千夜の晩餐

卯堂 成隆

プロローグ 黄昏よ、魅惑的な黄昏よ、きたれ

 地中海に浮かぶ豪華な客船。

 その一室で、一人の男が鼻歌を歌いながら鍋の様子を見ていた。

 それも、見上げるような大男である。


 がっしりとした体格に、動くたびに盛り上がって服が悲鳴を上げそうになるほどの筋肉。

 そして長く伸びて逆立った黒い癖っ毛と顎鬚があいまって、人が見れば、まるで獅子が二本の足で立っているような印象を受けるだろう。

 不用意に視線が合えば大の大人ですら失禁しそうな目つきだが、笑うとどこか愛嬌のある……なんとも味のある顔立ちの男だ。

 顔立ちはやや彫が深く、目を引くのは大きな鼻。 まるで中東の人種のようだが、どこかあっさりとした極東の血を思い出させる雰囲気がある。


 男は真剣な表情で鍋を観察していたが、ふと思い立ったようにレードルを手にとってスープを僅かに掬った。

 そしてスープの味を見て、にんまりと笑う。


「よし、今日のコンソメは最高の出来だ!」

 男が日本語でそう叫んだ瞬間であった。

 ズンっと衝撃にも似た大きな音が響き、ぐらりと世界が揺れた。

 続いて、外から銃撃戦らしき音が聞こえはじめる。


「あぁっ、くそっ、こんな時に」

 男は不満げにそう呟くと、寸胴鍋のふたを閉めて安全な場所に固定する。

 そして一息ついた途端、部屋のドアが乱暴に開け放たれた。

 

「おいおい、人の唯一の趣味を邪魔しないでくれないか?」

 男が振り向くと、ドアから現れたのは銃を手にしたサングラスの男。

 そのガラの悪い闖入者は、部屋にいた獅子男の頭から足の先までを品定めするかのような目でなぞった後、にやりと口元をゆがめた。


「お前がライオンキングか。 なるほど、この船で行われている闇格闘技の王者にふさわしい面構えだな」

「その名で呼ばないでくれないか? 俺には、じんというちゃんとした名前がある」

 だが、その闖入者は仁の言葉が聞こえないような素振りで銃を構えた。


「一緒に来てもらおう」

「断るといったら?」

 その瞬間、闖入者は引き金を引いた。

 だが、それよりも早く仁は横に動いてその銃弾をかわした。


「化け物め!」

「お前の狙いが単純すぎるんだ。 銃を撃たれた後でかわすことは出来なくても、どこを撃つかあらかじめわかっていれば、狙いをそらす事はできる」

 闖入者は再び引き金を引こうとしたが、それよりも早く仁の蹴りが奴の鳩尾をえぐる。


「ぐぇぇっ……」

 仁の蹴りを受けた闖入者は、体を句の字に折って地面に倒れた。

 そして倒れた男を見下ろしながら、仁は頭をボリボリと掻いてボソリと呟く。


「まずいな……ここまで敵対勢力の人間が入り込むなんて、こりゃたぶん大事だぞ」

 おそらく、相手はどこかの犯罪組織……この船の持ち主にして仁の飼い主とも言うべき人物の敵対組織だろう。

 だとしたら、ここにいては不味い。

 先ほどの爆発で船に致命的な穴が開いていたら、船ごと心中することになりかねないからだ。


 だが、仁が部屋から出ると、すでに事態は最悪の結末を迎えていたことを知る事になった。

 ……防火シャッターが下りていたのだ。

 そこはこの部屋のあるエリアから外に出るための唯一の通路であり、もはや逃げ延びる術は無い。

 これは万が一にも仁が反逆した時のための備えであった。


「は、ははは……いつかリングの上で死ぬのは覚悟していたが、まさかこんなことで死ぬとはな。

 自業自得とはいえ、こんな船の中に15年以上も閉じ込められて、人を殴り続けた挙句がこれか。

 実に無様だ。 いや、あんがい俺にはお似合いの最後なのかもしれんな」

 仁がそう呟くなり、再び船が揺れた。

 そして電源が落ちたらしく、周囲の明かりが消え去る。


 そのままどれぐらい時間が過ぎただろうか?

