豹変と殺意
歩きながら二人は住宅地の一画にある雑木林の前に差し掛かった。
この辺りに来ると極端に人通りが少なくなる。夜になると危うげな場所でもあるし、今だって前後を見渡しても視界に入る人影はない。
夕暮れ時になって通り沿いの街灯もポツリポツリと灯り始めている。この辺りの街灯は未だにLEDに切り替えられていないのか、昔ながらの頼りない白色蛍光灯であった。
「そうですね……。少し……そこのベンチに座って話しませんか?」
ヒサゴは薄暗い雑木林の中を指差した。
通りから数メートル入った辺りに木製のベンチが置かれている。その直ぐ真上にも昔、横浜辺りにあったガス灯を模したデザインの街灯がひとつだけ立っていて、黄色い塗料が剥がれて朽ち木のような肌が剥き出しになったベンチを照らしていた。
「こ、ここで……?」
この、いかにもなシチュエーションに圭太は激しく動揺する。
(い、いや、通りから見える位置だけど、人通りは殆どないし……。えっ? これって……マジでか?)
怖じ気づいたような足取りではあるが、しかし圭太の足は一歩一歩……雑木林の中に作られたスポットライトの方へと進んで行く。
が、魔法にかけられたかのように歩みを進める圭太ではあったが、突然、背後でボンッと何かが吹き飛ぶような、実に場違いな音が響いた。
我に返り振り返ると、通りの方から何か大きなヘビのような物が木々の間を縫うようにして圭太の方へと飛んで来る。
「な……!」
それは水流であった。それも圭太の目に映ったのは、あまりに非常識な現象だったと言って良い。
大きな水柱が通りにあるマンホールから噴き上がり、その水柱は地上から数十センチほどの高さで急激に折れ曲がるとマンホールの蓋を乗せたまま圭太に狙いを定めたかのように迫って来ているのである。
「う、嘘だろぉぉぉ⁉︎」
水流はもちろん、あんなマンホールの蓋が直撃したらひとたまりもない。
圭太は走りながらベンチの向こう側へとジャンプする。そして杉の葉や小枝の薄く積もる土の上を転がった。
マンホールの蓋を乗せた水流は圭太の頭上スレスレのところを通り抜け、奥に生えているひと際太い杉の幹にぶつかると重々しい音を立てて根元に落ちた。
圭太は地面に突っ伏しながら、恐る恐る顔を上げる。
ヘビの如く執拗に襲いかかって来る事はなくなったものの、マンホールからは依然として大量の水が噴き出している。それは事あらば、もう一度襲ってやろうかと言わんばかりに、まるで生き物のようにのたくっているではないか。
その水柱を背にヒサゴがこちらを見下ろしている。
「ふぅん……。意外に悪運が強いみたいね。これはもう少し手段を見直す必要があるかなぁ……」
冷ややかに彼女はそう呟いた。
今までの明るく親しげに接して来たヒサゴとは、まるで別人のようだ。
その圭太に向けられた目はゴミか虫けらを見るかのように冷たい。さらに圭太が我が目を疑ったのはヒサゴの頭から生えているものであった。
「おまえ……それ……」
圭太が震える手でヒサゴを指差すと、彼女も今の今になってようやく気づいたと言わんばかりに自分の頭から生えているそれに手をあてる。そして「はぁ……」と軽くため息をついた。
「やっぱり力を使うと出て来ちゃうか。この体も欠陥があるって言ってたからなぁ……あいつ……」
ヒサゴの両耳の少し上辺りからニョキッとツノが生えている。一見すると木片か何かのような色をしているが、どちらのツノも中程の全く同じ位置で二股に枝分かれしていた。
初めは何かの飾りかとも思った。
しかし、それは確実にヒサゴの側頭部から後ろに向かって生えているものだ。それにマンホールから噴き上がる水柱の動きを見れば、この状況が普通ではない事がさすがの圭太にも少し考えれば理解できる。
(人間……じゃないのか……?)
