第19話 大友琴音

 リビングからキッチンへと繋がる、開け放たれた扉の向こう側に明日香が立って居た。

 大きく目を見開き、呆然と立ち尽くした足元には、白いトートバッグが落ちている。


「……え?」


 その光景を目の当たりにした僕の口から出たのは、何とも間の抜けた言葉だけ。

 突然、いろんな事が起こり過ぎて、脳も心も処理が追いつかない。


 どうしてこんな所に明日香が居るのだろう。

 ここは……僕の家なのに。

 まだ朝ご飯を終えたばかりで、川村家だけで寛ぐ時間であって……あれ? でも、リナさんも琴姉ちゃんも厳密に言えば川村家――家族とは違う。

 だけど、リナさんとはキスをして、僕の事を好きでいてくれて、娘がいて……違うっ! 僕は結婚なんてしていないし、目の前に居る明日香の事が好きなんだ。


「……明日……香?」


 処理速度の落ちた頭で、目の前に居る明日香が本物かどうかを尋ねるかのような言葉を、やっとの事で絞りだした。

 すると、止まっていた時間が動きだしたかのように、明日香が慌てだす。


「優斗……ご、ごめんね。私、本当に二人の邪魔をしちゃってたんだね」

「明日香?」

「ごめん」


 明日香が呟くように言葉を吐いたかと思うと、踵を返して僕から遠ざかって行く。


「待って! 明日香っ!」


 明日香の背中を追いかけようとした所で、僕の左腕に絡みつくかのように、リナさんが抱きついてきた。


「優ちゃん。何で、あの子を追いかけようとするん? ただの幼馴染みなんやろ?」


 違う。ただの幼馴染みなんかじゃない!

 明日香は僕が小学生の頃から好きな女の子で、明日香の傍に居られるようと努力して、これから明日香ともっとお近づきになるために、なけなしの勇気を出そうとしていたんだ!

 リナさんの言葉に応えようと、瞬時に頭の中で僕の明日香への想いが文字になったけれど、


「パパー! だっこー!」


 ミウちゃんが右足に抱きついて来た事で、発せずに終わってしまう。

 もしも僕がリナさんの腕を強引に払って走りだしていたら、今頃ミウちゃんは……と、嫌な妄想が頭に浮かんでしまい、僕の身体が固まってしまった。

 昨日はトラウマが改善に進みそうだと思っていたのだけれど、今の僕ではダメみたいだ。

 こんなに幼い女の子に抱きつかれただけで足がすくみ、明日香を追いかける事が出来なくなってしまっている。

 それでも明日香を追わなければ、足を前に出さなくてはと考えていると、


「おはよ……。優君、褒めて。今日は自分で起きた。ミウちゃんといっぱい遊ぶために」


 既に居なくなってしまった明日香の代わりに、下着姿の琴姉ちゃんが現れる。


「……優君。朝から仲が良いね。でも……それは、何をしているの?」


 僕の左腕にリナさんが、右足にはミウちゃんがしがみついた状態で、右腕だけをリビングに向けて伸ばし、キッチンで立ちすくむ。

 琴姉ちゃんの言う通り、僕は一体何をしているのだろう。

 明日香の事が好きなのにリナさんにキスされて、しかもその様子を見られたのに弁解も出来ていなくて。


「パパー?」

「優ちゃん?」

「優君?」


 いろんな事が頭の中で混ざっていき、僕はそのまま意識を失ってしまった。


……


 目を覚ますと、見覚えのある天井が視界に映る。

 どうやら、僕は自分のベッドに寝かされていたらしい。


「明日香……行かなきゃ」


 どれくらい気を失っていたのだろうか。早く、明日香と話をしなくては。

 そう思って起き上がろうとしたところで、琴姉ちゃんの声が届く。


「優君、大丈夫? 立ったまま気を失うなんて、どうしたの?」

「琴姉ちゃん。ごめん、後で必ず説明するから」


 琴姉ちゃんの問いに答えず、起き上がろうとしたけれど、


「ダメ……。暫く安静にして」


 細い腕にしては強い力で抑えつけられ、ベッドに戻されてしまう。


「琴姉ちゃん。僕は、いかなきゃならないんだっ!」

「落ち着いて。突然失神したのだから、安静にしていないとダメ」

「大丈夫だから。お願い! 琴姉ちゃん!」


 再び立ち上がろうと試みたけれど、再び抑えつけられ、


「……ダメ」


 強い拒絶と共に、何かを口に捻じ込まれる。

 その後、どこから取り出したのか、流れるような手つきで小さなペットボトルの液体と共に、何かを飲み込んでしまう。


「琴姉ちゃん!? これは……」

「大丈夫。ただのサプリメント……」


 何故、唐突にサプリを飲まされたのかは分からない。

 だけど、薬学部門の博士である琴姉ちゃんが変な物を飲ませるはずはないだろう。

 そんな事を考えていると、とにかく明日香に会わなくては……という気持ちが不思議と薄れてきた。


「落ち着いた? ねぇ、優君。突然気を失うなんて、一体どうしたの? よくある事なの?」

「よくある訳ではないけど、昨日もあったかな」

「昨日? それは何かをしていた時? それとも何か気を失う原因となるような事が起こったの?」

「あぁ、それは……」


 僕は琴姉ちゃんに自身のトラウマの事と、ミウちゃんに抱きつかれただけで気を失ってしまった事を説明する。

 自分のトラウマについて話しているというのに、まるで昨日の天気でも話すかのように、僕は落ち着いていた。


「なるほど……。今はミウちゃんが牛乳を派手にこぼして、リナさんと一緒にお風呂へ行っている。タイミングが良かったかも。ゆっくり休んで」

「うん……」


 どういう訳か頭がスッキリしていて、琴姉ちゃんの言葉がスッと入ってくる。

 僕は素直に従い、静かに目を閉じたけど、眠る前に琴姉ちゃんへ質問を投げかけた。


「琴姉ちゃん。どうやって僕をここまで運んできたの?」

「……リナさんが運んでくれた。大丈夫……お休みなさい」


 その言葉を聞いて、「そっか」と頷き、


「……片手で優君を運んでいたのは、信じられないけどね……」


 琴姉ちゃんの言葉を聞きながらも、重くなった瞼の重さに堪えられず、僕は瞳を閉じたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る