第119話 宿怨(二)

 成夏国せいかこく華昌国かしょうこくが正式に戦争状態に突入したのは、両軍の戦端が開かれてから数日後のことだった。

 父王・夏賢かけんに代わってあらたに成夏国王となった夏賛かさんは、自軍が奇襲によって国境地帯を制圧し、進軍のための橋頭堡を築いたことを確かめてから、あらためて宣戦を布告したのだ。

 青年王の不調法なふるまいが諸国の失笑を買ったのもつかの間のこと。

 どちらも互角の国力をもつ中原の大国同士であり、また華昌国には地の利もある。

 国境付近での睨み合いに終止するというおおかたの予想に反して、戦局は信じがたい方向に推移した。

 緒戦で後手に回った華昌国軍は、その後も柳機りゅうき率いる成夏国軍の前になすすべもなく敗走を重ね、各地の城市はまたたくまに陥落していったのである。


 それも、ただ占領下に置かれただけではない。

 華昌国の民を待ち受けていたのは、成夏国軍による凄まじい殺戮と略奪だった。

 成夏国軍の電光石火の進軍は、軍事作戦に欠かせない兵站をまるっきり無視することによって成立している。

 鈍足な輜重隊を切り捨て、最低限の糧秣だけを携行させた騎兵と戦車からなる機動部隊を突出させることで、急速に支配地域を拡大していく。それこそが柳機が打ち立てた画期的な戦略原理ドクトリンであった。兵站線という重い枷から解き放たれた部隊は、従来の用兵の常識では測れない柔軟な運用を可能としたのである。

 むろん、いつまでも兵站が切れたままでは軍組織は維持出来ない。前線の兵士たちは数日と経たぬうちに深刻な飢餓に陥り、戦わずして成夏国軍は自壊する。

 その解決策として考案されたのは、補給を外部に求めること――すなわち、敵地からの仮借ない略奪だ。

 あくまで自前の兵站線が構築されるまでの姑息的な措置とはいえ、十万からの軍団が必要とする日々の食糧は膨大な量におよぶ。

 成夏国軍の兵士たちは、華昌国の城市や村落に飛蝗いなごのごとく襲いかかり、厳しい冬を乗り越えるために貯蔵されていた物資を根こそぎ奪っていった。

 勇敢にも抵抗をこころみた者が見せしめに惨殺されたことは言うまでもない。

 あるいは従容と食糧を差し出したとしても、たまたま兵士たちの虫の居所が悪かったなら、やはり戯れ半分に殺されたのだった。

 成夏国軍が前進するたびに、街道沿いには屍体の山がうず高く築かれた。

 当初は生きるためにやむなく行われていた狼藉は、いつしか殺戮のための殺戮といった趣を帯びるようになっていった。

 

 戦禍に見舞われたのは市井の人々だけではない。

 華昌国において、一朝事あれば王侯貴族の男子は率先して戦場に赴くものとされている。

 率先垂範を是とする建国以来の美風は、しかし、結果として彼らに取り返しのつかない打撃を与えることになった。

 開戦からわずか一月ひとつきほどのあいだに、主要な王族が相次いで戦死したのである。

 一族のなかで最初の犠牲者となったのは、国王・昌厳しょうげんの従兄弟にあたる昌偉しょういだった。歴戦の将軍として国王の信頼も厚かった彼は、みずから軍勢を率いて成夏国せいかこく軍に立ち向かい、乱戦のなかであえなく討たれたのだ。

