雨雲の下で
空を黒雲が覆っている。どうもひと雨来そうな怪しい天気だ。
「今日、雨降るって聞いてなかったのにぃ」
「やべぇ! オレ、部屋の窓開けっ放しだったわ! 早く帰んねぇと置いといた『プラスチック戦記』の新刊濡れちまうぅぅ!」
一日の授業が終わった事もあって、部活やら委員会に参加していない学生などは早々に帰り支度を整えて、そそくさと教室を出て行く。まだ残らなければならない学生などは不安げに教室の窓から空を見上げていた。
確かに今朝の天気予報では一日中晴れと言っていた筈だが、季節外れの夕立でも来るのか、これだけ技術が発達した現代でも、なかなか天気予報は百パーセントというわけにはいかないようである。
圭太も何かこれといって用事があるわけでもないし、帰りは今朝と同様にヒサゴを乗せて行ってやらなければならない。
(本当はバスか何かで帰らせた方が他の乗客もいるから安全なんだろうけど……バスを降りてからが距離あるからなぁ……)
圭太やヒサゴの住んでいる地区はバスが乗り入れておらず、最も近いバス停からも徒歩で二十分ほど行かなければならない。そのため、どうしたって一人きりになってしまう確率の高い区間があるのだ。
ヒサゴの身の安全を第一に考えるのなら、当然、圭太なり近所の寺が実家である伯乃姉と一緒に登下校する必要がある。が、伯乃姉と一緒になどと勧めたところで、伯乃姉は快諾してくれそうだが、当のヒサゴが嫌がるだろう。
ヒサゴはどうも伯乃姉に対して苦手意識を持っているようだし、やはり圭太が一緒についてやる以外にない。
「人間に怯える神さまってのもなぁ……」
伯乃姉から金属バットで脅しをかけられた時のヒサゴの怯えようを思い出すと、自然と笑いがこみ上げてくる。
(神さまって本当に居るんなら、もっと威厳があるもんだと思ってたけどなぁ)
ヒサゴを見る限り、おおよそ威厳というものとは程遠い。一般的な人間に比べて感覚のズレのようなものはあるが、マイナーなキャラクターグッズを集めていたり、好物がオムハヤシや芋ようかんだったりと妙に俗っぽく、自分勝手で、それでいてパンツを見られると恥ずかしがって烈火の如く怒り出す。
普通の人間が抱く神さまのイメージとは懸け離れていて、しかし、それだからか親近感も抱かずにはいられない。
「なんつうか……わがままな普通の女の子って感じだよな」
だから何となく放っておけない。そんなふうに思うのだった。
そんな事を呟きながら圭太は待ち合わせ場所である駐輪場までやって来た。
「ん? 下水工事?」
駐輪場の入り口付近から体育館の裏手を塞ぐようにトラバーが掛けられており、そこには『下水工事のため立入禁止』と書かれた貼り紙があった。
「そんな話あったっけ?」
帰りのホームルームでそんな話は出ていなかった気もするが、圭太は特に気にも留めず、自分の自転車が置いてある場所まで入っていった。
まだヒサゴの姿はない。
「ホームルームが長引いてるのか?」
まあ、そのクラスによって終了時間はまちまちであるし、十分、二十分くらいであれば誤差の範囲と言える。
それに明日は学校も休みという事もあって、天候が今にも崩れそうなのにのんびりしている学生も多い。
大方、クラスメイトのお喋りに捕まってしまい、なかなか放してくれないといった状況に陥っているのかもしれない。
「あいつ……外面だけは良いからなぁ」
自分が学校で人気があるという事は彼女自身、ある程度は自覚しているフシがある。それだからなのか、ヒサゴの正体が水神さまだと知っている圭太や伯乃姉以外の人間に対しては愛想が良く、努めて誰からも好かれるよう振る舞っていて、圭太から見れば呆れるほどに猫を被っているのだ。
彼女の本性を知らない男たちから言い寄られている姿も圭太は何度か目撃していたが、彼女はその都度、波風を立てないよう上手く躱していた。
