第118話 宿怨(一)
闇の色がすこしずつ室内に忍び込んでいった。
それぞれひとつしかない出入り口と開き戸はどちらも厳重に封じられ、外界の様子は杳として伺えない。
それでも、廊下で立哨にあたっている兵士たちの気配は壁越しに感じることが出来る。
万が一にも夏凛が脱走することのないよう、彼らは戦時もかくやという緊張感を持って警備の任についているのだ。
実時間にすればまだ一日と経っていないにもかかわらず、もう何年もこの場所に軟禁されているような気がする。
わずかに薄目を開いて、夏凛はほうとちいさくため息をつく。
ありありとよみがえるのは、あのときの華昌国王・
いままで経験したことのないほどの激しい憎悪と怨嗟に彩られたその視線は、夏凛の心を凍てつかせるのに十分だった。
(でも……たしかに……)
華昌国王の眼に、憎しみとは異なる感情が一瞬よぎったような気がするのは、はたして夏凛の思い過ごしだったのか。
いくら考えたところで答えは出ない。
当人に確かめようにも、このさきふたたび国王と相まみえる機会があるかどうかさえ定かではないのだ。
夏凛がこれからどのような運命を辿るかは、昌盛の胸三寸にかかっている。
もし国王が成夏国王家の血を完全に絶やすつもりなら、夏凛はすぐさま刑場に引き出され、なすすべもなく生命を奪われるだろう。
たとえいますぐ処刑されなくても、国王が自分をいつまでも生かしておくとは到底思えなかった。
華昌国と
たとえ将来的に破綻することが明白な関係であったとしても、いまのところ両国が同盟国であることに違いはないのだ。
友邦としての義理を果たすため、華昌国が夏凛の身柄を
事態がどう転んだとしても、自分が助かる公算は薄い。
冷静に自分の置かれている立場を認識しても、夏凛はいまさら怖気づくこともなかった。使節として華昌国に赴くと決めたときから、こうなることは覚悟の上だったのだ。沙蘭国王の意向を華昌国王に直接伝えるという使命は果たしおおせた以上、いまさら我が身を惜しむ理由もない。
ただひとつ気がかりなのは、捕らえられた怜と
もっとも、彼らほどすぐれた武将であれば、華昌国王もみすみす殺すような愚は犯さないはずだった。
その才幹を見込んで配下に加わるよう勧誘されるにせよ、あるいは沙蘭国に送還されるにせよ、あの二人には助かる道はまだ残されている。
自力ではこの状況をどうすることも出来ない夏凛にとって、それはなによりの救いでもあった。
と、ふいに部屋の外で物音が生じた。
夏凛が音のしたほうへすばやく視線を巡らせたのと、入り口の戸が開いたのは、ほとんど同時だった。
部屋に足を踏み入れたのは、軽装の
その顔にはたしかに見覚えがある。王宮で夏凛を取り囲んでいた将軍たちのひとりだ。
もっとも、
「そこを動くな、成夏国王の娘」
高植はおごそかな声で言い放つと、ちらと背後に目をやる。
その険しい顔には、隠しようのない困惑と懸念の相がありありと浮かんでいる。
やがて高植はあらためて夏凛に向き直ると、低い声で告げたのだった。
「国王陛下の御入来である。おかしな真似をすれば、即座に首を刎ねられるとおもえ――」
予想もしていなかった高植の言葉に、夏凛は身体を強張らせていた。
一国の君主である国王が、みずからこのような場所に足を運ぶ。
常識的に考えればおよそありうべからざる事態に、とても思考が追いつかないのだ。
そんな夏凛の戸惑いをよそに、数人の兵士たちを従えた高植は無遠慮に部屋に踏み込んでくる。
彼らの背後から姿を現したのは、はたして、華昌国王・
「国王陛下の御前である。控えよ!!」
あっけにとられたように見つめる夏凛を、高植のするどい叱声が現実に引き戻した。
あわてて身を屈めようとした夏凛を片手で制したのは、意外にも昌盛だった。
「よい――」
「しかし、国王陛下……」
「余がかまわぬと申しているのだ」
主君にそのように言われては、高植としてももはや抗弁は出来ない。
