蛇口
「おはようございます、先輩」
正門まで来た圭太たちの前に一人の女子生徒が立ってにこやかに出迎えた。彼女はどういうわけか篠原でも玉井でもなく、圭太だけを覗き込むように見上げている。
「え? あ、お、おはよう……」
不意の事に戸惑ってしまう。
いきなり「先輩」と、さも親しげに言われたが、圭太には全く見覚えのない少女だ。
中学三年生のピンバッジを付けているから、この学院の中学生という事はわかる。でも……。
(こんな子いたっけ?)
ただ下の学年という事であれば知らない学生が殆どだから、見覚えがなくても無理はない。が、この少女は普通のそれとは明らかに違う。
セミショートの髪は輝くような銀色。透けるような翡翠色の瞳で目鼻立ちも一つの完成された芸術品のように整っている。背は平均より少し低めくらいだが、それが寧ろ可愛らしさを引き立てていると言って良い。
こんな少女が学校に一人でもいれば当然のように目立つし、例え関わりの薄い別の学年であっても知らない筈がなかった。
「高校入学おめでとうございます。……って言っても、学校は同じでしたね」
少女はペロッと舌を出してイタズラっぽく笑う。
普通の女子がやったらあざとさが目立って鼻につくような所作なのに、この目の前にいる見知らぬ後輩がやっても不思議と嫌味がない。
「あ、これから入学式なんですよね。引き止めてすみませんでした。じゃあ、また機会があれば会いましょうね、三峯先輩」
「え……? あ、ああ……」
謎の後輩は手を振って中学の校舎へと去って行った。
(何でオレの名前まで知ってんだ?)
何度、記憶を探ってみても、やはり圭太には覚えがない。それでも彼女の方は明らかに圭太を知っている様子だった。それも、ただ知っているというだけではなく、まるで何度か話した事のあるような態度だ。
「おいぃぃぃぃ! 今の可愛い子、誰だよ! おまえにあんな知り合いがいたなんて聞いてないぞ!」
と、まあ、見るからに恋愛運に見放されていそうな篠原が案の定、今にも食い殺そうと言わんばかりの凄まじい剣幕で圭太に迫った。
「い、いや、オレだって知らねぇんだ!」
「また、そんなこと言って……さてはテメェ、あれだな? 俺がこれまでに二十七回も女子にフラれたのをよそに自分は陰でこっそり……」
篠原の目が据わっている。
二十七回もフラれたというのは圭太も初耳だったが、それにしても被害妄想もここまで来ると哀れに思えて来る。
「本当に覚えがないんだ!」
「覚えがない……だぁ? テメェ、まさか酔った勢いで……」
「オレが未成年だという事を忘れないで欲しいんですがぁ~」
邪推とは言っても、篠原のリア充に対する嫉妬心というのは一度火が点くと実に厄介だ。
この場で一緒にいる玉井が止めてくれると圭太としても助かるのだが、玉井は玉井で、
「あんなキレイな子、うちの学院にいたんだぁ……。純粋な日本人じゃないよね? ハーフかなぁ?」
と、感心したように少女の去った方をいつまでも見つめている。
女子の目から見ても感想は一緒らしい。確かに圭太が見ても、話しかけられてドキッとするくらいには可憐で、妖精だとか天使だとかいった例えが相応しいと言えるかもしれない。
「でも、やっぱり玉井や篠原も見覚えないのか……」
という事は、昨年度までは、この学校にいなかった可能性が高い。かと言って、中学三年生であるらしい事は彼女の制服に付いていたピンバッジでも分かる。だから新入生ではなく編入生という事だろうか?
(でも、それだったら何でオレのことを知ってたんだ?)