(狡猾だよなぁ……)
圭太は自転車の傍らで一人苦笑いを浮かべる。
ヒサゴの性根を知るだけに、圭太には彼女がそういうふうにしか映らない。
しかし、そうやって彼女なりに世渡り上手に人の社会に溶け込もうとしている事が必要以上に多くの人間を寄せ付けてしまい、却って身動きが取りづらくなっている可能性は十分にあった。
(まあ、それならそれで危険は減るんだろうけど……)
待たされている身にもなってもらいたい。と、圭太はこうしてお抱え運転手の如く待ち惚けを食らっているわけで……。
やがて、ポツポツとごま粒ほどの小さな雨粒がアスファルトを濡らし始めた。
「だぁぁぁ! 降って来た!」
まだ、傘を差すほどの雨ではないものの、これから徐々に雨脚は強くなりそうな気配。レインコートも持ってきていないし、出来る事なら、これ以上強くなる前に家に辿り着きたい。
圭太は憂鬱に眉を顰めて、駐輪場の屋根の下から顔を出すと空を見上げた。
徐々に暗くなって行く空は、遙か向こうの方まで全くと言って良いほど雲の切れ間が見られない。
「ったく……。あいつ、いつまでかかってんだ?」
出来るだけ雨に濡れたくないのもあって、圭太はだんだんと苛立ちが募って行く。
だが、不意に……何か引っかかるものを感じ、その苛立ちも瞬時に冷める。
(変だな……)
何か気づいていない……いや、気づいている筈なのに失念している致命的な何かがある気がしてならない。
雨が降り出しているのに、いつまで経っても現れないのはさすがに妙だ。
それに今まで圭太に気を遣った事のなかったあのヒサゴが圭太を危険に巻き込みたくないと悩みに悩んで、結局は今朝になって頼って来たのだ。当然、殊更に慎重になっているだろうし、それが仮にクラスメイトに捕まっているとは言っても、呑気にいつまでも教室に残っているとは思えない。
(嫌な予感がする……)
圭太は中等部校舎の様子を窺おうと少しだけ首を伸ばす。中等部の校舎は体育館の向こう側で、この位置からは三分の一も見えない。
そしてハッとした。
「まさか……!」
ギリッと歯噛みして駐輪場の入り口へ走った。
来るときに見かけた『下水工事のため立入禁止』の貼り紙。人が入り込まないように仕切ってあるトラバーは完全に体育館の裏側を封鎖するような形で設置されている。
以前、伯乃姉がここで言っていたことを思い出した。
――この一帯には人払いの結界を敷いておいた。
全くあの時と同じ手口ではないか。
中等部の校舎から駐輪場までの最短ルートは、この体育館の裏手を通るルートで、ヒサゴがいつも圭太の自転車に乗せてもらう時には、そちら側からやって来る。しかし、体育館の裏手は直ぐに二メートルほどの高さのある塀が迫っており、道幅は人が二人並べる程度の幅しかない。当然、死角も多くなる。
いつもなら自転車通学をしている中等部の学生もこのルートを通るのだが、何も知らないヒサゴがいつもの調子で体育館裏手に入ったあと、他の学生が入り込まないよう封鎖したのだとしたら……。
「クソッ! 思いっ切り孤立するじゃねぇか!」
その事に気がつくと圭太は矢も楯もたまらず、トラバーを飛び越えて走り出した。
「考えてみりゃ、おかしかったんだ! 下水工事で敷地内の一部を封鎖するんなら帰りのホームルームで注意喚起されてる筈だもんな。ちくしょう! まんまとハメられたか!」
雨は徐々に強くなってゆく。
相手がどんな能力の持ち主かは知らないが、この雨も仕組んだものだとしたら、誰にも気づかれる事なくヒサゴを襲撃するのに都合の良い消音になる。雨を降らせる力が無いのだとしても、神であれば人間の天気予報などよりもよほど正確に天候を予測できるだろう。
この機会を狙っていたとしても不思議ではない。
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