困惑
圭太が席を立ってヒサゴと伯乃姉がその場に残された。
伯乃姉はテーブルに飛び散った玉子やらソースやらといったものを手拭きでキレイに拭き取っているが、ヒサゴは依然として顔を赤く染めたまま俯いている。さすがに食べる手も止めて、スカートの裾をギュッと握り締めていた。
「どうやら映像として彼の願望が頭の中に流れ込んで来たようだな」
問う……というよりも断定であった。
ヒサゴはそれに答える事はなかったが、答えないというその反応を見る限り図星らしい。
「丁度、圭太君も席を外している。何が見えたのか、私には話してくれても良いんじゃないか? ひょっとしたら何か力になれるかもしれない」
そう言って伯乃姉はヒサゴの肩に手を回すと顔を近づける。
力になれるかもしれないというのは立て前で、どちらかと言えば興味が勝っているといったふうであった。
見たものが見たものだったのだろう。さすがに圭太がその場にいないとは言え、ヒサゴは言いづらそうに口をモゴモゴさせていた。
「よほど恥ずかしいものかね?」
伯乃姉の言葉にヒサゴは、ほんの僅かに肩をビクリとさせた。その通りらしい。
伯乃姉は妖艶な微笑を浮かべ、肩に回した腕でさらにヒサゴの顔を引き寄せる。
「どうせ実行に移さねば解決しないのだ。ならば彼に知られる前に私にだけでも話しておいた方が得策ではないかな? なに……キミが望むのなら彼には黙っておいてやる。心配はいらないよ」
「……ッチ……」
ヒサゴの口から、よく耳を澄ませていなければ聞こえないような小さな声が漏れた。
「何だ?」
「エ、エ、エッチよ……」
言うのですら恥ずかしいといった具合にヒサゴは口にして、これ以上ないほどに顔を紅潮させている。頭から湯気が立ち上りそうだ。
「あ、あいつ……あたしとつき合って、あわよくばお互いに想い合って……エ、エエ、エッチしたいって……」
「ほほう……なるほど。健全な男子の望みそうな事だ」
伯乃姉は寧ろ安心したような口振りであった。伯乃姉は同年代の女子よりも思考が先を行っているところがあって、もっと口に出来ないような過激な事を想像していたのかもしれない。
それが、これくらいの年頃の男子が普通に考えていそうな願望だったと聞かされて、拍子抜け半分、安堵半分といったところだったのだろう。
「まあ、先にも言ったが、それは今の彼の願望ではなく、キミの正体を知る前に彼が密かに抱いていたものなのだろう。キミの正体を知ってからは、彼のキミに対する見方は変化しているだろうからな。ならば、まずはキミと彼は両想いになるところから始める必要があるだろう」
「はあっ⁉ いやいやいや! 言ってることおかしくない⁉」
ヒサゴは血相を変え、ブンブンと勢いよく手のひらを振る。またしても両耳の上辺りからツノがニョキッと飛び出していた。
「何がだね?」
「だって……だって、あたしは今はこんななりをしてるけど一応は水神なのよ? 何で人間なんかと……」
すると伯乃姉は声をあげて笑った。それでもごく短い間で、それも店員やカウンターに座っている客にまでは聞こえない程のものだ。が、伯乃姉がこれまで笑った中では一番大きな笑い声だったかもしれない。
「人と神が結ばれる話は前例がないわけじゃなかろう? 様々な神話などでも人と神の間に生まれた子が登場するものだ。ましてキミは今、人間の体を持って人間社会に紛れて生活しているのだ。その体だって繁殖が可能なのではなかったか?」
「そ、そういう事じゃなくて……いや、言ってることは間違ってないんだけど……そうじゃなくて……その……」
自分でも混乱しているらしく、ヒサゴは口ごもってしまう。
伯乃姉もヒサゴにあらためて訊かずとも、おおよそ彼女の言いたいことは察しが付いていた。
要するにヒサゴは人の体を持ち、その肉体が朽ち果てるまで人間と同様に生活して行かなければならないと分かっていたが、神である自分が人と結ばれるだとか、そういった行為に及ぶなどと考えた事もなかったのだ。
