二人だけの帰路

 さて……授業初日はあっという間に終わった。

 正直なところ、圭太も今日一日を通してやった事など、ほぼ印象に残っていない。まあ、最初の授業などというものは往々にしてそういうものだろう。


 それよりも圭太としては身に迫る危険、そしてそれ以上に水分ヒサゴの言ったひと言の方がよっぽど脳内を占拠していた。

 今まで彼女なんて出来た事がなかったから、当然、そのチャンスが巡って来たのではないかと思うと四六時中悶々として、まさに心ここに在らずといった具合である。

 それも明るくて人当たりも良さそうな女の子だし、何より、どこへ行っても人目を引きそうなあの容姿だ。

 出会って二日目であるため、どんな子なのか詳しい事までは分からないが、現時点での印象は非の打ち所が無いと言って良い。


「……い。お~い、三峯~」

「ん……あ……?」


 いつの間に目の前に立っていたのか、玉井が圭太の顔の前で手をヒラヒラさせて呼んでいる。

 よく見れば教室内にいる他の生徒たちは各々が帰り支度を整えて、次々に教室から出て行ってるではないか。


「なにぼぉ~っとしてんの? とっくに終わったよ?」

「あ、そっか……」


 圭太の机には本日、最後の授業で使った真新しい数学の教科書が目次を開いたままの状態で置かれていた。いかに授業中うわの空だったか、これだけでも一目瞭然と言えるだろう。


「昨日の子さ……ヒサゴちゃんって言うんだって?」

「え? あ、ああ……」


 その名前を聞いただけでも圭太はドキッとする。同時に自分でも呆れるくらいに意識し過ぎだと思った。

 それにしても早速、玉井の耳に入っているという事は、つまり……。


「篠原か?」

「うん。『ヒサゴちゃんが三峯に気があるなんて、この世は不条理に満ちている! 蒼天は何故、我に味方せぬかぁ!』なぁんて、反乱起こそうとしてる思想家みたいになってたよ」

「あいつは……」


 圭太は深いため息をついて頭を抱える。玉井の説明だけで篠原の狂乱に満ちた様子が目に浮かぶようだった。


「別に……あいつの早合点だよ。確かにオレのこと気になるとは言ってたけど、気があるとはひと言も言ってないからな」

「ふぅ~ん……。とか何とか言っちゃって、ホントは三峯も期待しちゃってんじゃないの? 今もぼんやりしてたしさ」


 玉井は企むような品の無い笑みを浮かべた。

 それに関しては圭太も否定できない。できないが「そうです」とは認めたくもない。だから、ただふてくされたように黙っていた。


「まあ、ヒサゴちゃんがあんたに気があるのかどうかは置いといて……とりあえず、その本人が来てるよ?」

「は……?」


 玉井がクイクイと親指で示す先……教室の入り口付近に立って本当にヒサゴが僅かにドア口から顔を覗かせていた。そして圭太と目が合うと嬉しそうに手を振る。


「おま……! それを先に言えよ!」


 圭太は慌てて机の上の教科書を鞄にしまうと乱暴に席を立ってヒサゴのもとへ駆けつけた。


「お~お~。浮き足立ってますなぁ。頑張ってね~」


 そんな玉井の冷やかしが後ろの方で聞こえたが、圭太は完全に無視。確かに玉井の言う通り浮き足立っていたが、何よりヒサゴを待たせていた事が余計に圭太を焦らせていた。


「先輩、忙しかったですか?」

「い、いや、もう帰るとこだよ」


 申し訳なさそうに顔を覗き込むヒサゴに思わずドギマギして、無様なほど声が裏返っている。


(これじゃあ玉井にからかわれても仕方ないよな……)


 不甲斐ないとは思いながらも、ヒサゴの澄んだ翡翠色の瞳で見つめられると平静を装うことすら難しくなる。

 それでも、わざわざ自分のところまで訪ねて来てくれたのだから何か喋らなければ……と動揺を抑え、頭の辞書から言葉という言葉を死に物狂いで引き出した。


「えっと……何か用か?」


 散々、頭をフル回転させて出て来た言葉がこれだった。


(最低か、オレはぁぁぁ! もう少し気の利いたこと言えなかったのかよ!)


