?」

「まさか。　石榴（ざくろ）の汁と蜂蜜を混ぜて煮詰めて作った……グレナデンシロップってやつだな」

　その答えに、周囲の者が胸をなでおろす。

　なにせこの容貌であるうえに、精霊（ジン）と名をもつ男である。

　彼らの信じる宗教にとってタブーである血を使った料理を持ち出してきても不思議ではない。

「さて、仕上げだ。　ちょいと拝借するぞ？」

　ジンは真っ赤なそれを巻貝のような形に整えると、手近なところに活けられていたピンクの薔薇の花を拝借し、その花びらを氷の上に飾りつけた。

　すると氷菓を盛った器から、甘酸っぱい石榴の香りと高貴で優美なバラの香りが、渾然一体となって漂い始める。

　この国では、バラもまた慣れ親しんだ食材だ。

「なんとも美しいな……」

　シェヘラザードの口から、思わず感嘆のため息が漏れた。

　――宝石はお好きだろうか？

　男の言葉の意味がようやくわかる。

　透明で深い赤をもつそれは、まるでルビーで出来た細工物のように美しかった。

　これが目の前の無骨な男の手から生まれたなど、その場で見ていなければ誰が信じるだろうか？

　夢の世界から持ち帰ったといわれても、誰もが納得するに違いない。

　あまりの美しさに、女王のみならず女官たちの口からもため息が漏れる。

　そんな彼女たちを視界に治めつつ、ジンはこんな言葉をつむぎ出した。

「女性の胃というものは、とても罪深い代物でね。

　甘いものを見ると本能的に動き、隙間を作るように出来ているんだ」

　――これは何の魔術であろうか？

　その言葉通り、このあでやかな氷菓を見た瞬間、女王の体の中で何かがぎゅるぎゅると動いて、同時にわずかながら空腹感が生まれてきた。

「だから俺の故郷には『甘いものは別腹』という格言があってね」

　そう言いながら、ジンは女王に出来たばかりの氷菓を差し出す。

　まるで本当に婚礼の申し込みをしているようだ……女王の前にひざまずいて贈り物を捧げるジンの姿は、周囲の目にはそんなふうに映っているのだが、知らぬは本人ばかりなり。

「満腹の貴方でも、これならば満足するだろう。

　石榴（ざくろ）の削り氷（シャルバート）だ。　溶けてしまわぬうちにご賞味あれ」

「……見事である」

　嘘で取り繕うにも、神に立てた誓いの前に虚偽は通じない。

　女王はなんともいえない笑みを浮かべると、その宝石のような食べ物を手にし、匙ですくって口をつけた。

「甘美じゃ……」

　何かにたとえようにも、美味すぎてそんな言葉しか出てこない。

　甘く、酸っぱく、香り高くて、冷たくて綺麗だが、口の中に入れてしまうと淡く香りを残して消えてしまう。

　そして美しさと満足感でシェヘラザードの心を魅了するのだ。

　暗殺者や悪しき呪術師の使う毒であれば、神から代々の王に与えられた加護によって打ち消すことが出来るのだが、心に染みる献身はそうもゆかない。

　おのれ精霊（ジン）め、このような毒を食わせおってからに。

　覚悟は出来ておろうな。

　思い知るがいい……恋とは暴虐に等しい感情なのじゃ。

「ジンよ、大儀であった。　我は満足である」

「それはよかった」

　食べ終わったシェヘラザードがニッコリと微笑むと、ジンもまた笑顔を浮かべる。

　だが、続けて女王の口から飛び出た言葉に、ジンは心の底から震え上がることとなったのである。

「では、猛々しくも高邁なる獅子の精霊（アサド・ジン）よ。　神に誓った言葉において尋ねなければなるまい。

　わが夫となって末永くこの国のために尽くしてくれるか？」