名札でも付いていたのなら理由として説明もつくが、それすらない現状では、いくら考えても全くといって良いほど明確な答えが出て来なかった。
そして再び歩きながらぽつりと玉井がひと言……。
「ところであの子の髪につけてたヘアピン……何のキャラだろう?」
「ああ……それな……」
外見は稀に見るほどの美少女と言って良いのだが、彼女のしていたヘアピンは誰がどう見ても不細工としか思えない変な河童の顔がついていたのだ。どうも美的センスには難があるのかもしれない。
***
生徒たちにとって、ただ怠いだけの入学式が終わり、クラス分けの為にそれぞれが指定の教室にぞろぞろと向かう。
圭太と玉井は何の因果か、またしても同じクラスであった。
「あんたともつくづく縁があるようで」
玉井は自分の星回りを呪うかのような顔で「フッ」と鼻でため息をもらす。
「もはや呪縛だな……」
廊下を歩きながら圭太も力なく微笑した。
高校の校舎は中学の校舎とそう違いもない。どちらも四階建てで、明確な違いがあるとすれば、中学校校舎の屋根はモスグリーンの切妻屋根がついているのに対し、高校の校舎は鉄筋コンクリート製の建物によくある陸屋根で、屋上に貯水槽があるという程度の違いだった。
内装もほぼ一緒で階段に面した廊下に必ずと言って良いほど水道場が設置されているといった具合。
圭太たち一年生の教室は校舎二階にあるため階段を上がる必要があるのだが、教室へ向かうため一階から二階へ上がったところであった。
――パァンッ!
目の前で急に何かが弾けるような音がしたかと思うと、キラリと鈍色に光る物体が圭太の頬を掠めて後方にある階段の踊り場まですっ飛んで行った。
「な、なん……?」
一瞬、何が起こったか分からず呆然と立ち尽くす。
見れば目の前にある水道の蛇口が一つだけ無くなっていて、そこから凄まじい勢いで水が噴き出していた。
今し方、圭太の頬を掠めて飛んで行ったのは、その水が噴き出している管に付いていた筈の蛇口……。それが階段の踊り場に転がっている。
「み、三峯、大丈夫?」
さすがに玉井も間近でその瞬間を目撃していたから、心配そうに圭太の顔を覗き込む。
「あ、ああ……」
辛うじて返事はできたが、思い返してみるとゾッとする。もし、圭太の位置が僅かにでもズレていたら勢いよく飛んで来た蛇口が顔に命中していただろう。そうなれば圭太もただでは済まなかった筈だ。
「皆んな大丈夫? 怪我はない?」
圭太たちの後ろを歩いていた他のクラス担任が血相を変えて階段を上がって来た。同時に廊下の先を歩いていた圭太たちのクラス担任も引き返して来る。
「どうかしましたか?」
「ああ、椋梨先生。どうも急にそこの蛇口が飛んで来たようでして……」
「これは……。とりあえず先に元栓を閉めておきましょう」
椋梨と呼ばれた圭太たちのクラス担任はしゃがんで水道場の下に手を伸ばす。やがてマーライオンの如く噴き出していた水の勢いも弱まり……そして止まった。が、おかげで辺りは水浸しだ。
「それにしても妙ですねぇ……。ここの蛇口は春休み中に全て付け替えたばかりなんですけど……」
「設置した業者に不手際があったのかもしれませんね。あとで確認しておきましょう。とにかく生徒たちに誰も怪我人が出ていなくて良かった」
椋梨先生は安堵の色を浮かべた。その顔は心から生徒たちを心配していた様子で、それでいて可能な限り生徒たちに動揺を与えないようにしている。
なるほど、これが話に聞いていた椋梨先生その人だ。四十過ぎのガッシリした体格を持つ男性だが、その顔は実に穏やかで、しかもどこか知的な雰囲気を漂わせている。「良い人」という噂は確かなのかもしれない。
だが、その椋梨先生も生徒たちが再び教室へ向かって歩き始めると神妙な面持ちで蛇口の抜けたあとを見つめている。遠目ではあったが、圭太も椋梨先生がそんな顔をしている理由はわかった。
蛇口の抜けた場所はぽっかりと穴が開いている状態なのだが、その周囲が内側から何か強い力で押し出されたかのように接地面であるステンレス板を破れた段ボールのように変形させてしまっている。
果たして設置業者の不手際で硬いステンレス製のシンクがこんなふうに破れてしまうものだろうか?
椋梨先生の表情はそんな違和感を抱いての事だろうし、圭太も同様であった。
ともあれ、椋梨先生の言う通り誰一人として大事に至らなかったのは幸いで、教室でひと通りの説明が済み、下校する頃には圭太もそんなアクシデントがあった事などすっかり忘れていた。
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