不本意ながらもすごすごと引き下がった禁軍の指揮官は、じっと夏凛を睨めつけるのが精一杯だった。
「
昌盛に言われるがまま、夏凛はためらいがちに顔を上げる。
予期せず目が合った。
獲物を見下ろす猛禽のようなするどい眼光は、王宮で対峙したときと寸分違わぬものだ。
冷たい水のなかに投げ込まれたような怖気が身体を包んでいく。肌がふつふつと粟立っていくのが手に取るように分かる。
それでも、夏凛はけっして目をそらすまいと、懸命に自分自身を奮い立たせる。
やがて口を開いたのは昌盛だった。
「なぜ余がここにいるのか解せぬという顔をしているな」
「そう見えますか」
「余はそのほうと話をするためにここへ来た。それ以外の理由はない」
昌盛はそれだけ言うと、両の瞼を閉じる。
突き刺さるような視線がふいに消失したことで、夏凛はようやく人心地がついたようだった。
「夏凛。そのほうは、なぜ余がこれほどまでに成夏国を憎んでいるのか不思議であろう。愚かとさえ思っているのではないか」
「国王陛下、それは……」
「隠さずともよい。そのほうは、おそらくこうも思っているはずだ。なぜ自分が生まれてもいなかったころの出来事を理由に責められねばならぬのか。あまりにも理不尽ではないか――――と」
「……はい」
昌盛の問いに、夏凛はちいさく肯んずる。
首を縦に振る。
たったそれだけの所作でも、この状況ではありったけの勇を鼓する必要がある。
先ほど玉座の間でそうしたように、昌盛は怒りに任せて佩剣を抜き放たないともかぎらないのだ。今度こそひと思いに首を刎ねられるかもしれない。
そんな予想に反して、昌盛は顔色ひとつ変えず、苦々しげに眉根を寄せただけだった。
「そのほうの父……
「どういうことですか……?」
「夏賛には同腹の妹がいた。成夏国がわが国に攻め入らねば、いずれ余の妻となるはずの女であった」
昌盛の言葉を耳にしたとたん、夏凛の顔からさっと血の気が引いていった。
成夏国と華昌国のあいだに姻戚関係があったことに驚いている訳ではない。
長い歴史を通して、七国においては王族同士の婚姻外交がさかんに行われてきた。
聖天子の系譜は複雑に交差し、どの王家もすべての国の血を引くようになって久しいのである。
夏凛自身、半分は沙蘭国の血を引いているのだ。系譜をさらに遡れば、昌盛とも遠い親戚ということになるだろう。
それでも、父の妹――夏凛にとっては叔母にあたる人物が華昌国王のもとに嫁ぐ予定だったなどとは、正真正銘これが初耳であった。
夏凛の動揺を看取したのか、昌盛は薄目を開くと、努めて落ち着いた声で語り始めた。
「そのほうが知らぬのも無理はない。わが王家はむろんのこと、成夏王家の族譜でも、そのような女は最初から存在しなかったことになっているのだからな」
「その方の名前は……?」
「
昌盛の声は、いつのまにかひどく沈鬱な響きを帯びるようになっている。
夏凛の心からすこしずつ恐怖が薄れていったのは、もはや昌盛に敵意がないことを感じ取ったためだ。
彼方を見つめる王の瞳に映るのは、二度とは帰らぬ遠い日の情景だった。
***
三十年あまりも昔のこと……。
時あたかも華昌国の短い春がまもなく終わろうかというころだった。
王族の男子に課せられる一年間の武者修行の旅を終え、ようやく
見覚えのない顔に当惑を隠せない昌盛に、少女は落ち着き払った様子で一礼すると、
――私は近いうちにあなたさまの妻になる女にございます。
こともなげにそう言いのけて、いまだ色を知らなかった純朴な王子を仰天させたのだった。
時に昌盛は十六歳、夏琴麗は十五歳。
そもそもは父である華昌国王・
その裏では、中原の勢力均衡をもたらそうとする双方の政治的な意図が働いていたことは言うまでもない。かねてより周辺国との小競り合いに悩まされていた両国にとって、二大勢力の融和の演出は他国に対するなによりの抑止力になると期待されたのだ。
