襲いかかる泥

「そうよ? 悪神という不名誉極まりない立場に追いやられた事に関しては、確かに腹が立つ事もあったし、もとの神という資格を取り戻したいという思いもあるけど、今となってはそんな事よりも、あんたが欲しいのよ……三峯圭太」

「はぁ⁉」


 そんなバカな事があってたまるかとばかりに圭太は目を剥く。だが、それに対して大沼神は、これまでの人を食ったような態度と打って変わり真剣そのものであった。


「あんたがわたしの守護していた沼を消してしまった連中の子孫だって事は知ってたわ? でもね……そんなあんたが欲しくなったのよ。あんたと結ばれて、わたしの存在した証を残したいってね」


 結ばれて、存在した証を残したい。つまりそれは圭太との間に子が欲しいという事に他ならない。

 圭太にしてみれば信じ難い事だ。からかわれているんじゃないかとすら疑いたくなる。


 それでも大沼神の眼差しは明らかにヒサゴに向けられていたそれとは異なっていた。


「けれど、わたしの作り出せる泥の体じゃあ人との間に子を成す事はできない。だから人間の肉体を作り出せる力が必要だったのよ。神の座に返り咲くのは、そのついで」

「じ、冗談じゃねぇ! おまえがどんな目に遭って、オレの事をどう思ってようが、その為に他のヤツを平気で陥れようとか、殺してやろうなんて考えるヤツとまともに取り合えるかってんだ!」


 確かに自分の先祖のした事を考えれば大沼神には気の毒な事だと思う。同情の余地はあろう。けれど、他者から好意を持たれて、これほど気分が悪くなったのも初めてだ。


「テメェの言ってる事は全てテメェの理屈だけだ! そこに相手が無い。自分が満足できれば他のヤツは皆んな悲しもうが死のうがどうだって良いって考え方だ! そんなヤツの良いようにされてオレが『はい、わかりました』なんて納得すると思ってんのか! バカタレ!」


 だが、圭太にそこまで言われても大沼神はまるで悪びれる様子も見せない。それどころか、再びニィッと耳まで裂けんばかりに真っ赤な口を開いて化け物じみた笑みを見せた。


「別にあんたに納得してもらおうとは思ってないわよ? だって、土地神と水神の力を手に入れてさえしまえば人間の肉体を創り出す事はもちろん、あんたの記憶を改ざんする事だって造作もないんだから」

「くっ……!」


 それがあった。

 力のある神だからこそ可能なチートとも呼べる能力。

 いかに圭太が大沼神を否定していても、ヒサゴと出会ってからの記憶の一切を消され、大沼神をこれまで通りの玉井という女性と認識させられ、さらには玉井に好意を持つよう記憶を弄られてしまえば圭太にも抗いようがないのだ。


「まあ、いずれにしてもタカクラノヒサゴヒメ……ううん、水分ヒサゴちゃんには消えてもらうわぁ」


 大沼神は右手を天高く突き出す。

 多くの人々が沼のようになった地面に足を取られて身動きができなくなっている中、デッキの一部から、まるで巨大な間欠泉のように泥が噴き上がる。そして、その泥は形を変え、鋭利な刃物のような形を成した。


「土地神と同じように頭から真っ二つにしてあげる!」


 頭上にかざされた泥の刃を見上げ、どういうわけかヒサゴはそのまま身動きひとつしようとしていない。動けなくなっているのか、はたまた……。


「クソッ!」


 圭太は遮二無二、地を蹴った。

 大沼神の脇をすり抜け、今まさに振り下ろされようとしている泥の刃の真下を滑り込むようにくぐり抜け、ヒサゴの体を抱えて倒れ込む。


 間一髪のところであった。


 泥の刃は倒れ込んだ二人の足下スレスレのところに振り下ろされ、大きくデッキを叩き割っていた。


「メ、メチャクチャだ……」


 あと一歩でも遅れていたら間違いなく二人とも土地神の二の舞になっていたであろう。そう思うとゾッとする。


「ケ、ケータ……?」


 ヒサゴはようやく催眠術が解けたかの如く、自分の体にのしかかっている圭太に今になって気づいたような呆気に取られた顔をしていた。


「バカ! さっさと逃げるぞ!」

「え? あ、う、うん……」


 圭太はヒサゴの手を引いてエスカレーターを駆け下りる。後ろから「チッ」という大沼神の舌打ちが聞こえた。

 そしてデッキの上から逃げる圭太たちに向かって声を張り上げた。


「まったく……。バカなモブどもにウロチョロされても邪魔だから身動き取れなくしてるのに、お陰であんたたちの足止めにまで力を割けないわぁ! まあ、今さらどこへ逃げたって同じだろうけどぉ~」


 どうやら周囲の人々と同様に圭太たちの足下を沼地化させて足止めするという事ができないでいるようだ。


「あいつ……土地神の力を奪ったっていうのに、オレたちにまで力を割けないのか?」

「多分……まだ使いこなせてないんだと思う……。急に慣れない大きな力を手に入れたから、上手く制御できないのかも……」

「そういう事か……」


 しかし、だからと言って対抗手段が無い以上は逃げるより他にない。


(チクショウ……) 


 土地神の時と言い、何だか逃げてばかりだと思った。

 それに今度ばかりは自分たちの知らないうちに終わっていた土地神の襲撃のような幸運は期待できそうもない。


(あいつの言う通り、今さらどこへ逃げても同じだよな)


 せめてヒサゴにかけられた戒めが解けさえすれば……とは思うのだが、彼女はこの期に及んでも圭太に戒めを解くための願いを明かそうとはしないし、先ほどだって半ば諦めていたようにすら圭太には見えた。

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