第二話 勝手な水神さま
親バカ
辺りはすっかり暗くなっていた。
圭太は後ろにヒサゴを乗せて、息を弾ませながらペダルを踏む。
自転車の二人乗りはマズイ。という事で、出来るだけ人通りの少ない道を選んで走り続けるが、さすがに国道を横切る時にはヒサゴに下りてもらい、圭太も自転車を押して歩くという小細工を使って切り抜けた。
圭太の腰に手を回して、その身を任せている間、ヒサゴは終始無言であった。相変わらず機嫌が悪いのだろうと圭太も極力話しかける事を遠慮していたが、彼女はただ延々と意味不明なお経でも聞かされているような表情の薄い顔で流れ行く街の風景に見入っているようだった。
やがて自転車は森の間を抜ける急な坂道を下り、圭太たちの住む地区へと入る。
この一帯は一本の細い川が神奈川県と東京都を仕切るように横たわっており、浅い谷のような地形となっている。それ故、神奈川県側へ行くにも東京都側へ行くにも急な坂を上らなければならない。
そんな地形的な理由からなのだろう。この川沿いの窪地だけは未だに垢抜けない田舎のように開発が進まないのは。
車も川に架かった橋を渡って県境を跨ぐ通りだけは頻繁に行き来しているが、その通りから一歩でも畑や民家の並ぶ区画に入り込むと地元住民の車しか走る事はなく、日中でも非常に静かなものだ。
これが日が暮れて辺りが暗くなると、通りは青白い街灯に群がる羽虫と、時折、森の中からひょっこり出てくるタヌキくらいしか生命の気配もなく、あたかも異界に迷い込んでしまったような錯覚に襲われると言っても決して大袈裟ではない。
傾斜地はその多くが森林地帯になっており、圭太の家は川から少し離れた、その傾斜地の下に位置している。
一方、ヒサゴの家は川に沿って東西に長く延びる遊歩道沿いにあった。
遊歩道沿いに立つその家はコンクリート打ちっ放しの二階建てではあるが、この手の建築によく見られるモダンなデザインの家というわけではなく、ただ無骨なだけの、どちらかと言えば旧陸軍の前線司令部に見られるような寒々しい造りであった。
それに車道と遊歩道の分岐点に建てられているために三角形の敷地である事から、家そのものも上から見ると三角形になっている。
ヒサゴの家の前までやって来ると、彼女は弾むように自転車から降りる。もちろん……ひと言のお礼もない。
まあ、圭太も事の成り行き上、全く期待していなかったから文句を言おうとも思わなかった。
「じゃあ、オレは向こうだから」
分かり切ったことを言って自転車を走らせようとする圭太をヒサゴは、
「ちょっと、待ちなさいよ!」
と、腹立たしげに止めた。
「何ですか?」
圭太もうんざりした様子で振り返ると、機械的に無感情な調子で訊く。
ヒサゴについては色々と不明な点が多く質問したい事も多々あったが、ついさっき、そのヒサゴに襲われた事もあって、今は一刻も早く家に帰りたい気分だった。
「うちに寄ってきなさい。まだ話さなきゃいけない事もあるし」
「えぇ……? 明日でも良いだろ? 今日は遅くなっちゃったし」
と、面倒臭そうに返すとキッと鋭い目でヒサゴに睨まれた。有無も言わせる気はないらしい。
下手に逆らって、これ以上、機嫌を損ねられても困るし、圭太は肩を落として従うしかなかった。
「まあ、ケータの家には宿題を教えてもらうついでに夕食も食べてってもらうとでも連絡しといてあげるから。神さまがここまでサービスしてあげる事なんて滅多にないんだから感謝しなさいよね」
「はあ……。そいつは嬉しくて一生分の涙が出そうだよ……」
当てつけのように心にもない事を言うのが最大限の抵抗であった。
それにしても今、彼女は「ケータ」と初めて下の名前だけで呼んだ。その点で見れば、一定のところで圭太を認めたという事でもあるだろうし、とりあえず「祠を壊したことはチャラにする」という約束は信じて良いのかもしれない。
「ただいま」
玄関のドアを開けるとヒサゴは神さまがおおよそ言うとは思えないような、ごく普通の学生と同じ形で帰宅の言葉を口にした。