それからとんとん拍子に話は進み、正式な婚礼に先だって、成夏国の姫である夏琴麗は行儀見習いのために華昌国の王宮に赴いたのだった。
すべては昌盛が武者修行に出ているあいだ、つまり一方の当事者である彼のまるで与り知らぬところで進行したことであった。
当初は降って湧いたような結婚話に困惑し、あまりに身勝手な親同士の決定にはげしく憤った昌盛だが、それもつかのまのこと。
王宮で顔を合わせるたびに、昌盛はすこしずつ琴麗に惹かれていった。
勉学と武芸にひたむきに打ち込むあまり、
――この
やがて半年が過ぎるころには、昌盛と夏琴麗は相思相愛の間柄となっていた。
もっとも、正式な婚礼を挙げるまでは、二人はあくまで仮の
逢瀬の際にもつねに従者が付き従い、会話の内容は彼らによって逐一記録される。
どちらも不満を漏らさなかったのは、不自由な日々がそう長く続かないと理解していたからだ。
やがて婚儀の日取りが決まると、昌盛の心はかつてないほどに弾んだ。
一方の琴麗はといえば、昌盛とは対照的に、日に日にふさぎ込むようになった。
どうしたのかと問うた昌盛に、琴麗は寂しげにふっと微笑むと、
――近ごろ、
そう言って、整った顔を俯かせたのだった。
琴麗の同母兄である
昌盛より十歳ほど年上の王太子・夏賛は、幼いころから英邁さをもって近隣に知られた男だった。
八歳にして難解な古典を諳んじ、十歳のときには父王の前で家臣たちが舌を巻くほど雄弁な政治論を披瀝したという噂は、あながち誇張とも言いきれない。
同腹の妹である琴麗と接するうちに、すくなくとも昌盛はかの王太子の優秀さについて疑問を抱かなくなっている。琴麗にしても、もし男子に生まれていたなら、あるいは自分よりも立派に国王をやってのけたはずであった。
親たちの世代に目を向ければ、現在の成夏国王である
世嗣である夏賛が次期成夏国王として登極するのもそう遠い未来のことではない。
いずれ王となるのは昌盛も同じだ。そうなれば、あくまで義理とはいえ、中原の二大国家に兄弟王が誕生することになる。
王太子としてすでに充分な名声を得ている夏賛は、国王となっても成夏国を正しく導くだろう。
大国の王が理性と徳を備えた人物ならば、あるいは天下に絶えて久しかった泰平の世がふたたび到来するかもしれない。
しょせん絵空事にすぎないと頭では理解しながら、昌盛は、それでも無益な争いとは無縁の穏やかな世界を夢想せずにはいられなかった。
――
昌盛の慰めに、琴麗はあいまいに頷くばかりだった。
それから何事もなく日々は流れ、婚儀の日まであと
王族の男子にとって秋は狩猟の季節である。昌盛もご多分に漏れず、幼いころから狩りに親しんできた。
その日も家臣たちを引き連れて、鹿狩りのために華都から半日ほどかかる山林に出かけていったのである。
王宮からの伝令が一行のもとに馳せかけてきたのは、狩りも佳境に入ったころだった。
いったい何事かと問うた昌盛に、伝令はほとんど死人みたいな顔で告げた。
――成夏国の軍勢が西の
真偽を確かめるより早く、昌盛は愛馬を走らせていた。
馬が潰れることも恐れずがむしゃらに駆け続け、やがて華都に入った昌盛の目に飛び込んできたのは、
一般の国軍だけでなく、王宮を守護する禁軍までもが臨戦態勢に入っている。
よほど喫緊の事態が
やはり成夏国が華昌国に攻め入ったという報せは真実だったのだ。
昌盛の胸に黒ぐろとした予感が沸き起こった。努めて考えまいとしていた想像がたちまちに脳裏を埋め尽くしていく。
王宮に駆け込んだ昌盛は、そのまま十二ある離宮のひとつに足を向けた。
侍女や護衛兵の制止を振り切って、強引に邸内に押し入った昌盛は、それきり一歩も動けなくなった。
自分の妻となるはずだった女は、嫁入り道具の
琴麗は
たったひとつ、兄の暴挙への謝罪の言葉をしたためた遺書だけをのこして。
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