何でこうなった……
「い、痛ってぇ……」
ヒサゴに押し倒された圭太も背中をしこたま地面に打ち付けてしまい、ジンジンと痺れるような苦痛に顔を歪める。そして腹の上に乗っているヒサゴから逃れようと頭を上げ……そのまま固まってしまった。
「あ……ん……?」
圭太の目に飛び込んできた水色と白の縞模様。それが己れの直ぐ鼻先にある。
それが何であるのか理解できるまでに、数秒の時間を要した。
ヒサゴは圭太の上で一回転すると、丁度、圭太の顔に跨がるような形で倒れていたのだ。つまりこれは……。
「縞パン……」
思わず口を突いて出てしまった、そのひと言にヒサゴは「ん?」と顔を上げる。そして、みるみるうちに顔を真っ赤にした。
「い、いやぁぁぁぁぁっ! ど、どど、ど、どこ見てんのよ! 変態!」
大気をつんざくような叫びをあげるとベンチの向こう側まで飛び退き、両手でプリーツスカートを押さえてしゃがみ込む。
「へ、変態って……不可抗力だろ」
そう反論するもヒサゴはまるで聞く耳を持とうとしない。目に涙を浮かべながらキッと睨みつけると圭太に向かって右手を突き出した。
「あたしの祠を破壊しただけじゃ飽き足らず、あんたは今、あたしのパンツを見て、あまつさえ匂いまで嗅ぐという大罪を犯した!」
「匂いは嗅いでねぇ!」
とんだ冤罪だ。
もちろん、ラッキースケベだった事は確かだと思うし、ごく在り来たりの日常で同じようなシチュエーションに恵まれていたら、その日は得した気分にもなれただろう。
だが、状況が状況だ。そんなご褒美など今はどうでも良い。
この危機的状況を何とか打破しなければ……と、圭太は注連縄を手に身構えようとした。
ところが、つい今し方まで右手に握られていた筈の注連縄がない。
「あ、あれ?」
ヒサゴに押し倒された弾みで手放してしまったのだろうか? 圭太は慌てて周囲をキョロキョロと見渡す。
そんな焦りの色を見せる圭太に構う事なく、ヒサゴは突き出した手に力を込めた。
「その頭……吹き飛ばしてやるわ!」
「お、おいぃぃ! 殺す気満々じゃねぇか!」
「問答無用ぉぉぉぉ!」
圭太は咄嗟に顔を庇い、ギュッと目を閉じる。
(終わった……)
結局、自分のチャンスに弱くピンチに強いという希有な運勢もここでは通用しなかった。運勢なんてものはアテにならない……。そう諦めざるを得なかった。
(それにしても……まだか? 出来ることなら苦しまずに終わらせて欲しいんだが)
いつまで経っても自分の身に何も起こらない。それどころか、何やらチョロチョロと水の流れ落ちる音が聞こえて来るだけで、目の前にいる筈のヒサゴがひと言も発しないのだ。
圭太は恐る恐る目を開ける。
ヒサゴは依然として圭太の前に立っていた。が、その顔は時間が止まってしまったかのように口をぽかんと開けたまま固まっている。
「ん?」
ヒサゴの手のひらから水が流れ出ていた。しかし、それは酷く頼りないもので、量も少なければ勢いもなく、ただ彼女の手から弧を描いて流れ落ちているだけであった。
「な、な、なん……で……?」
ヒサゴも自分の身に何が起こったのか分かっていないようで絞り出すような声も途切れ途切れ。激しく狼狽えている。
きっと、先ほどのマンホールから噴き出したような水流を放つつもりだったのだろう。でも、今のそれはまるで……。
「おじいちゃんのオシッコ?」
圭太が思わず口走ってしまった感想がヒサゴにとってはこの上ない屈辱だったに違いない。またしても顔を真っ赤にして「うるさい!」と一喝した。
「で、でも、どうして……」
ヒサゴは当惑した様子であったが、ふと、圭太はあるものに気がついた。
「あ、それ……」
圭太はヒサゴを指差す。
彼女もそれでようやく事の異変に気づいた。
「な、なな、な、何これぇぇぇっ!」
ヒサゴの首には、圭太がいつの間にか手放して必死に探していた筈の注連縄が掛かっていたのだ。それも心なしかヒサゴの首回りに合わせてサイズが縮小している気がする。
どうやらヒサゴに押し倒された際、偶然にも圭太の持っていた注連縄が彼女の首に掛かってしまったようだ。
「あ、あ、あんた、何したの?」
「何って……オレは何も? おまえが倒れかかって来た拍子に引っかかっただけだろ?」
「んなわけあるかぁ!」
全力で否定された。殆ど悲鳴に近い。
そんなふうに否定されても圭太からすれば、他に原因など思い当たらない。寧ろ、そう考えるのが普通じゃないかと思っている。
それでもヒサゴは全くと言って良いほど納得していないようで、絵に描いたような地団駄を踏んで全身で悔しさを表していた。
「あたしの力が殆ど封じられてるじゃない!」
「はあ……」
そうなのか……と圭太も言われて気づいた。