今は水神の力を行使した時のようなツノも生えていないし、こうして見ると普通の女の子としか思えない。
ヒサゴの「ただいま」とほぼ同時に奥からドタドタと激しい足音を立てて顎に無精髭を蓄えたアラフォー男が駆け寄って来た。
「ヒサゴちゃぁぁん! おかえ――」
アラフォー男はヒサゴの帰宅を待っていましたとばかりに歓喜に満ちた顔で出迎えたが、彼女の後ろに圭太の姿を認めると、一変して凍りつく。
「あ、ど、ども……。向かいの三峯です」
圭太は精一杯の愛想笑いを作る。他意は無いのに、なんとなく気まずい。
初めて恋人の実家に行った時って、こういう気分なのかなぁ……と少し分かったような気がした。もちろん、ヒサゴとはそういう関係ではなく、寧ろそれとは対照的な関係と言って良いかもしれないが……。
「あ、あれぇ? ヒサゴちゃん、ひょっとしてこの人は彼氏くんかなぁ? パパ、そんな話聞いてないぞぉ~? ごふぅっ!」
引きつった笑みを浮かべる父にヒサゴは透かさずボディブローを喰らわせた。
「そんなんじゃないって。先輩から宿題のわかんないとこ教えてもらうからウチに呼んだだけ」
「宿題なんて初日から出ないだ――がっ……!」
余計なことを言った圭太もヒサゴに思いっ切り足を踏まれた。そして彼女にグイッと襟首を引っ張られると、
「口裏くらい合わせなさいよ! 気が利かないヤツねぇ! この娘を溺愛してる父親に余計なちゃちゃ入れられたくないでしょ!」
耳元で叱られた。
幸い、彼女の父親こと砥部淳一郎はそこまで聞こえていなかったようで、「なぁんだ! はっはっはっ!」と朗らかに笑った。変わり者の作家だとは聞いていたが、かなりの親バカらしい。
「だったら夕飯パパが腕によりをかけてヒサゴちゃんの好きなオムハヤシを作ってあげよう!」
「……はいはい。じゃあ、あたしたちは部屋で宿題やってるから部屋の前の廊下にでも置いといて。絶対に邪魔しないこと」
「オッケー!」
淳一郎さんはビッと親指を立ててウインクすると、さっさとキッチンがあるであろう奥へと引っ込んで行った。
淳一郎さんが「オムハヤシ」と言った際のヒサゴの反応を圭太は見逃さなかった。終始不機嫌そうな顔をしているヒサゴが一瞬だけ……ほんの一瞬だけ口もとをピクリと歪ませていた事を。明らかに嬉しいのを意地でも隠そうとしたのが手に取るように分かった。
「神さまだから、もっと堅苦しい食事なのかと思ってたけど、意外に可愛らしい嗜好のようで……」
口もとを押さえ「ぷぷっ」と小馬鹿にするような笑みを浮かべている圭太に、ヒサゴはプイッと背を向けると、
「う、うっさいわね! 良いでしょ、別に!」
と、怒って玄関横の階段を上がって行く。
背中で「ついて来なさい」と訴えていたので、圭太もそれについて行った。
「まったく……あの『娘溺愛属性』は余計なのよねぇ。何であんな設定まで組み込んだんだか。今度会ったら文句言ってやろうかしら」
階段を上がりながらブツブツと愚痴をこぼしている。「設定」だとか「組み込む」だとか、圭太には何のことだか想像がつかない。
「あの人、ヒサゴのお父さんなんだろ?」
「ああ、表向きはね。あたしが人間社会に紛れ込むために手を貸してくれたヤツが記憶を改ざんしたから本人もあたしの実の父親だと思い込んでるけど、もともとはただの独身男よ」
「き、記憶を改ざん?」
圭太は目を丸くする。まるでデータをいじくるような調子でそんな事を言われても俄には信じがたい。
「そうよ。当然、あたしが水神だなんて事も知らないで一緒に生活してるし……まあ、ケータにはその辺も含めて、あたしの部屋で詳しく話してあげる」
だから宿題という事にして「邪魔しないように」と念押したわけだ。父親という設定にされている男に聞かれては困る事なのだろう。
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