椋梨先生の手紙

 結局のところヒサゴの安直極まりない試みは当たり前のように失敗に終わった。


「放課後も対策を練るわよ」


 そう言って駐輪場で待ち合わせる約束をしたわけだが、正直、圭太はこんなに手がかりの無い状況では対策を練ったところで進展など望める筈もないと思っている。

 しかしまあ、圭太もこれといって他に何か用事があるわけでもないし、とりあえずはヒサゴの気の済むようにやらせてやろうと半分諦めたつもりでつき合ってやる事にした。

 それにしても午後に入ってからというもの、圭太は妙な視線を感じて、午後は真面目に授業を受けようと思っていたのに、そのせいで集中力を欠いていた。


(何なんだぁ……?)


 原因は玉井である。

 彼女は昼休みが終わる直前、わけの分からないことを言ったかと思うと、それからもチラチラと圭太の方を変な目で見てくるのだ。


(オレ、何か変な事したっけ?)


 目が合うと玉井は慌てて視線を逸らす。

 それが何度か繰り返されたが、やがて日本史の授業を行っていた椋梨先生もその様子に気がついた。


「玉井さん? どうかしたのかな?」

「え? え?」


 玉井も圭太にばかり気を取られていて油断していたのだろう。突然、名前を呼ばれた事に驚いて、あたふたと教科書のページを捲る。が、彼女の開いていた教科書は今やっている日本史ではなく英語の教科書だった。


「え、えっと……。何ページですか?」

「玉井さん……」


 未だ英語の教科書を開いている事に気づいていない玉井に対し、椋梨先生は僅かにため息をつく。

 そこでようやく彼女も気づいたようだ。


「あ……す、すみません……」


 決まり悪そうに肩を窄め、机の中からようやく日本史の教科書を取り出した。


「何があったのか知らないけど、今は授業に集中しなさい」

「は、はい……」


 消え入りそうな声で返事をする玉井だったが、椋梨先生はそれほど怒っているようでもない。ただ、「込み入った事は聞くつもりはないが、今は頭を切り替えなさい」と言っているふうでもあった。


(よっぽどの事がない限り、怒ることないのかねぇ……)


 圭太もこれまで色々な教師を見て来たが、ここまで怒ることの少ない教師というのも珍しい。

 確かに温厚で日頃から生徒たちに対して優しい言葉をかけてくれる良い先生だと思う。けれど、それ故なのか圭太にはこの椋梨という教師の言うことには決して逆らえない不思議な魔力のようなものを感じずにはいられなかった。

 恐らくは他の生徒たちも同様に感じているかもしれない。

 私立で中の上くらいのレベルはある学校ではあるが、中には教師に逆らうような輩も居ないでもない。このクラスにも一人か二人は、そういったアウトローな生徒がいる。

 しかし、そんな連中であっても、この椋梨先生の言うことには意外なほど素直であった。恐縮していると言って良い。

 決して威圧的なところもなく、至って穏やかなだけに見えるのに……。


(知れば知るほど、よく分からない先生だよな……)


 圭太がそんな椋梨先生に呼ばれたのは授業が終わってからの事だ。


「これを中等部の生徒に渡してくれるかね?」


 手渡されたのは一葉の茶封筒だった。ご丁寧にしっかりと糊づけされている。


「三年生の水分ヒサゴさんという女子生徒なんだが、キミも知っているだろう?」

「あ、ええ……まあ、近所ですから……」


 近所に暮らしている事は学校側の関係者であれば知っていてもおかしくはないだろうが、どこでヒサゴと繋がりがあるのかを知ったのかは多少の疑問もあった。

 しかし、椋梨先生は「頼んだよ」とだけ告げると教室を出て行ってしまう。

 何となくキツネに摘ままれたような気分で取り残された圭太であったが、まあ、どのみちこれからヒサゴとは会う事になっている。頼まれたからには本人に渡せば良いだけだ……と、あまり深く考えない事にした。