自分はただ、圭太に神罰を下したあとは肉体が寿命を迎えるまで人のふりをして生活して行けば良いだけだと思っていた。それが事故のような形で水神としての力を殆ど封じられ、それを解く見返りに圭太が祠を壊した事はお咎めなしにするという約束までしてしまった。
それが今度は圭太とそういった関係にならなければ水神としての力が戻らないという事実を突き付けられたのだ。
全く考えてもいなかった事態にヒサゴ自身、どうして良いか分からなくなっているのだろう。
「と、とにかく、そんなの無理! 何が何でも別の方法を考えるわ!」
結局、そう簡単に受け入れる事など出来る筈もなく、こうでも言わなければヒサゴ自身の中で収拾がつかなくなっていた。現実逃避と言って良いかもしれない。
「どうするかはキミ次第だから私がこうしろと言うつもりはないよ。だが、その戒めを解くには、そうするより他にないとだけは言っておこう。まあ、圭太君に注連縄を持つように言ったのは私だし、原因を作ったのは私だとも言える。一応、私なりに調べてはみるが……あまり期待しないでもらいたい」
「うう……」
ヒサゴはガックリとうな垂れてしまった。とは言っても、圭太が戻ってくると、また悲しげな顔でオムハヤシをパクつき始めたが……。
「で? その注連縄は外せそうなのか?」
何も知らない圭太が呑気に尋ねると、ヒサゴは恨めしげな目を圭太に向ける。相変わらず顔を赤らめて鋭い眼光の中に涙が浮かんでいた。
「な、何……?」
「さてと……」
伯乃姉は話を打ち切るように立ち上がる。そしてテーブルに数枚の千円札を置いた。
「私は先に失礼する。ここの支払いは私が全て持つ事にしよう。水神さまの祠が壊されていた事に長年気づいていなかったのは管理者であるウチの寺の責任でもある。これで足りるとは思わないが、まあ、せめてもの詫びだと思ってくれたまえ」
それだけ告げると圭太とヒサゴを残し、二人に何も言う間も与えず店を出て行ってしまった。
伯乃姉は伯乃姉なりに気を遣っていると見える。
彼女の言うように、ヒサゴを祀っていた祠は伯乃姉の龍造寺の住職が代々管理していたものであるから、管理がずさんになっていた事に対して彼女も少なからず責任を感じているのだろう。
「何かよく分からんけど、オレたちもそろそろ出るか」
圭太はヒサゴの顔色を窺うように訊くが、ヒサゴは黙ったままだ。それでも圭太が席を立つのに合わせて自分も立ち上がるところを見ると、店を出る事には同意したようだ。
圭太たちが会計を済ませようとレジへ行くと、カウンターに座っていた客の一人がタッチの差で先に会計を始めようとしているところであった。
「あら? 割り込んじゃったかしら? ごめんなさい」
少し日に焼けたような褐色の女性だった。年の頃は二十代半ばといった感じだろう。謝っているわりにはノリが軽く、あまり申し訳なさそうな感じを受けなかった。
「あ、別に急いでるわけじゃないですから……」
「そう? 悪いわね」
女性客はころころと人懐っこく笑った。
だが、圭太はその女性にどうも引っかかるところがあって、彼女の後ろに並びながら「はて?」と首を傾げる。
(どっかで会った事あったか?)
全く知らない女性だというのに、どこか見覚えのあるような気がしてならないのだ。それが声なのか佇まいなのか、それも分からない。だが、何となく馴染みのある、そんな雰囲気をこの女性は漂わせていた。
そんな事を考えているうち、女性はもう一度軽く会釈をして店を出て行った。
(やっぱり他人の空似ってやつなのかなぁ……)
向こうも知っていれば何かしら言ってくるだろうし、ただ人懐っこそうなだけで圭太とはそれ以上、言葉を交わすこともなく去って行ったのだ。単に思い過ごしなのかもしれない。
その後、圭太とヒサゴも会計を済ませると店を出た。
結局、伯乃姉が置いていったお金は三人分の合計金額よりも二倍ほど多かった。
「どうしよう? これ……」
余ってしまったお金を手に圭太は困惑する。
後で返しに行った方が良いかもしれない。そう思った。
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