ベンチの背もたれに手をかけ、圭太はゆっくりと立ち上がる。立ち上がりながら足下に転がっている自分の鞄を掴んだ。
「おまえ……何者なんだ」
「はぁ? 自己紹介はとっくに済ませた筈だけど、なに? あんたの記憶力ってニワトリ並みなの?」
ヒサゴは蔑むような目で面倒臭そうに言った。
つい先ほどまでの礼儀正しいヒサゴとは打って変わり、酷く口が悪い。本当に別人のようだ。
とは言っても、多重人格などといったものでない。いっそ多重人格であったなら、どんなに救われた事か……。きっと、これがヒサゴの本当の姿であり、これまでのヒサゴは明るくて可愛げのある少女を装っていただけなのだろう。
「あたしは水分ヒサゴよ。もっとも……それは人間として振る舞っている時の名前だけど」
「人間として振る舞ってる……? じゃあ、やっぱりおまえ……人間じゃないのか」
圭太は話を続けながら鞄の中に手を入れた。出来るだけ、その動作をヒサゴに覚られないようベンチの背もたれで隠しながら中を探る。
「今さら確認? そんな事、見て分からない?」
「そうだな……。だから、おまえが何者なのか訊いてる」
圭太は竦みそうな足に力を込め、恐怖に押し潰されそうな自分を必死に奮い立たせていた。ここで怯える姿を見せたら、あっという間に命を奪われる……。そんな気がしてならない。
「あたしの真の名前はタカクラノヒサゴヒメ。水神って言えば分かるかしら?」
「水神? その神様が何でオレを殺そうとすんだよ!」
するとヒサゴは「フフン」と鼻で笑った。
「何言ってんの? いくら神罰とはいっても、さすがに高天原の許可なしに人を殺せる筈がないじゃない。半殺しよ、半殺し!」
「同じようなもんじゃねぇか! 大体、今のやつだって直撃してたら間違いなく死んでたぞ、オレは!」
「あ~、はいはい。あたしも力の微調整が難しいのよ」
どっちでも良いとでも言いたげだ。
ともかくも、ヒサゴが圭太に危害を加えようとしている事は分かった。恐らく伯乃姉の占いに出ていた「命の危機」というのはヒサゴによってもたらされるもので間違い無さそうである。
となれば、用心の為に持ってきたアレの出番だろう。
圭太は鞄の中に忍ばせておいた注連縄を掴む。しかし、まだ出そうとはしない。
(この状況で、どう使えば良いんだよ)
自分の身を守ってくれるという話ではあったが、ハッキリ言って使い方が全く分からない。
(何とか話を引き延ばして機会を窺うしかないか……)
注連縄が守ってくれるという以上、何かしらのヒントがあるのかもしれない。注意深くそれが見えて来るのを待つ事にした。
「神罰って言ったな。オレに神罰を下す理由は何だ。それを知らされもせずに罰せられたって納得できるもんかよ」
「はぁぁぁぁっ⁉︎ 身に覚えがないって言うの⁉︎」
怒りでヒサゴの銀髪が逆立つ。
この質問を投げかけるのは失策だったかもしれない。どうやら火に油を注いでしまったようで、ヒサゴは肌にピリピリと痛みが走るほどの殺気を放っていた。
「あたしを祀ってる祠を破壊して、あまつさえ神域の結界である注連縄まで持ち去ったこと……忘れたとは言わせないわよ!」
「あ……」
今、まさに圭太が手にしている注連縄の事だった。
これには圭太も気まずそうに目が泳ぐ。
(あんとき壊しちゃった祠って水神様の祠だったのか……)
その水神さまが今、目の前にいるヒサゴであり、圭太が幼い頃に壊してしまった怒りをぶつけにやって来たという事だ。それも十年越しにである。
「注連縄って……これの事……だよな?」
恐る恐る鞄から取り出した注連縄を見せると、案の定というか当然というか、ヒサゴの眉がさらにつり上がった。
「あ、あ、あんたねぇ……それ……」
ヒサゴはワナワナと身を震わせ、ゆるゆると手を伸ばす。
(あ……これマズイかも……)
そう思ってたじろいだ次の瞬間――
「返せぇぇぇっ!」
ヒサゴが圭太に躍りかかった。
が……圭太の手にする注連縄に視線が釘付けになっていたため、直ぐ目の前にあるベンチにまで注意が行かなかったのだろう。
「わきゃっ!」
ベンチの背もたれに躓くと子犬のような悲鳴をあげ、圭太に覆い被さるような形で倒れ込む。それどころか、あまりに勢いよく躓いたために圭太の腹の上でヒサゴは一回転してしまった。
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