 その後も王族や名門の当主が次々と壮絶な討ち死にを遂げるに至って、出血は社会のあらゆる階層へと広がっていった。

 そして、彼ら将兵の生命をなげうった奮闘もむなしく、華昌国は日を追うごとに国土を蝕まれていったのだった。


 敗北と死の連鎖が北の大国を絡め取っていく。

 華都かとの王宮には、おもわず耳を覆いたくなるような凶報が昼夜の別なくもたらされる。

 国王・昌厳しょうげんは、生きながらにして肉を削ぎ落とされるような辛苦を味わったすえに病を得、そのまま不帰の客となった。

 亡き父の遺言に従って登極を果たしたとき、昌盛しょうせいはわずかに十七歳。

 父親の喪に服す暇もなく、歴代の国王が欠かさず行ってきた祭儀さえ省略して玉座についた少年王の瞳は、いつしか氷の冷たさを帯びていた。

 夏琴麗かきんれいを喪ったあの日から、昌盛の心は凍てついたままだった。

 滅亡の危機に瀕した祖国も、いまこの瞬間も殺されていく民と兵の運命も、昌盛の胸になんらの感情を呼び起こすことはない。

 昌盛は無意識のうちに感受性を鈍麻させることで、狂気に陥ることを免れたのだった。国家の危難にあっては、王には狂うことさえ許されないのだ。

 暗くうつろな胸のうちで、夏賛への憎しみだけが熾火おきびのように燃えつづけていた。

 昌盛にとって、それは乾ききった心に唯一残った人間らしい感情であった。


――夏賛を殺す。この手で、かならず報いを受けさせてやる。


 戦況に変化が生じたのは、それからまもなくだった。

 厳冬期の訪れとともに成夏国軍の進軍が止まり、戦線は膠着状態に陥った。

 さしもの柳機も、道という道を埋め尽くす豪雪にはなすすべもなかったのである。

 とりわけ戦略の中核を担う騎兵と戦車は機動力をおおきく減殺され、成夏国軍の攻勢はついに頓挫するに至った。

 他方、緒戦で甚大な被害を被った華昌国軍は、あらたに総司令官に就任した魏浄ぎじょうの下で再編され、各地でねばり強い抵抗を展開していった。

 一時いっときは華都の手前まで迫った成夏国軍は、じょじょに戦線を後退させた。略奪による物資調達がいよいよ限界に達し、本国との兵站をあらためて構築する必要に迫られたのである。


 成夏国軍が華昌国から引き上げたのは、それから四年あまり後のこと。

 ようやく危機が去ったことに安堵しても、勝利に浮かれ騒ぐ者はいなかった。

 それも当然だ。長引く戦争によって国土は荒廃し、北の大国は見る影もないほどに衰退しきっていた。

 さらには総人口のおよそ三割――青壮年男子に限っていえば半数近くにもおよぶ途方もない人的被害は、華昌国の前途になお暗い影を落とした。

 変わり果てた国土、そして疲弊した人民……。

 若き王の双肩にのしかかったのは、勝利よりもなお困難な復興の使命だった。

 それから三十年の歳月を経て、華昌国はふたたび中原の強国に返り咲いた。

 復讐の一念が、昌盛をして中興の祖となさしめたのだ。


――いずれ余みずから軍勢を率いて成夏国に攻め入り、夏賛を討つ。


 昌盛の生涯を費やした悲願は、しかし、夏賛の死によってあっけない幕切れを迎えた。

 降って湧いたに華昌国じゅうが狂喜するなかで、昌盛は自身の虚無と向き合うことを余儀なくされた。

 側近や親族にも悟られぬよう巧妙に取り繕ってはいたものの、人生の目的を奪われたに等しかったのである。落胆の一語では尽くせぬ喪失感に襲われたのも無理からぬことであった。

 夏賛の娘が生きていたという一報に触れたとき、昌盛の心に広がっていったのは、憎しみと歓喜が綯い交ぜになった奇怪な感情だった。


***


「夏賛は死んだ。余はとうとうあやつを討つことが出来なんだ」


 昌盛はひとりごちるように言って、夏凛を見やる。

 相変わらずするどい視線には、しかし、どこか自嘲するような色合いが混じっている。

 やがて夏凛はおそるおそる口を開いた。

 

「国王陛下は、私にお父様の罪を償えと……?」

「そうすれば余の気が晴れると思うか」

「分かりません。でも、私は夏賛の娘です。憎まれても仕方がないことは分かっているつもりです」


 昌盛はふっとため息をつくと、夏凛から視線をそらす。


「余はそのほうを殺すつもりだった。夏賛の血を残しておいたところで、天下には百害あって一利もない」

「それでは――」

「だが、気が変わった」


 昌盛はすげなく言って、あらためて夏凛を見やる。


「そのほうを殺したところで、今さら時は戻らぬ。夏賛への憎しみが消える訳でもない。実の娘とはいえ、そのほうと夏賛は別の人間なのだからな」

「国王陛下……」

「どこなりと好きなところに行くがいい、夏凛。余はもはや追わぬ。成夏国王の血筋はすでに絶えたのだ。そのほうは成夏国とは無縁の女子おなごとして、血なまぐさい戦や政治まつりごとから離れて生きるがよかろう」


 昌盛の言葉には、疲れ果てたような響きがある。

 夏琴麗と死別してから今日まで、夏賛への憎しみだけを糧に国を率いてきた。

 いま夏凛と向き合った昌盛は、あらためて怨敵を永遠に失ったことを思い知ったのだった。

 もはやどうあがいても宿願を果たすことは出来ない。その事実を突きつけられて、昌盛の心をうそ寒いものが吹き抜けていった。

 夏凛はしばし驚きに目を瞠ったあと、居住まいを正して昌盛に向き直った。


「お心遣い痛み入ります。ですが、国王陛下のご意向でも、それは承服できません」


 まともに視線がかち合った瞬間、たじろいだのは昌盛のほうだった。

 夏凛の黒い瞳には、先ほどまでとは別人みたいに力強い意思が漲っている。

 