見れば先ほどまでマンホールから尋常ではない勢いで噴き上がっていた水柱が、いつの間にか消えている。そしてヒサゴの手からは相変わらずチョロチョロと静かに水が流れ落ちていた。
「だから、そんなおじいちゃんのオシッコみたいなのしか出せないのか」
「おじいちゃんのオシッコって言うなぁ!」
ヒサゴは今にも頭の血管が切れるんじゃないかというくらい真っ赤になっている。今まで圧倒的優位に立っていたのに、自分が神罰を下そうとしていた人間からバカにされた事がよっぽど悔しいようだ。
「そもそも! この注連縄はあたしの祠に穢れが入り込まないように結界の役割を果たしてるというだけのものであって、本来、神の力を封じるなんて、こんな力は無い筈よ! だったら、あんたが何かした以外にないじゃない!」
「そんなこと言われてもなぁ……」
圭太はポリポリと頭を掻く。何とかピンチを乗り切った事で気が抜けたようにのんびりした口調になっていた。
「おまけにこれ……痛っ!」
ヒサゴが首に掛かった注連縄を外そうとすると同時にビリリッと何か放電した時のような音か圭太の耳にも届いた。
「取れないじゃない……」
「首輪みたいになってるな」
どことなく闘犬が首から下げている化粧まわしのようでもある。しかし人間の、それも十代の女の子が注連縄を首輪にしている姿は、さすがに滑稽としか思えない。
圭太は笑いを堪えるのに必死だった。
「あんた!」
ヒサゴが急にズイッと顔を近づける。相変わらず目は怒っているが半泣き状態だった。
「これを取る方法を知らないってんなら、一緒に探しなさい!」
「はぁ? 何でオレが。おまえに殺されそうになってたんだぞ? そのままでいてくれた方がオレとしては安心なんだけど」
事の顛末を知っていれば、誰が見たって頼む相手が間違っていると思うだろう。当然、圭太だって自分の命が狙われずに済むのなら、わざわざヒサゴの首から外れなくなってしまった注連縄を取る手段など見つけ出す義理はないのだ。
それはヒサゴだって百も承知だろう。
だからなのか彼女はしばらく難しい顔で唸ったかと思うと、やがて「わかったわよ!」と殆ど破れかぶれといった様子で口を開いた。
「これを外す方法を見つけてくれたら祠を壊した事に関してはチャラにするから!」
「つまり神罰は無しって事か?」
ヒサゴは苦虫を噛み潰したような顔で深々と頷いた。一応は認めたが本心は納得行ってないのだろう。彼女なりに、かなり譲歩したと見える。
こうなると神様も形無しだ。
「拒否したら?」
「人間の手段を用いてあんたの寝首を掻いてやるわ」
つまり神の力を使わずに済む方法という事だ。それならばいくらでも方法はあるだろう。
さすがにこれ以上、ヒサゴに命を狙われても堪らない。
「しゃあない……。まあ、事故だったとはいえ、水神様のおまえを祀ってた祠を壊しちゃった事に関してはオレも悪かったと思ってるしな」
「ホ、ホント?」
これまでの殺気はどこへやら。ヒサゴはキラキラと期待に満ちた瞳で圭太の顔を見上げた。
その姿に圭太は不覚にも「可愛い」と思ってしまい、照れを隠すように目を逸らす。
「ああ、出来る限りの事はやってみるさ。じゃあ、オレは先に帰るからな」
そう言って圭太は自転車を止めてある通りへ出ようとする。と、ヒサゴにブレザーの裾を掴まれた。
「な、何だ? まだ何か用かよ」
ヒサゴは圭太のブレザーの裾をギュッと握り締めたまま俯いている。僅かに頬をピンクに染めて、何かボソボソと呟いていた。
「……て」
「はい?」
「後ろに乗せてってって言ってるの! 力の殆どを封じられちゃったから帰れないのよ!」
声を張り上げる姿がこれ以上ないくらいに恥ずかしげだ。
つまりはそういう事だ。体力に自信があるから徒歩で登校しているなどと言っていたが、その実、水神の力を使って何か小細工をしていたというところだろう。
「二人乗りはマズイんだけどなぁ……」
が、何となくこのままヒサゴを置いてけぼりにするのも気が引けて、渋々、後ろに乗せてやる。
ヒサゴが圭太の腰に手を回すと、何か柔らかいものが圭太の背中に当たった。
(これは……あれだよな……)
決して大きくはないが、かと言って小さくもない。見た感じでは、そう記憶している。
(こいつは人間じゃないんだ! そこんとこ忘れるなよ、オレ!)
煩悩を振り払わんとばかりにブンブンと首を振ると自転車を発進させた。
結局、伯乃姉の言った通りになった。
そして圭太はあらためて思う。
(ホント、オレってチャンスに弱くてピンチには強いんだな……)
これまでの人生でも幾度となくあったが、またしても希有な運気によってトラブルに巻き込まれ、そして窮地を脱したわけだ。
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