 自分で自分を罰してやりたくなる。これはもう棒叩き百回でも飽き足らないくらいだ。

 それでもヒサゴは笑顔を一切崩すことなく、


「一緒に帰ろうと思いまして」


 と、当たり前のように答えた。

 そのヒサゴの言葉に周囲を圭太たちの近くを通り過ぎようとしていたクラスの男子全ての足がピタリと止まる。同時に圭太は刺すような視線を感じた。


(うわぁ……)


 まるで針のむしろに座らされている気分だ。

 彼らの目は明らかに「こんな可愛い子が何でおまえのようなヤツに?」と訴えていた。


「そ、それは良いけど、帰る方角って一緒だっけ?」

「あれ? 三峯先輩、気づいてなかったんですか? あたし、先輩のすぐ近所ですよ?」

「え? そうなのか?」


 はて……? と、圭太は首を傾げる。

 最近、近所に引っ越して来た家庭などあったろうか? 近所に引っ越して来た家があれば同じ自治会である限りは回覧板に新しい名簿が記載されている筈だ。ましてや三峯家は一帯の大地主であるから、そういった情報はどこの家庭よりも直ぐに入って来る。

 しかし、少なくとも去年の初めから新たに引っ越して来た家庭など無かったと圭太は記憶していた。


「でも、自転車通学じゃなかったよな?」


 昨日、今日とヒサゴは徒歩で学校に来ている様子だった。

 圭太も家から学校まで随分と距離があるため、自転車通学が当たり前となっている。当然、同じ地区に住んでいれば徒歩での通学など不可能ではないにしろ、少々無理があるように思えた。


「こう見えて、あたし、結構体力には自信あるんですよ」


 ヒサゴはエッヘンとばかりに胸を張る。つまり、そういう事らしい。


「まあ、そういう事なら……」


 圭太は出来る限り感情を抑えて承諾した。もちろん、内心は飛び上がりたいほどにうかれている。

 そんな圭太ではあったが、いざ学校を出ると二人で何を話して良いものか、頭の中が真っ白になってしまった。

 一方のヒサゴは何の気兼ねもなく、あれやこれやと話しかけてくる。もっとも、話を振ってくれるぶん、舞い上がって思うように話題が出て来ない圭太としては助かったと言って良いかもしれない。


「去年まで別のところで住んでたんですけど、事情があって父とは別居状態だったんです。それで今年の初めくらいから父の家で暮らす事になったんですよ。あたしの水分って名字も父とは違いますしね」


 ところどころぼかした言い方ではあったが、ヒサゴはそんな込み入った事情を臆面もなく説明してくれた。

 しかし、なるほど。そういう事であれば娘であるヒサゴだけが引っ越して来たとしても、圭太が知らなくて当然だったかもしれない。


「じゃあ、どこのお宅なの? オレんちから近いって言ってたよな?」

「直ぐ向かい側ですよ。砥部とべっていうのが父の名字です」

「ああ……あの家かぁ」


 その名前には圭太も多少覚えがあった。

 向かい側の家と言っても道路とネギばかりが植わっている広い畑を挟んで向こう側なので、距離的には五〇メートルほど離れている。あまりつき合いのある家ではないが、砥部とべ淳一郎じゅんいちろうという四十前後の作家が一人で暮らしていた筈だ。


(あの人、ずっと独身だと思ってたけどなぁ……)


 親からもそんな話をチラッと聞いた事があったのだが、深い事情があって他人には話せなかったと考えれば決しておかしな話ではない。ましてや執筆が忙しいのか、あまり近所とのつき合いも積極的に行っている人物でもなかったので、当然のように誰も詮索する者も無かったのだろう。


「ああ、って事はアレか。オレのこと気になるって言ってたのは、直ぐ向かい側に住んでるからかぁ」


 そういう事なら納得も行く。だが、同時に少しだけガッカリもした圭太であった。

 しかし、ヒサゴは何やら思わせぶりに「う~ん……」と唸ると、


「それだけという訳じゃないんですけどねぇ……」


 と、圭太から視線を逸らし、微かに聞こえる程度の小さな声で呟いた。


「え? それって……どういう……」


 落胆から一転、再び圭太の胸が高鳴る。

 妙な期待を抱くと、また落胆が大きくなるだけだと自分に言い聞かせつつも、やはり期待が捨て去れない。

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