 ***


「遅ぉ~い!」

「遅いって……。オレだって終わってから直ぐに出て来たんだけど?」


 ヒサゴは駐輪場で待っていた。そして第一声がこれである。

 ホームルームが終わる時間など、中学、高校に拘わらず、大抵どのクラスも大差ない。それなのにヒサゴはまるで二十分も三十分も待たされていたかのような口振りだ。


「これからケータと一緒に駅前でお茶でもしながらって思ってたんだから、もたもたしないでよね!」


 だだっ子のようにバシバシと圭太の自転車のサドルを叩きながら急かす。


「駅前でお茶ぁ? 何でまた……」

「はぁ……分かってないなぁ……。あんた、そういうとこがほんっとボンクラよね」


 お手上げといったふうに手を上げて、ふんと鼻を鳴らす。

 圭太としては果てしなく理不尽な事を言われている気がしてならない。


「昨日と同じように家に直帰して話し合っても変化がないでしょ?」

「はあ……変化ですか……」


 変化と注連縄を外す事と何の関係があるのだろう? 

 まるで要領を得ないが、まともに取り合ってはいけないという事がヒサゴの次の発言で分かった。


「行き詰まった時は気分を変える! これが妙案に繋がるものよ! この本に書いてあったわ!」


 ヒサゴが得意げになって見せたのは『ビジネスにおける8つの法則』というビジネス書であった。

 いったい、どこから持ってきたのか知らないが、大方、仕事で役立つ方法が書かれていたものを微妙にズレた解釈でもしたのだろう。


「まあ、いいや。ああ、それと……」


 圭太は先ほど椋梨先生から預かった封筒をヒサゴに差し出した。

 何も書かれていない茶封筒を彼女は手を出そうともせず、怪訝そうに見つめている。


「うちの担任がおまえに渡してくれってさ」

「あたしにぃ?」


 ひったくるように圭太の手から封筒を奪い取ると雑に開封して中から一枚の紙切れを取り出した。そして一読すると眉を顰める。


「どうかしたのか?」

「別に……。ただ、ケータにあんまり迷惑かけるなってさ」


 つまらなさそうにヒサゴはその手紙をクシャクシャと丸めるとブレザーのポケットに押し込んだ。


「今朝もあたしがケータの自転車に乗ってたのを見てたみたいで、その先生からこっぴどく叱られたのよ」

「へぇ……椋梨先生がねぇ……」


 珍しい事もあるものだ。圭太はそう思った。

 今まで椋梨先生が「こっぴどく」などと表現されるほど生徒を叱ったところを見た事がない。そんな話すら聞いた事もなかった。

 しかし、ヒサゴの言い様だと彼女にはかなりきつく叱ったようである。もっとも、受け取り方も人それぞれであるし、ヒサゴの事だから大袈裟に言っているとも限らないが……。


「まあ、いいわ。こんなのほっといて行くわよ」


 と、再びサドルをバシバシと叩いて催促する。

 全く反省していないようだ。もっとも、人間から注意を受けて反省する神さまもどうかと思うが。


「まあ、良いけど。でも、駅前までは徒歩だからな」


 そう言って圭太は自転車を引っ張り出した。


「ええ~? あんた、ホント小心者ねぇ~」

「うるさいな。駅まで、たかだか十分程度の距離だろ? 人の多いとこで二人乗りなんか出来るかっての」


 ましてや駅前には交番もある。そんなところへ自転車の二人乗りなど叱られに行くようなものだ。

 どうもヒサゴには人間社会の常識が通用しない節がある。圭太はそんな人間のふりをした神さまに目を付けられてしまった自分の運命を呪いたくなった。


 とにもかくにも、ヒサゴがいつまでもブツクサ文句を垂れ続ける前に歩き出した方が良さそうである。

 が、自転車を押しながらヒサゴと二人で駐輪場を出ようとしたところで、圭太は足を止めた。

 自分の足下に従っている自身の影に何者かの影が重なっていた。


「ほう……。新学期が始まってからというもの、妙な気配を感じてはいたが……なかなか面白い娘が紛れ込んでいるようだな」


 直ぐ頭の上で声がして、圭太はハッと振り返る。

 駐輪場のステンレス屋根の上に一人の女子生徒が腰掛けて、こちらを見下ろしていた。


伯乃はくのねえ?」


 通り抜けるそよ風に長い黒髪をなびかせ、伯乃姉が口もとに微笑を浮かべていた。


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