 おそらく周囲の酸素が尽きたのだろう。

 いつしか仁は意識を失っていた。


 だが……。

 彼は死ななかった。

 なぜだかはわからない。

 気がつくと、彼は明るい場所にいた。


 いったいここはどこだろう?

 尋ねようにも、誰もいない。

 周囲はただ風と砂があるばかりである。


「ジンよ、アサド・ジンよ」

「……誰だ、俺の名を呼ぶのは」

 突如として聞こえてきた声に、男はハッとして身構えた。


「私は天使シヴリール。 貴方をここに呼んだものです」

「天使?」

「いきなり信じるのも酷だと思いますが、ここは貴方のいた世界ではありません。

 とても大切な用があって、地球の神から死んだはずの貴方を借り受けました」

「そうか俺は……死んだのか」

 そして男はようやく自分が死んだことを、そしてその死に様を思い出した。

 異世界にいるという実感は無かったが、自分が生きているというならば、本当にそう言うことかもしれない。


「もし貴方が私たちの願いをかなえてくれるなら、貴方を死ななかったことにして日本に返してあげることが出来ます」

 シヴリールの言葉に、男はハッと目を開いた。


「可能なのか? そんなことが」

「簡単なことではありませんが、不可能ではありません。

 ゆえに、貴方と取引がしたいのです。

 実は今、私たちには大きな悩みが一つありましてね」

「聞かせてもらおう」

 つまり、男の願いをかなえたいなら、天使の願いも叶えろということだ。

 無条件にそんな提案を出されたら疑ったかもしれないが、そう言う話なら少しは信用できる。


「……実は、この世界に存在する、とある国の国王が亡くなったばかりでしてね。

 そのあとを継ぐ者が一人しかいないのです」

「それはお気の毒だな。 だが、その流れだと俺に出来ることはなさそうだが?」

 あいにくと、男は生前も今も政治に興味が無いタイプの人間だった。

 彼に出来るのは、人を効率よく壊すことと、趣味で憶えた料理ぐらいである。


「問題は、その後継者である女王シェヘラザードにあるのです。

 彼女は世継ぎを作るために王配となる男性を迎えなければならないのですが、実は大変な男嫌いでして……」

「おいおい、それこそ俺に何をしろというんだ? 見てのとおり、あまりモテるほうじゃないぞ」

 男の顔は不細工とは言いがたいが、どちらかといえば厳つくて近寄りがたいほうであった。

 特に目じりの上がり気味な三白眼はその辺のチンピラよりはるかに威圧感がある。


「人に愛される資質とは外見だけではありませんよ。

 実は貴方のことを憎からず思っている方は何人もいたのですから」

「本当か? 俄かには信じがたいな」

 口ではそんな風に言いながらも、まったく予想外の答えに男は思わず顔を赤らめて僅かにうろたえた。


「天使は嘘を言いません。

 そしてここからが大切なことなのですが、男嫌いな女王シェヘラザードは、王配となるものに一つの条件をつけたのです」

 そこで天使は言葉を区切る。


「彼女のために自ら料理を作り、彼女を満足させること。

 ただし、彼女を満足させることが出来なかった者は、その場で死刑を言い渡されます」

「……狂ってるな」

 料理とは人を楽しませるための代物であり、そんな血生臭いものであってはならない――それが男の持論だった。


「ここまで言えばもうお分かりですね?」

「まさか、俺にその女王を満足させる料理を作れというのか!?」

「そのとおりです」

 とんでもない申し出に、男は顔をしかめた。

 無理も無い。 ただでさえ王族への料理など手に余るし、しかも気に入られなければ殺されてしまうのである。


「冗談はよしてくれないか。

 たしかに俺は料理が好きだ。 だがプロではない。

 自分の楽しみとして憶えた代物だから、人に食わせて上手いかどうか聞いた事すら無い代物だぞ。

