ヒサゴの想い

 廊下へ出たヒサゴはすぐさま階段の方へと走る。だが、闇雲に逃げ回ったところで直ぐに追い詰められるのがオチだ。

 内部へ侵入できたとは言え、施錠されている部屋は多い。常に開いている教室は限られているのである。


(隠れられそうな場所と言えば……あそこか……)


 ヒサゴが目指したのは四階であった。

 途中、階段近くの柱に消火器が置かれているのを目にする。走りながらそれを手にすると栓を抜き、レバーを握った。

 勢いよく真っ白な消火剤が噴き出す。

 消火器の性質上、一度、消火剤の噴射が始まってしまえば止まる事はない。あとはそのまま勢いに任せて白い消火剤を撒き散らさせ、少しでも追っ手の邪魔になってくれれば良いとばかりにヒサゴは消火器を階段下へと放り投げた。


「あとはあそこまで気づかれずに辿り着けるか……?」


 階段を上がった上層階にも一階と同様に消火器が置かれている。

 しかし、同じ手を行く先々で使うわけには行かない。相手に逃げた先を教えているようなものだ。


 息を切らせながらヒサゴが辿り着いたのは、かつて昼休みに圭太と注連縄を外そうとやって来た空き教室だ。

 ここは教師たちも管理がずさんなために、殆ど施錠されている事はない。それでも内側からロックを掛けられる分、身を潜めるには恰好の場所だ。


 ヒサゴは空き教室内部へと滑り込むなりドアを閉めると両膝をついた。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 ずっとここまで圭太を担いで全力で駆けて来たため、息が苦しい。心臓も悲鳴をあげていた。


(ったく……。人間の体って、こんなに欠点だらけなの……?)


 怪我をすれば痛むし、無理をして体に負担をかければ苦しくなる。少し前まで肉体そのものを持たなかった神であるヒサゴには理解し難い事であった。


 ヒサゴは意識を失ってグッタリしている圭太の体を床に下ろすと、壁に寄りかからせた。

 幸い息はある。

 無理に注連縄を引き千切ろうとしたヒサゴを止めようとしたために圭太にまで電撃が走ってしまい、そのショックで一時的に意識を失ってしまったのだろう。

 そうまでして自分のために体を張ってくれた圭太をヒサゴは悲しげに見つめる。


「ごめん……」


 自然とその言葉が出た。

 以前、圭太は「人の行動心理は理屈じゃない」と言っていた。それが今でもヒサゴには、よく分からない。

 分からない……腑に落ちない……。けれど、不思議と心が温かくなった。きっと、これが人の世に言う「情」というものなのだろう。

 それが嬉しくもあり、同時に胸の辺りがチクリと痛む複雑な感覚……。

 人の一生よりも遙かに長い時間を形のない存在として過ごして来たヒサゴにとって、初めて抱いた感情であった。


「怒りに任せてあんたに仕返しをしようとして、変な事に巻き込んで……それでも必死にあたしを支えようとしてくれた……。どうしてなのか、あたしには今でも分かんないよ……。でも……ケータがいてくれて、あたし……心強かった……」


 目を開けようとしない圭太の顔を愛おしげに覗き込む。そして少しだけ開いている彼の唇に自分の唇を合わせた。


 その途端――


「え……?」


 サッと草が擦れるような音とともにヒサゴの首に巻かれていた注連縄が、床に投げ出された圭太の膝の上に落ちた。


「外れ……た……? どうして……」


 あれほど何をやっても外れる事の無かった注連縄はヒサゴが圭太とキスをしただけで、あっさりと……その効果を失ったのである。


 そしてヒサゴは「あ……」と思い出したように小さな声をあげた。

 伯乃姉がヒサゴに言っていたこと。ヒサゴにかけられた圭太の『神性封じ』は不完全だというものだ。

 本来であればヒサゴにかけられた『神性封じ』に込められた願望は「圭太と相思相愛のもとでエッチをする」という事で、それを実行できなければ戒めが解かれる事はないのである。しかし、その『神性封じ』が不完全という事は、つまり戒めを解く方法も「キスをする」という程度の不完全なもので良かったという事なのかもしれない。

 伯乃姉は何やら勿体つけたような言い方をして、明言は避けていたが、今にして思えば確証は無いものの、その可能性がある事を分かったうえで示唆していたのだろう。

 そうなると相思相愛であるかどうかも不完全な願いである以上は反映されるのか否かも分からず終いである。


「そっか……。でもね……ケータがどう思っていても、今のあたしの気持ちに嘘はないんだからね……」


 そう言って少しばかり頬を赤く染めながらヒサゴはもう一度、圭太に唇を合わせた。


 伯乃姉が「キミ自身が決意しなければならない」と最後に言い残した事も今ならば分かる。

 万が一、戒めを解く条件として、キス程度で構わなかったとしても、「相思相愛のもとで」という条件が生きていた場合、事前にその条件をヒサゴが知っていたら、却って身構えてしまっただろうし、そうなれば自分の心に素直になれなかったかもしれない。

 極限の状態で圭太が意識を失っている中、ようやくヒサゴは自分の想いに素直になれた。

 ひょっとしたら圭太の方には、ヒサゴに対してそんな感情は抱いていないかもしれない。それでも、ヒサゴが自分の想いに素直になれた事でその結果が実を結んだ……と捉える事もできるだろう。

 今となってはヒサゴにとって、どちらでも良かった。


 目を覚まさずにいる圭太をその場に座らせたまま、ヒサゴは静かに立ち上がった。


「ありがとう……ケータ……。あとはあたしが自分で何とかするから、ゆっくりそこで休んでて……」


 優しげな微笑みを浮かべ、そして彼に背を向ける。

 ヒサゴは空き教室に圭太を残し、単身、もと来た道を戻った。


(学校の中で暴れ回るわけにはいかない。決着は外でつける)


 決意を胸に階段を駆け下りるのだった。

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