「それでも、私は成夏国王・夏賛の娘です。この身体を流れている血からも、お父様が犯した罪からも、逃げるつもりはありません」

「そのほう、自分がなにを言っているか分かっているのか?」

「そのつもりです」

「もはや成夏国は滅び去り、そのほうを王女と仰ぐ家臣や民もいまい。それでもなお父の罪を背負うとは、とても正気の沙汰とは思えぬ――――」


 昌盛の双眸がするどい光を帯びた。

 一国の王として、そう簡単に言を左右にすることはない。

 だが、夏凛の返答如何によっては、一度は鎮まった怒りにふたたび火がつくおそれは充分にある。

 ひりつくような緊張感が場を支配していくなかで、夏凛はあくまで決然と告げたのだった。


「たとえ王族としての地位を失っても、王宮を逐われても、家来がひとりもいなくても関係ありません。私は生命あるかぎり成夏国の王女です。私のために死んでいった者のためにも、私はこの生き方を曲げるつもりはありません」


 夏凛が言い終わるが早いか、昌盛の右手が佩剣の柄に伸びた。

 傍らに立っていた高植こうしょくの面上からさっと血の気が引いていく。主君が目の前の娘を斬り捨てるつもりならば、高植には止める術はない。


「わが華昌国、そして余の夏賛への憎しみも見くびられたもの。たかが小娘ひとりに受け止められるほど生ぬるいものではないぞ、夏凛」

「ここで私を斬ってお父様と成夏国への恨みが晴れるなら、お好きなように」

「ほざくな――――」


 鍔鳴りの小気味よい音に続いて、一条の銀閃が迸った。

 昌盛が抜き打ちに剣を鞘走らせたのだ。

 剣尖まで一点の曇りもなく研ぎ上げられたみごとな長剣は、夏凛の眉間すれすれをかすめて停止した。

 つう、と白い肌に鮮血がひとすじ流れ落ちていく。

 あと半歩踏み出していれば少女の生命を断っていたはずの斬撃は、薄皮一枚を裂くだけに終わったのだった。

 昌盛は剣を鞘に収めると、厳かな声で問うた。


「そのほうは死ぬのが恐ろしくはないのか? なにゆえ我が身を危険に晒すような真似をする?」

「怖くない――と言えば嘘になります」

「余の提案を容れ、成夏国のことは忘れて平穏に生きるとひとこと言えば、このような目に遭うこともないのだぞ」

「もしはいと答えたなら、たとえ生命が助かっても私は生きている意味がなくなります。私は、私をここまで生かしてくれた人たちの思いを裏切ってまで生きながらえるつもりはありません」


 きっぱりと言い切った夏凛は、そのまま身動きが取れなくなった。

 昌盛が口辺にかすかな笑みを浮かべるのを認めたためだ。これまでとはまるで異なる表情に、夏凛も困惑を隠せなかった。


「やはり、血は争えぬか」

「え……?」

「夏琴麗とそのほうはよく似ている。あの娘も、やはり強情で頑固なところがあった。最期まで自分の運命から逃げようとしなかったところもな」


 昌盛の瞳が見つめるのは、夏凛であって夏凛ではない。

 何もかもが色褪せつつある記憶のなかで、唯一あざやかに残り続ける可憐な面影。

 いま、昌盛の眼裏まなうらにありありと描き出されたのは、戦が起こらなければ自分の妻となるはずだった少女の面影だった。

 彼女もまた、成夏国の王女であることから逃げようとはしなかった。結果的にみずからの生命を断つことになっても、愚直に運命と向き合うことを選んだ。


「夏凛、そのほうの望みを申してみよ」

「国王陛下のおっしゃっている意味が分かりかねます」

「難しく考える必要はない。そのほうの目的は成夏国を再興することか。それとも、朱鉄を討ち、父と一族の復仇を果たせばそれで満足か」


 わずかな沈黙のあと、夏凛は震える声で言葉を紡ぎはじめた。


「私は成夏国を再興することが出来るとは思っていません」

「ふむ」

「私が生まれ育った成夏国は、二年前に失われてしまいました。たとえ朱鉄を倒したとしても、一度壊れてしまった国はもう元通りにはならないはずです」

「ならば、朱鉄を倒すことがそのほうの願いということか」

「はい。ですが、私は――――」


 部屋の外でけたたましい音が生じたのはそのときだった。



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