 女王の舌を満足させるような料理は、どうかんがえても無理ではないか?」

「それは重々承知の上です。

 まぁ、あなたの料理人としての技量は、貴方が思っているよりもずっと上なのですけどね。

 ですが、技術だけの問題ではないのですよ。

 彼女を満足させることが出来るのは、貴方だけなのです。

 お願いできませんか?」

 どうやら天使の方は男の料理の腕前を知っていて、それでなおこの男でなくては駄目だというのだ。


「断ったらどうなるんだ?」

「この国が二つに割れ、大きな争いとなるでしょう」

「そして多くの民が死ぬって事か」

 その有様を想像したのか、男の眉間に深い皺が刻まれる。


「わかった。 一度は死んだ身だ。

 もう一度生きるチャンスをもらえただけありがたいと思うことにしよう」

「ありがとうございます、ジン。

 では、貴方のために私からいくつか贈り物をさせていただきましょう」

 シヴリールがそう告げると、目の前に古ぼけた扉が現われた。

 その扉は壁も支えもないのに倒れることも無く、まるで空中に張り付いているように見える。


「これは……何だ?」

「これは、貴方のために作られた厨房へと続く扉です。

 さぁ、開けてごらんなさい」

 言われるままに扉を押し開けると、そこには極めて近代的なキッチンがあるではないか。

 しかも、大きな業務用の冷蔵庫を開ければ、そこには山海の珍味がぎっしりと詰まっている。


「ここには、貴方が必要とする食材と機材が尽きることなく用意されています。

 そして、貴方がここに入りたいと思うなら、この扉はどこにでも現われるでしょう。

 さらに、この中に用意されたものについては、扉を介せずに取り出すことも可能です。

 ただし、この空間には貴方と貴方が許した者以外の何人たりともはいる事はできません」

 その言葉に、男は震えた。

 ――料理好きにとって、これは天国のような場所ではないか!


「ありがたい。

 遠慮なく使わせてもらおう」

「ただ、いくつか注意しなければならないことがあります」

 思いもよらぬ恩恵に笑顔を見せた男に対し、天使はこう告げた。


「わが主である神は、人の子の食事にいくつかの制限を与えました。

 病死や自然死した獣の肉、血、そして邪教の神に捧げられたものを口にしてはなりません。

 さらに肉については、屠殺したときに神の名によって清められたもの意外は口にすると魂が穢れます」

「つまり、肉に関しては気をつけろと?」

 宗教の縛りの少ない日本で生まれ、外界から遮断された船の中で育った男にとって、これはとても面倒なことである。


「その空間の中にある食材はすでに清められているので結構ですが、外から持ち込んだ食べ物については気をつけなさいということです」

「わかった。 では、さっそく女王様のための料理を考えてみたいのだが……」

 しかし、男はすぐに取り掛かろうとはしない。

 その前にやるべきことがあるのだ。


「えぇ、その前に知りたいのでしょう?

 女王がなぜこんなことを言い出したのかを」

 天使の言葉に、男は大きく頷く。


「俺の知り合いの言葉だが――どんなふざけた振る舞いをする者にも、それなりの理由があってそのように振舞うものだ。 同じように、どれほど不条理な事があったとしても、そのすべてに原因が存在するのだ……と」

「よろしいでしょう。 貴方にはその資格と権利があります。

 ただ、私が話せるのは事の発端まで。 女王の試練を乗り越える方法についてまではお話しできません」

 そう前置きをして、天使は語りだした。

 一人の女王の、その胸の内の物語を。


 そして、この先に続くのは、報われぬ恋に身を焦がす女王と異邦の料理人の物語である。


 さぁ黄昏よ、魅惑的な黄昏よ、きたれ。

 千の夜アルフ・ライラの物語を始めるために。

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